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仙石秀久の編集履歴

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仙石秀久

せんごくひでひさ

 室町時代末から江戸時代初期の戦国武将。

仙石秀久は豊臣秀吉に従えていた戦国武将。講談社から出版されている漫画、センゴク、並びにセンゴク-天正記-の主人公でもある。

  • 生:天文二十一年一月二十六日(西暦1552年2月20日)
  • 没:慶長十九年五月六日(西暦1614年6月13日)



初期織田政権から秀吉が北近江に封ぜられるまでの活躍

 元は美濃国守護、土岐氏に仕え、土岐源氏を祖に持つ土豪であったが、室町時代末に土岐本家が没落し庶流の斉藤家が台頭してくると、是に仙石家も従う。やがて長井新左衛門尉斉藤道三の父)が斉藤家中で台頭し、既に御輿でしか無くなっていた土岐頼武を追放して主家、斉藤氏に対しても親子二代で下克上を果たしこの家督を得ると、斉藤道三に従う。

 だが、斉藤道三長良川の戦いで息子の斉藤義龍に討たれこの義龍も早世すると、斉藤龍興が美濃の地盤を固める前に、濃姫を娶り斉藤道三の縁戚となっていた織田信長が中濃に調略の手を伸ばす。仙石家は初期の内に織田家へと帰順したとされているがその時期を推測するに、仙石氏の所領が美濃本巣(現在の岐阜県坂祝町近辺)であった事から、織田信長加治田城攻略から兼山城攻略までの間に織田家へと帰順したと考えるのが妥当であろう。従って織田家に恭順の意を示したのは永禄七年(西暦1564年)の加治田城調略から永禄八年(西暦1565年)の兼山城開城までとなるが、所領である黒岩を安堵されている事から、よって書物(仙石家家譜)にもある通り永禄七年の調略による帰順が正しいと見て間違いなさそうである。

 中濃の土豪として早くに織田家へと恭順した仙石家は、織田信長の斡旋で木下藤吉郎の麾下に入る。当時の木下隊は蜂須賀正勝といった野武士や半農兵が大半で、生粋の士分である仙石秀久は実に貴重であり、出世の速さから鑑みるに姉川の役前後に入幕する名参謀、竹中重治が首席を占めるまで初期の参謀、兼指揮官としてその大役を買う事になる(余談ではあるが、そういった士分の人間が出自定かならぬ木下秀吉の麾下ですんなりと働いていたというのは、家柄を重んずるこの時代を慮るに、秀久の寛容な人物が伺える事象である。因みに蜂須賀正勝が播磨龍野五万三千石を与えられるのは天正九年。同じく黒田孝高は播磨国山崎一万石が天正八年、豊前十二万石が天正十四年の事であり、秀久が淡路島等を拝領した時期は下記を参照の事)。

 そうして木下藤吉郎と共に各地を転戦しながら、湖北浅井家、越前朝倉家の連合軍と衝突した姉川の戦いでは自ら槍を取って敵と交戦し、山崎新平なる兵を討ち取ってその功を讃えられている。部隊長が自ら槍を交えるという事はそれだけで感状が出るほどの例外事項なので、更に兜首も討ち取ったという史実から武技にも標準以上に通じていた証左として考える事が出来る。その後、木下秀吉羽柴秀吉へと改姓し小谷城の戦いにて旧浅井領、湖北三郡十万石相当に封じられてからは秀久も近江野洲(滋賀県野洲市)に所領千石を与えられた(天正元年、西暦1582年)。



中国攻めから本能寺の変前後の活躍


 羽柴秀吉の幕下が人材豊かになるにつれ活躍はやや埋もれがちになるが実際には順調に活躍し出生を重ね、秀吉の対毛利戦線では織田家から離反した別所長治の抑え、播磨三木城の備えとして城番に出世(『播磨鑑』によらば三木城北部、跡部村の砦とされる)。天正六年(西暦1578年)には四千石の加増を受け、後の天正七年には播磨茶臼山城の城番へと出世し、同時に有馬温泉を統括する湯山奉行の任を授かっている。

 三木城が降伏開城すると吉川経家が守る因幡鳥取城攻めへと従軍する。この鳥取城が凄惨な兵糧攻めで早々に開城すると、対毛利戦線では陸上から離れ開城前線基地である淡路島の攻略に従軍(天正九年、西暦1581年)。黒田孝高の助けもあり淡路島小豆島を傘下に収めた後は、秀吉の名代として淡路島の国権を委ねられる。

