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長野電鉄2000系

ながのでんてつにせんけい

長野電鉄で使われていた特急形車両。1957年から2012年まで活躍した。
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概要編集

1957年から1964年まで3両編成4本が製造された、長野電鉄初の高性能車両である。1957年の就役から2012年の退役まで、実に55年もの間特急運用に就いており、一時は私鉄最古の特急形電車でもあった。


車種構成編集

モハ2000(奇数)編集

湯田中方に運転台をも持つ先頭車。

サハ2050編集

中間付随車。当初は脱車、または増結が可能であったが、冷房化に伴い補助電源が設置されたことで、不可となった。

モハ2000(偶数)編集

長野方に運転台を持つ先頭車。長野線地下化後は屋上に誘導無線アンテナが付いていた。

編成表編集

編成は番号が小さいものから順にA~D編成と呼ばれていた。

編成モハ2000形(奇数)サハ2050形モハ2000形(偶数)活躍年
A編成モハ2001サハ2051モハ20021957年~2012年
B編成モハ2003サハ2052モハ20041957年~2005年
C編成モハ2005サハ2053モハ20061959年~2006年
D編成モハ2007サハ2054モハ20081964年~2012年

誕生と発展編集

長野県の北信地方に所在する志賀高原は、戦前からスキー温泉等で賑わう観光地で、戦後も訪れる客は少なくなかった。戦後の混乱も落ち着いた頃に長野~湯田中・木島間で急行列車を設定するも、当時の1000系(初代)や1500系はロングシートの吊り掛け駆動車であり、快適性に欠けていた。そこで昭和30年代に思い切ったテコ入れ策として、高性能車両による特急列車の計画が立つ。


まず1957年名鉄5000系(初代)をベースに3両編成2本(A編成ならびにB編成)が日本車輌で製造され、日本初の75kW主電動機を用いるWN駆動と発電ブレーキ付き電気式ブレーキ等の当時の最先端技術を採用し、マルーンに白帯の出で立ちで特急列車のデビューを飾った。スキー客への配慮から回転クロスシートが採用され、冬には座席の間にスキー板を挟む光景が見られた。また扉横のロングシートは冬季にスキー板を置くスペースとして用いることができる設計とされたが、実際にそのように使用されたことはなかったという。

サービス面においても全席を指定席としたり、女子社員の中から選抜された「特急ガール」を案内嬢として乗務させたりと、当時の地方私鉄としては画期的な取り組みを行っていた。

このように、当時としては優秀な性能とサービスをもっていたことから、小田急琴電などから視察が訪れたこともあったという。


当初は2本体制で運用していたが、増発などのために予備車が必要になったことから1959年にもう1編成増備(C編成)され、3本体制となった。この編成が登場したことで、これまで長野-湯田中間のみで運転されていた特急が、野沢温泉にほど近い木島までの間にも運転されるようになった。なお、登場時におけるC編成の先頭車妻面には、ラジオ受信用アンテナテープレコーダーが設置されていたが、山に囲まれてうまく受信できなかったことから、のちに撤去されている。


D編成編集

1964年に新たな特急車の増備が計画され、当初は別形式の「3000系」になる予定だった。

3000系は20m車体をもつ前面展望車両になる予定だったが、山ノ内線の通票閉塞や前下方視野の問題から、運転担当が難色を示してしまった。当時の中の人が名鉄へパノラマカー生みの親である白井昭氏を訪ねて、運用に関するノウハウを伝授してもらい、問題のないことを確認したうえで本社へ戻ったものの、結局は却下されてしまった。

その代替が2000系D編成となり、前面にスカートが付き、長野電鉄初の空気バネ台車の採用、マルーンとクリーム色のツートンカラーで栗まんじゅうと呼ばれていた。このD編成の登場で特急車が4編成となることから、余剰となるA編成を3ドア車へ格下げする構想が浮上したものの、結局実施されずに立ち消えとなっている。

なお、前面展望は2006年小田急10000形を譲受した1000系(二代目)「ゆけむり」で実現する。


その後の活躍編集

塗装変更・改造編集

1966年0系OSカー登場以降は、塗装をりんごと呼ばれる赤とクリームのツートンに順次改められた。

1981年の長野線長野-善光寺下間の地下化に合わせ地下化対応改造が行われ、難燃化、誘導無線の設置(アンテナは長野方先頭車のみ設置)などのほか、前面助士席側窓内へ行先表示の設置が行われた。

平成に入ると1989年1991年に2編成ずつ冷房装置の搭載と車体更新工事行われ、冷房化や窓枠の交換、内装の張り替えなどとともに、塗装が再び変更(ただし冷房化当初は「りんご色」塗装で窓枠を赤に塗装しただけのものだった)された。この頃より回転クロスシートは固定され、集団見合い式の座席配置になった。

1994年には3500/3600系導入に合わせて機器更新が計画され、営団地下鉄3000系の廃車発生品であるFS-510形台車をはじめとする床下機器へと交換を行い、性能の統一と乗り心地の向上がなされるはずだった。しかし1999年にA編成のみ施工させただけで終了している。また2000年ごろからは、長野線で開始された都市型ワンマン運転に対応させるための工事も施工されている。


終焉編集

2000年代に入ると流石に接客設備も陳腐化したことで後継車が模索され、2006年末までに小田急10000形HiSE」を改造・譲受した1000系(二代目)「ゆけむり」へ2編成が置き換わった(ただし2005年に廃車されたB編成は、事実上8500系へ代替されている)。しかし全面置き換えの計画が変更され、本形式も多少延命する事になり、この間の2007年に特急運転開始から50年の節目を迎えたことから、2月にA編成が登場時のマルーン、8月にD編成がりんご色へと変更され、引退までこの塗装で活躍した。

2011年に元JR東日本253系を譲受した2100系スノーモンキー」が導入され、3月にA編成が引退。D編成も定期運用を離脱したことで、55年にわたる特急運用に終止符を打った。その後もD編成のみ不定期ながら旅客運用やイベント等に使用されたが、2012年の3月末をもって完全に引退。同年6月に開催された撮影会を最後に、本線上から撤退した。

現在はD編成が小布施駅構内「ながでん電車の広場」に保存されている。このほかA編成とB編成がそれぞれ廃車後に信濃川田駅跡地と志賀高原で保存・活用される計画があったものの、実現することなく解体されている。

なお、D編成引退時に発行された記念フリー乗車券には、2012年3月で廃車になる旨が記載されていたが、実際は2024年現在も除籍されることなく休車(車両としての籍は存在しているが、使用しない状態のこと)として在籍しており、交通新聞社より毎年発刊される私鉄車両編成表にも必ず記載されている。


関連イラスト編集

長野電鉄2000系C98エアコミケ長野電鉄2000系


関連タグ編集

長野電鉄 長電 2000系

OSカー…本形式と並ぶ一時期の長電の顔役

WN駆動…本系列に採用された駆動装置

石原裕次郎日活映画「白銀城の対決」の劇中にて、本形式のB編成に乗車している。

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