概要
1945年12月1日生まれ。本名・寺島純子(旧姓:俊藤)。父はのちに東映や藤映像プロダクションでプロデューサーを務めた俊藤浩滋。父の疎開先である和歌山県御坊市で生まれ、5歳の時に大阪市に移住し、父が多忙だったため母と祖母に育てられる。
中学時代に宝塚歌劇団に憧れて宝塚音楽学校への受験を行おうとしたが、これには父・浩滋の反対があり実現しなかった。
その後四條畷学園高等学校に進学。1962年、2年生のときによみうりテレビの歌謡番組『ハイハイ、マヒナです』のカバーガールとして姉・允子と共に出演しており、17歳の時点で大阪の芸能プロダクションに所属していた。同年一家が京都に転居したため、京都女子高等学校に転校し、そこで卒業。
1963年、当時テレビで共演をしていた名和宏から「松竹のカメラテストを受けてみないか」と誘われ、当時松竹・東映も当時京都に撮影所があったため、両方行って父・浩滋にも会いに行くこととなり、松竹のテストを受けた後、父の勤務先である東映京都撮影所に行った際に当時プロデューサーとして知られたマキノ雅弘(長門裕之・津川雅彦の母方の叔父)にスカウトされる。父・浩滋は自分の仕事場に娘が出入りされるのが嫌で猛反対したが、マキノが「俺が責任を持つから、お前は黙っていろ」と父を説得させた。マキノから藤 純子(ふじ すみこ)の芸名をもらい、同年の映画『八州遊侠伝 男の盃』で千葉真一の恋人役でデビューした。ちなみにデビュー直前、父・浩滋が東映で働いていたことを知らなかったのは有名な話である。
この間にもテレビドラマ『スチャラカ社員シリーズ』にも端役ながらレギュラー出演するほか、1966年にはNHK大河ドラマ『源義経』のヒロインである静御前を演じた。この時、のちに夫となる四代目尾上菊之助(現・七代目尾上菊五郎)と出会う。
1967年、『尼寺㊙物語』で初主演、1968年、当時の東映常務兼企画製作本部長・岡田茂が企画した『緋牡丹博徒』の主役に抜擢される。このとき、岡田は父・浩滋に気付かれないよう極秘に呼ばれ、「オヤジは照れてよう口説かんだろうけど、片肌脱げるか。そして入墨入れろ」と説得し、「分かりました」と即答した。
背に彫った緋牡丹の刺青を見せる『緋牡丹博徒』については、当初は肌を見せることに抵抗があり、出演を拒んでいたが、父に説得されて渋々応諾したという経緯がある。しかし『緋牡丹博徒』の人気を直に感じて「父の凄さを初めて理解した」と回想している。同作で主題歌も歌い、映画も大ヒットし、主人公・緋牡丹のお竜(矢野竜子)は、最大の当たり役となってシリーズ化された。
1972年、前述の『源義経』で共演した四代目菊之助と結婚し、梨園のしきたりに従い、当時は引退とされるが女優業を休業する。
1973年に長女・寺島しのぶ、1977年に長男・五代目尾上菊之助(2025年から八代目尾上菊五郎)をもうける。
1974年、本名の寺島純子(てらしま じゅんこ)でフジテレビのワイドショー『3時のあなた』の司会に就任し、「司会者」として芸能界に復帰。1977年より前述の長男出産・育児のため3年間、番組を一時降板したが、1980年より復帰。その後1990年まで歴代司会者では森光子に次いで2番目の長寿司会在任となった。1983年にはNHK『勇者は語らず いま、日米自動車戦争は』で女優としても復帰。
1989年には、ファンのアンコールもあって高倉健との『あ・うん』で映画への出演を再開。この際「白紙の新人女優としてスタートしたい」、「寺島は夫の名字」との意思から芸名を富司純子(ふじ すみこ)に改めた。
主な出演作
映画
「八州遊侠伝 男の盃」- お千代 ※デビュー作
「緋牡丹博徒シリーズ」 - 緋牡丹のお竜
「あ・うん」- 水田たみ
「舞妓はレディ」 - 小島千春
「エイプリルフールズ」 - 櫻小路文子
ドラマ
「勇者は語らず」 - 正木玲子
「琉球の風」 - 尚永王妃
「天花」 - 鈴木美子
「偽装の夫婦」 - 陽村華苗
「ちかえもん」 - 杉森喜里
「大誘拐2018」 - 柳川とし子
劇場版アニメ
「海獣の子供」 - デデ