 このまま普通に戦が進んだのであれば順風満帆に出世街道を進むはずであったが天正十年、急遽、本能寺の変羽柴秀吉の主君である織田信長が横死。淡路島平定に於ける秀久の論考功交渉は後回しとなり、秀久は明智光秀に与した四国勢を牽制しつつ、同時に淡路島にて決起した土豪の平定に尽力して山崎の戦いに臨む羽柴秀吉の後方の守備に当たった。

 山崎の戦いにて秀吉明智光秀を破ると、今度は織田家後継者の決定で筆頭家老の柴田勝家と意見の齟齬が生じ、其処から天正十一年(西暦1583年)、賤ヶ岳の戦いへと発展する。秀久もこの戦いで近江に参陣し、織田家から秀吉の養子に入っていた羽柴秀勝と共に十二番隊の指揮官として出陣する予定であったが、柴田勝家に内応した四国勢の抑えの為に急遽、土地勘がある淡路島へと出兵する。是により秀久は柴田勝家陣営に付いた長宗我部元親と対峙。淡路島洲本城に入ると先ずは蜂起した小豆島を平定し、更に十河存保が救援を求める四国本島へと後詰めに出る(第二次十河城の戦い)。秀久は高松頼邑が守る喜岡城を攻めるが是を落とせず四国から一度、撤退。続いて讃岐国は引田に上陸して引田城に入城する。

 天正十一年四月二十一日、長宗我部氏家臣の香川信景らが率いる部隊が引田城を攻めると秀久は是を城から出でて伏兵にて迎撃し、緒戦を有利に進める。しかし、数に勝る香川隊は次第に体勢を立て直し反撃。此処に長宗我部からの後詰めが届き仙石隊は敗戦色を強めると、引田城に撤退する。翌二十二日、引田城は援軍を得た長宗我部軍の総攻撃を受け、秀久は城を持ち堪えさせる事が出来ず淡路島に撤退(引田の戦い)。この敗戦にて四国勢の勢い強しと見たか、秀久は以降、無茶な渡海は行わず淡路島小豆島の防御を固め、瀬戸内海の制海権を優勢に進めて四国勢を牽制する事に徹する。

 そうして四国勢と睨み合う内に賤ヶ岳の戦いの雌雄が決し柴田勝家が敗れると、それまでの功績が認められて秀久は天正十一年、淡路島五万石に封じられる。淡路島受領後の天正十二年、織田信雄徳川家康に通じて秀吉と争った小牧・長久手の戦いでは賤ヶ岳の戦いと同様に長宗我部元親が反秀吉陣営に付いた為、秀久は賤ヶ岳の戦いと同様に淡路島小豆島の防御を固める。

 紀州国人衆が蜂起して大阪を攻める姿勢を見せた折には、秀久は秀吉に従って複数の水軍を統括し小西行長と共に海路から紀伊に攻め入り、根来寺、並びに雑賀庄は焼き払われる結果となる(紀州征伐、天正十三年)。秀久自身は根来、雑賀の両主力が降伏した後も中村一氏小西行長らと共に雑賀、根来の残党が籠城する太田城を攻める。更に攻め入って坂ノ瀬合戦に勝利し支城鳥屋城を攻め落とすと岩室城も落城、徹底抗戦を主張しながら湯河教春を頼って泊城へと落ち延びた湯河直春を奥へ奥へと追撃し、是を秀久と杉若無心が更に追撃、泊城を占拠する。

 泊城からは軍勢を二手に分け、同じく牟婁郡にて湯河直春に同調した山本康忠の籠もる龍松山を秀久と尾藤知宣藤堂高虎が攻撃。逃げる湯河直春湯河教春らを追うが天正十三年四月一日、潮見峠にて秀久ら三将は反撃を受け一時、後退する。同じく杉若無心が率いる軍勢も三宝寺河原にて山本康忠らの奇襲を受け撤退。しかし湯川、山本両隊の抗戦能力は長く続かず、同時に羽柴秀吉の調略で熊野三山、並びに高野山が降伏し、大局として紀州全体が降伏した後も四月末まで抵抗を続けた湯河直春が怪死。此処に紀州征伐は終了した。

 この通り、秀久は蜂起した紀州勢で最後まで根強く反攻し続けた湯河一族の討伐で武功を立てた。

 紀州征伐が行われていたその間、四国は長宗我部元親がその大半を統一するまでとなっていたが一方で、賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家陣営に付いた毛利氏が小牧・長久手の戦いからは秀吉陣営に付き、また紀州征伐によって共和国とまでされた雑賀庄、根来寺高野山粉河寺熊野三山といった諸勢力が悉く敗戦、或いは降伏した事で長宗我部氏は軍事的に孤立し、長宗我部氏如何によっては秀吉による四国平定戦が予想されていた。

