この名を持つ日本海軍の艦船としては樺型駆逐艦「桐」に続いて2隻目となっている。
概要
横須賀海軍工廠にて建造、1944年8月14日就役。当初は訓練部隊である第十一水雷戦隊に編入され、後に第三十一戦隊に移る。
10月17日の捷一号作戦発動によるレイテ沖海戦では小沢艦隊の随伴艦として出撃したが、途中軽巡洋艦大淀からの重油補給で予定の100トンに対し30トンしか補給できなかった。その後、瑞鶴所属の零戦1機が上空警戒後の着艦に失敗し海上に墜落する事故が発生、杉とともに捜索を行う。捜索終了後に小沢艦隊らしき部隊(後述)に合流するが、川畑誠艦長らはこの部隊をアメリカ軍の機動部隊であると判断して杉とともに離脱、燃料不足から本隊への合流を断念し、杉とともに高雄へ向かう事となった(尚、小沢艦隊は翌10月25日にエンガノ岬沖海戦に突入している)。
高雄に到達した二隻は奄美大島を経由し、10月30日に呉に帰投した。
11月9日、南方に進出する伊勢・日向の護衛として門司を出航。南沙諸島の長島で分かれた後は五十鈴を護衛としてマニラに向かう。途中第二艦隊とすれ違った際に一時護衛に協力し、改めてマニラへ向かい、到着。
到着後は多号作戦に参加、12月9日からの第九次作戦に卯月、夕月らとともに参加したが出撃翌日に空襲に遭い、目的地のオルモック湾に着いてみれば同日到着の陸上のアメリカ軍や海上の駆逐艦から攻撃を受け、何とか揚陸を完了させてマニラに退避するも再びの空襲に遭遇、大破した夕月を砲撃処分する事となった。
マニラ帰投後は応急修理の後呉に回航して本格的な修理に入る。その際、回天搭載の為の改造を受けるも柳井で待機する事となり、そのまま終戦を迎えた。
戦後は復員輸送に従事した後、1947年に賠償艦としてソ連に引き渡され、ヴォズロジュジョーンヌイ(Возрожденный、ロシア語で『復活した』という意味)へと改称。以降、標的艦ЦЛ-25、工作艦ПМ-65等へと役割を変えつつ使われ続け、1969年に退役、解体された。
敵艦隊(?)
レイテ沖海戦で桐および杉が合流した艦隊であるが、近年の研究でその正体が小沢艦隊から分離した前衛部隊(日向、伊勢、初月、若月、秋月、霜月)であった事が判明した。この前衛部隊が米軍機動部隊だと誤認された理由としては、以下のような要素が考えられている。
- 合流したのが夜間であった事もあり、前衛部隊にいた秋月型駆逐艦を軽巡洋艦と見間違えた
- 上空を飛行していた米軍夜間哨戒機の無線が艦内電話に混信し、これを敵艦隊の艦内電話を傍受したものと判断した
尚、長らくこの時合流した艦隊の正体が不明であった理由としては、戦後の川畑元艦長が当時桐の取った進路を相対方位(艦種方向を北とした際の方位。レーダーの表示画面など)によって証言しており、地図上で航路を再現する際に絶対方位(羅針盤の示す方位)で描いてしまったために2隻が艦隊に合流したはずの地点には日米どちらの艦隊も存在していなかったためである、と考えられている。