小田原攻め
おだわらぜめ
対立
北条早雲以来、後北条家は堅牢な小田原城を中心に関東一帯を治め、上杉謙信や武田信玄の小田原攻めも退けた。
織田信長からの政権を受け継いだ豊臣秀吉は西日本を支配下に治め、天下統一を完遂すべく後北条家に臣下の礼を要求したが、当主の北条氏直はこれを拒否。私戦を禁じた「関東惣無事令」が1587(天正12)年に関白たる秀吉の名で発布されており、豊臣家との対決は必至と見なした氏直は軍備を増強。叔父の北条氏規を代理で上洛させるなどして交わしてきたが、天正17(1589)年に氏規の兄である北条氏邦の部下が真田昌幸の上野名胡桃城を襲撃して奪ったことから、秀吉は違反行為を見なして小田原への遠征を決定した。
開戦
1590(天正18)年3月、秀吉は毛利輝元を京都守護に任じて出発。この遠征には徳川家康、織田信雄、蒲生氏郷、黒田孝高、宇喜多秀家、細川忠興、小早川隆景、吉川広家、堀秀政、池田輝政、浅野長政、石田三成、長束正家、立花宗茂、大谷吉継、高山右近、大友義統、福島正則など17万の軍勢が秀吉傘下に入り、東海道を東進した。海路から水軍として長宗我部元親、加藤嘉明、九鬼嘉隆など1万が、北陸方面から前田利家、上杉景勝、真田昌幸が3万5千を引き連れ、さらに佐竹義重・義宣父子、宇都宮国綱、結城晴朝などの関東の反北条方大名も1万8千を引き連れて参陣、合わせて約22万人動員された。また千利休や側室の茶々など参加大名の妻女も連れていたが、長く秀吉の副将を務めていた弟の秀長は、病気がちになっており不参加となっている。
豊臣軍の基本戦略は、
とされた。
一方の小田原方も迎撃準備を進め、15歳から70歳までの男を総動員して約8万の軍勢を生み出し、主力の5万を小田原城に、残りを分散配置して持久戦の構えを取った。
本戦
3月末に秀吉は沼津に到着し、各陣営を各敵城に割り振って攻撃を開始した。
3月29日に豊臣軍は山中・韮山城への攻撃を開始。山中城はその日のうちに落城し、「箱根十城」と呼ばれた近隣の支城群も陥落もしくは放棄された。
しかし韮山城は城主である氏規の指揮の元、この後3か月近く持ちこたえ最終的に6月24日に家康と孝高の説得により開城した。
韮山城攻めのもたつきなどがあったものの、豊臣軍主力と韮山城包囲軍の主力は4月3日に小田原城に到着・包囲を開始した。この進軍速度の速さに、召集されていた北条方の国人には小田原城に入城できないでいた者もいたが、秀吉はわざと入城できるように取り計らった。
攻城戦においては小競り合いはあったもの比較的平穏であり、秀吉は伴ってきた利休らと連日娯楽に興じる一方で、80日ほどをかけて石垣山城を築いた。これは周りの木々で覆い隠し、完成と共に切り倒したため「一夜城」の異名をとることになった。
これらの状況で小田原に立てこもる北条軍の戦意は次第に低下していった。ただし豊臣軍も長々と続く攻城戦に戦意が低下しており、兵の逃亡など風紀が乱れていった。
支城攻め
一方北国勢は4月28日に上野の松井田城を攻めたのを皮切りに、北関東の北条方支城への攻撃を開始し、関東の反北条方大名も4月下旬から下野方面で攻勢を開始、小田原包囲軍からも浅野長政を総大将に2万以上の軍勢が抽出され、武蔵方面への攻撃を開始した。
松井田城や武蔵の鉢形城など1か月前後持ちこたえた城もあったが、大方の城は主力を小田原城に引き抜かれた結果、無抵抗もしくはわずかな抵抗をしただけで降伏した。
しかし忍城に関しては、6月5日から石田三成を大将とする軍勢が攻撃を開始したものの、守将の成田長親や城主の成田氏長の娘甲斐姫ら守備兵が懸命に籠城戦を続け、小田原落城後の7月16日まで抵抗した。
この戦いは後の文学作品「のぼうの城」に著された。
北条氏の降伏
攻城戦が続く中で、最上義光や南部信直、津軽為信など東北の諸大名も小田原に参陣し、豊臣氏への従属を誓った。そして5月9日には当時東北で最大の勢力を誇り、北条とも同盟を結んでいた伊達政宗が小田原に参陣し、北条氏の味方はいなくなった。
7月5日、氏直は舅でかつての同盟者でもあった家康の陣中に自ら向かい、自らの首を差し出して城兵たちの助命を求めた。堅城・小田原城は開城され、合戦は終結した。
戦後処置
北条方
- 北条氏政・氏照兄弟と重臣の大道寺政繁、松田憲秀が切腹。
- 北条氏直、北条氏規らは所領没収の上高野山で謹慎。
- 小田原城に籠城した、もしくは小田原に参陣しなかった国人は改易。
これは四国・九州での長宗我部(土佐安堵)・島津(薩摩・大隅安堵)氏の処遇と比べると過酷なものであった。氏直と氏規は、翌年に1万石と2千石を与えられたが小田原復帰はかなわかった。
但し例外もあり、武蔵忍城主・成田氏長は娘の甲斐姫が秀吉の側室となったことから、御市場は没収されたものの、下野烏山2万石を与えられた。また武蔵深谷城主・上杉氏憲の家臣で留守居役を務めた秋元長朝は家康の家臣となり、関ヶ原の戦いの後に上野総社1万石を与えられることとなり、最終的に上野舘林6万石の藩主として明治維新を迎えた。
豊臣方
- 徳川家康はこれまでの領土に代わって、武蔵・相模・伊豆・上野・下総・上総へ移封。
- 織田信雄はこれまでの領土に代わって、家康の旧領へ移封。
- 豊臣秀次はこれまでの領土に代わって、信雄の旧領へ移封。
先祖伝来の地からの左遷同然であったが、家康は江戸城を中心に江戸の都市開発に着手し、その後の大都市への道を築いていった。また改易された国人衆を家臣として登用することによって、人材面での厚みを増すことができた。
一方信雄は移封を拒否した為改易処分となった。曲りなりにもかつての主君の子であり、官位だけなら家康を上回る信雄をいとも簡単に改易した事は秀吉の権力を見せつける結果となった。
参陣した大名でも例外はあり、伊達政宗は東北への惣無事令発令後に得た所領をすべて没収とされ、安房の里見義康は足利氏の末裔を旗印に小田原攻めに参戦した為に、隣国上総の所領を没収とされてしまった。