 そして予想が現実した天正十三年七月、四国征伐にて、秀吉がこの時期、病を得ていた事により総大将には羽柴秀長が着任、副将に羽柴秀次、先鋒には黒田孝高を宛がい、秀久は先鋒の一将として宇喜多秀家蜂須賀正勝と共に阿波国屋島に上陸する。秀久ら先鋒は喜岡城を攻め是を落城せしめ城主、高松頼邑を討ち取る。秀久ら先鋒は更に阿波国へと深く進攻し、秀久単独では木津城攻めにて城の要衝を抑え城内への水の手を断つなどの活躍を見せたので、戦後の論功行賞で淡路島五万石から讃岐国十三万石に栄転。

 他の四国の分国は長宗我部元親が土佐国一国、阿波国に蜂須賀正勝の予定であった所を正勝は自身の高齢を理由に嫡子の蜂須賀家正が封じられ、山田二群に十河存保、伊予国一国に小早川隆景、秀久が転じた後の淡路島には脇坂安治が津名郡三万石、加藤嘉明が津名郡、三原郡の一万五千石に封じられた。こうして豊臣一色となった四国の筆頭として秀久は一国一城(聖通寺城)の出世を果たすのである。



出世街道から一挙に没落


 天正十四年、小牧・長久手の戦い織田信雄徳川家康に内応し大友宗麟を攻める島津家を牽制、討伐するべく秀久を大将とした四国勢は秀吉の命で九州の役に従軍する。しかし大友家当主の大友義統は島津軍の猛攻に晒されアッサリと本拠地である豊後国を明け渡してしまい、眼前にて雪崩を打ち大友軍が攻め落とされていき、秀吉からは「本隊が到達するまで持久戦に徹するように」と命令されていたにも拘わらず秀久は先鋒のみで打って出る決定をする(尚、大友宗麟は天正六年、耳川の戦いで満足に指揮も出来ず島津義久に大敗し零落。九州三雄の一人である龍造寺隆信沖田畷の戦いで島津軍に敗れて自身が戦死した事もあり、島津家の勢いは破竹に乗って止まる所を知らず、結果論ではあるが戸次道雪高橋紹運立花宗茂三名を筆頭とした突出する家臣らの戦強さと団結力に支えられなければ実際、大友義統秀吉本隊到着まで持ち堪えられる可能性が皆無であっただろう。よってこの「打って出る」という判断自体が間違っていたかと云えば一概にはそうとも云えず、よって秀久の最大の失敗は「敗北した事」に尽きる)。

 この決定に四国の有力勢力である長宗我部元親信親親子は反対、逆に元々、織田家に恭順を示していた十河存保は賛成する。こういった具合で四国平定から間もない状態での四国勢は軍の結束力も十分ではない状態で士気も上がらず結局、秀久自身の独断専行という形にて天正十四年十二月十二日、九州戸次川にて青息吐息の鶴賀城に攻め掛かる島津家久を相手とした不予期遭遇戦へと発展する。後に云う戸次川の戦いである。

 秀久は鶴賀城を見下ろす梨尾山に陣を敷くも、是は島津軍の案の内であり、島津軍は梨尾山に本陣を構えられた場合を想定して布陣していた。対島津に徴兵されたこの時の兵数は二万ともいわれるが、本来なら城の後詰めに赴かなければならないはずの大友義統は戦意が見えず行軍に消極的で、更に猛攻に晒されている鶴賀城は守将利光宗魚が誠に運悪く流れ弾に当たり戦死。従って鶴賀城の兵力も当てに出来ず実働する実兵力は六千ばかりであったという。

 対する島津軍は一万を上回る兵力で、しかも城攻めが主体である為に後詰めである秀久の陣へは戸次川を防御ラインにして攻め入る事は決してせず、四国軍が鶴賀城を救う為には厭が応にも十二月の渡河を行わなければならなかった。しかし通常なら掌握している兵力ではどう足掻いても後詰めが叶わぬ場面で、秀久は渡河を強行する(幾分かの兵力が伏兵として配されていた事によって全体兵力を誤認した可能性があり、この辺りの秀久の判断には実際の現地調査が必要である)。

 冬の渡河直後で四国勢も上手く体勢が整わなかったが島津軍もまた不意の進攻に狼狽し、島津軍より一瞬、早く立ち直った四国軍が総攻撃を掛けた。先鋒の秀久率いる淡路勢千名、十河存保尾藤知定が率いる讃岐勢三千名、長宗我部元親父子の土佐勢二千名が縦一列に襲いかかったのである。

