憧れるのをやめましょう
あこがれるのをやめましょう
2023年3月21日、前日の準決勝で、メキシコ代表に劇的なサヨナラ勝ちを収めて決勝進出を決めた侍ジャパン。
そんな彼らの前に最後に立ちはだかるのは、近代野球の宗主国であり、世界に名だたるスーパースター選手を多数擁するアメリカ代表であった。
そのアメリカ代表との大一番を前に、チームの中心選手の1人であった大谷翔平選手が選手一同を鼓舞するために以下のスピーチを行った。
「僕からは1個だけ。
憧れるのをやめましょう。
ファーストにゴールドシュミットがいたり、センターを見ればマイク・トラウトがいるし、
外野にムーキー・ベッツがいたり…。
野球をやっていれば誰しもが聞いた事のあるような選手たちがやっぱりいると思うんですけど、
今日一日だけは憧れてしまったら越えられないんで。
僕らは今日越えるために、トップになるために来たので。
今日一日だけは、彼らへの憧れを捨てて、勝つ事だけを考えていきましょう。
さぁ、行こう!」
大谷選手のこのスピーチを聞いた侍ジャパンの士気は大いに上がり、結果、アメリカ代表との接戦を制して14年振りの王座奪還を果たしたのだった。
…とこれだけ書くと、強敵を相手に若干気が引けていたチームメイトたちを大谷が鼓舞して奮起させたかのように思えるが、どうやら実際は違ったらしい。
監督を務めた栗山英樹氏によると、試合前にチームの通訳を務めていた水原一平氏が3ダースほどのボールを持ってやってきたため、何事かと調べてみると、なんとすべてマイク・トラウト選手のサインボールだったという。
どうやら、選手の誰か(関係者の話では周東佑京選手とする見方が濃厚)が「トラウト選手のサインボール貰えるのかな」と言い出したのを、水原氏がトラウト選手にダメ元で連絡を入れて頼んでみた(※)ところ、「OK! 何だったらチーム全員分のサインボールを用意するよ!!」と快諾してもらえたのだという。
※ 水原氏は当時大谷選手とトラウト選手の在籍していたエンジェルスの専属通訳であった。
結局、ボールはトラウト選手の意向通り、チーム全員に行き渡ることとなり、選手一同は大喜びだったというが、一方でどこかチームに気の緩みのようなものが生じてもいたようで、それを感じ取った大谷選手が今一度チームの気を引き締めるためにあのスピーチをした…というのが真相だったようだ。
また、選手の中に表立ってこのスピーチに異を唱える者は当然いなかったが、宮城大弥選手や周東佑京選手は「ここにいる選手が一番憧れているのは。他でもない大谷さんだろうに一体何を言っているんだよ」と心の中でツッコミを入れていたとか(ちなみに、決勝戦のラジオ実況で解説をしていた谷繁元信氏も同様な指摘をしている)。
高橋宏斗選手に至っては、元々メジャーリーグにあまり詳しくなかったこともあり、大谷選手が名前を挙げた選手のことが、トラウト選手以外はピンと来なかったという。
しかし、逆にそれが幸いして物怖じすることなくプレイできたためなのか、決勝戦の3番手で登板した際には、大谷選手がスピーチで名前を挙げた選手のうち、ベッツ選手には内野安打を打たれたものの、トラウト選手とゴールドシュミット選手の2人からは三振を奪う力投を見せている(ただし、本人はかなり緊張していたため誰に投げたのかすらも碌に把握せずに我武者羅に投げていたと語っている)。
決勝戦で捕手を務めた中村悠平選手は、9回裏に大谷選手とトラウト選手の直接対決が実現した際に、「ピッチャーに大谷選手がいて、バッターにトラウト選手がいて、あの瞬間僕は憧れていました。すみません、(大谷選手に)謝ります(笑)」と述懐している(実際、試合時の動画をよく見ると、大谷選手が1球目を投げた後、中村選手はしばらくの間トラウト選手をまじまじと見上げている様子が映っている)。また、本人曰く、前のベッツ選手をゲッツーに仕留めた後で、次の打席がトラウト選手であることに気づき、あまりにも劇的な展開を迎えたことに、非常に驚き動揺したとのことである。
このスピーチはアメリカ側でも話題になっていたようで、試合後、大谷にインタビューしたA・ロッドもこの内容について触れている。更に大谷自身が憧れていた選手について質問されると、まさに今目の前でインタビューをしているA・ロッドやビッグ・パピの名を挙げたことで彼らを感激させた。
WBCが閉幕し、日米でシーズンが無事に終わった2023年のシーズンオフ、WBCで侍ジャパンの一員として出場した、山本由伸選手がMLBの名門球団の1つであるロサンゼルス・ドジャースへと移籍することとなった。
12月28日に入団会見が行われ、その際に山本選手はWBCの決勝戦前で大谷選手が行ったスピーチの一節を引用してこう述べた。
(9:52あたりから)
「今日からは本当の意味で憧れるのをやめなくてはいけません。
自分自身が憧れてもらえるような選手になれるよう頑張ります。」
短いながらも、自身とチームをより高みへと導きたいという山本選手の熱い思い、そして一足先にドジャースへと入団していた大谷選手へのリスペクトがにじみ出た発言であった。
…なのだが、緊張のせいか大事なところでうっかり台詞を噛んでしまい、本人もスピーチ終了後に「大事なところで嚙んじゃったよ…」と恥ずかしそうにしていた。
2006年の第1回WBCでのアメリカ戦(第2次ラウンド)でも、イチロー選手が試合前のウォーミングアップ時に「ジーターがいたり、A.ロッドがいたりするが、僕たちが一番だ」といった発言をし、チームメイトたちを鼓舞していたという。当然、大谷選手はこのことを知らなかったと思われるが、何とも奇妙な偶然である。
また、アマチュア選手がほとんどで、日本代表とは実力差が明らかだったチェコ共和国の代表監督パベル・ハジムも選手達にほぼ同じ内容の言葉で選手達を鼓舞し、日本戦に挑んでいる。
ジャパンを感動させた侍ジャパンの活躍もあり、この台詞も当然ながら「新語・流行語大賞」にノミネートされたのだが、残念ながら最終選考には残らなかった。
この年は、「ペッパーミル・パフォーマンス」や「アレ(A.R.E.)」等、野球関連の言葉が目白押しだったことや、後述の関連項目にもあるが、漫画作品の台詞を改変したものではないのかという指摘があったことなどが原因ではないのかと考えられる。
大会終了後、侍ジャパンに密着したドキュメンタリー映画が公開されたが、そのタイトルは『憧れを超えた侍たち 世界一への記録』となっている。
2024年にKONAMI野球ゲームアンバサダーに就任した大谷選手だが、2024年5月2日公開されたパワプロ2024のOP主題歌に、
「憧れ=限界」だから もういらないよ
そこに留まるなんて もったいないでしょ?
という、大谷選手の言葉を髣髴とさせる歌詞が書かれている。