 そうして序盤、島津軍大将である島津家久が慌てふためくほどの四国軍優勢で進んだ戦だが、戦慣れした島津軍が次第に姿勢を整え、得意の囮戦法である釣り野伏せの布陣を完了すると、まず突出した秀久本隊の淡路勢に島津軍主力新納大膳と左翼の本庄主悦が横槍を付ける。元々、兵が突出していた事もあって淡路勢は壊滅した上で後方部隊と分断されてしまい、更に島津軍はこの勢いを勝って淡路勢へと襲いかかり、四国軍は千々に乱れて敗走してしまう。両軍合わせて四千名が戦死したとされるこの戦だが、四国軍は十河存保長宗我部信親の両侍大将が戦死しており、鶴賀城も救援できず手痛い敗戦を喫す事になった。しかも戦場で味方から切り離されて状況が掴めなくなった総大将の仙石秀久は、事もあろうか諸将の軍勢を差し置いて小倉城に撤退し、そのまま自領の讃岐に逃げ帰るという、「三国一の臆病者」とまで囃された大失態を犯すのである。

 無茶の上でそのような不始末を晒したこの敗戦の一報を耳にして秀吉は激怒し、秀久は領地没収ならびに改易とされ高野山に追放される事となる。寧ろ切腹を言い渡されなかったのが不思議というくらいである。



命があるだけめっけ物、ゼロからの名誉挽回、マイナスからの汚名返上


 高野山に追放されたのが天正十四年年末の事であるが、改易中は高野山で隠棲していたかと思えば京、大阪に滞在していた事もあるとされる。が、やはり余り多くの文章は裂かれていない。だが、同じく天正八年に追放された佐久間信盛は無聊を託ち汚名を雪ぐ事が出来ぬまま天正十年に餓死寸前という状態で死亡している点を見ると秀久の生存にある程度の想像が付き、そういった点から兵からの信望は厚かったのかも知れない。新入幕にも拘わらずすぐさま自分を追い抜いて出世した黒田孝高の麾下で四国平定戦を戦っている事から、織田家出仕直前にまだ飛ぶ鳥を落とす勢いを見せぬ木下藤吉郎の麾下に加わっている点から見ても、秀久の人となりは容易に想像が付く。

 その秀久にとって挽回の機会が現れたのは天正十八年(西暦1590年)、北条征伐小田原の役)の事である。豊臣秀吉によって刀狩り、並びに惣無事令が発せられ無許可による戦闘行為が禁じられたのが天正十三年(九州)、及び天正十五年(関東、奥羽)の事であるが、後北条家家臣の沼田城城主、猪俣範直による信州真田家領の上野国名胡桃の、更にそのまた三分の一という、誠にちっぽけな領土の占拠が引き金となり、惣無事令違反を激怒した豊臣秀吉が北条征伐の大軍を挙げる事になる(名胡桃事件。何故に猪俣範直がそのような事をしでかしたのかは不明)。名胡桃事件は更に後方でも北条氏邦が宇都宮に進攻した事から、北条氏政の指示があったか否かは兎も角として「猪俣範直の独断専行」という言い訳は通用しなくなり、同年十二月十三日、豊臣秀吉から宣戦布告の朱印状が発行され、諸将に招集の命令が下される。

 秀久はこの進攻に際して徳川家康から秀吉への斡旋を頼み、陣借り(自前の費用で兵糧から兵士、武器から糧秣といった全てを用意し、しかも必ずしも報酬が約束されない非正規兵の事を指す。「押し掛け女房」ならぬ「押し掛け戦力」である)で北条征伐に参戦。この時、秀久は糟尾の兜と白練りに日の丸を付けた陣羽織を着込み、紺地に「無」の字を白く出した馬印を眞先に押し立て(「無」の字は永楽銭と同じく仙石家の家紋である)、手勢を率い諸軍の先頭を進んだといわれている。極めつけは日の丸を付けた陣羽織一面に鈴を縫いつけ、自分の居場所を際立たせる(と同時に敵から狙われやすくなる)奇策を採った点にあった。

 初心に立ち返ったのか、当年で齢三八となる秀久の戦い振りは単身ですら苛烈極まり、自ら十文字槍を繰り伊豆山中城攻め山中城の戦い)で先陣を務め、小田原城早川口攻めでは虎口の一つを占拠するという抜群の武功を挙げた。是により秀久は「鈴鳴り武者」という異名を与えられると共に、秀久が武功を挙げた地が「仙石原(神奈川県足柄下郡箱根町)」と名付けられるという確かな功績を残し、秀吉も最古参の朋友に思う所あってか、自身への謁見を許し直々に金団扇を授けると共に、旧領讃岐の半分に相当する信濃小諸五万石を与えるという、破格の救済を授けるのである。

 更に文禄元年(西暦1594年)には朝鮮出兵の折に豊前名護屋城普請で功績を挙げ、従五位下、越前守に任官されてかつ所領も七千石の加増を受け、五万七千石に封ぜられている。

 こうして、晴れて仙石秀久は単身の槍働きにて大名へと復帰するのである。



太閤死没後の仙石越前守秀久


 慶長三年(西暦1598年)に豊臣秀吉が入寂すると、その後は早くから昵懇であった家康に接近する。慶長五年(西暦1600年)、関ヶ原の戦いでは東軍、徳川秀忠本隊に所属するも、真田昌幸が籠もる信州上田城攻略に手こずる。また徳川秀忠上田城攻略への拘りを見せる余り秀忠と徳川譜代衆を率いた秀忠隊は関ヶ原の戦いに遅参してしまい、関ヶ原の本戦で家康は主力譜代衆を欠いたまま外様大名の連合軍にて決戦に望まざるを得ず、譜代衆への大幅加増が叶わなかったばかりか、小早川秀秋の離心が無ければあわや敗軍の将となっていたこの薄氷の勝利に肝を冷やした家康から、秀忠は大いに叱責される。が、秀久は身を挺して秀忠を庇い弁明に徹した為、信州上田城攻略で「自身を人質として真田に預け、秀忠本体には進軍して頂きたい」と進言した事も相まってか秀忠にも篤く信任されるようになる。

 関ヶ原の戦い戦後は領土を安堵され信濃小諸藩の初代藩主となる。唯、嫡男の仙石秀範関ヶ原の合戦で西軍についており、その事から秀久は廃嫡と同時に勘当、仙石家の家督は三男、忠政が継ぐ事になった(長男の仙石久忠は失明により後継から外されていた。秀範は次男)。慶長十九年(西暦1614年)没、享年六三。





仙石秀久に纏わる余談


・織田家に入幕した折、織田信長との謁見で信長が秀久の勇壮な相貌を気に入り、黄金一錠を与えたといわれている。


・紀州征伐の際、根来攻めに参加した秀久は山林に放置されていた曰く付き梵鐘「安珍清姫の鐘」を拾って帰ったとされる。


黒田孝高とは対毛利戦以来の古い仲で四国征伐でも共に戦っているが、実は秀久ほどでないにしろ孝高とは「失敗仲間」でもある。


戸次川の戦い長宗我部信親が戦死した事により是が長宗我部氏滅亡の一因となったため、仙石秀久は長宗我部ファンから蛇蝎の如く嫌われることとなる。次々と落城していく城を目の前にして気が逸ったのは判らないでもないが、寡兵での冬期渡河後、兵数で劣りながら野戦を仕掛けるという愚を犯ししかも失敗しているのだから、その汚辱は甘んじて受けるべきであろう。


・才能云々をさておいて人物だけ見た場合、先述の如く永禄七年の時点で出自定かならぬ木下藤吉郎秀吉の組下に入って以後、一貫して秀吉の元で職務に励んだ事、そして播磨攻略銭にて中国地方の毛利家、摂津国の荒木村重石山本願寺と呼応して小寺政職信長から離反した際、荒木村重を説得する為に有岡城へと出向いたまま音信不通となり、主家である小寺政職と同調して離反したと判断された黒田孝高の残党を引き受けその面倒を見るなど、情には篤い人間と思われる。後に大坂牢人五人衆と謳われ、播州平定戦では父である後藤基国別所長治側に付いた事から軍中で村八分となった後藤基次もこの時、仙石秀久に雇われている。


・二代目、仙石忠政の代になって信濃上田藩へと領地替えになったが、ドミノで信濃松代藩に転封となった元上田藩主は真田信繁と同じく真田昌幸を父に持つ真田信之で、信之上田城にて足留めされた逆恨みから徳川秀忠にねちねちと嫌がらせを受けていたらしく、この転封処置も嫌がらせの一環と受け取ったのか、上田城下の検地帳など重要書類を全て焼き尽くした上、上田城の植木や燈籠などを全て引き抜き持ち去った。この事から仙石忠政は、特に書類関連で領土把握に苦労したそうな。


・後の仙石家で仙石騒動と呼ばれるお家騒動がありあわや改易となりかけたが、辛うじて減封のみで済まされ、仙石家の家名は明治まで続く事となる。


・子孫は信州上田藩から更に但馬国出石藩に移され、小諸藩主時代に殖産興業で蕎麦を扱っていた事から蕎麦打ち技術を出石にも伝えた事によって、是が出石皿そばの誕生となったとされる。




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