概要
機雷潜型潜水艦が誕生した経緯は、第一次世界大戦終焉時まで遡る。
大正7(1918)年、第一次世界大戦が終わり大日本帝国海軍はドイツから7隻の潜水艦を戦時賠償艦として獲得した。
特に大日本帝国海軍が関心を寄せたのが、第一次世界大戦末期に建造されたU125(〇一潜水艦(仮称))であった。 機雷敷設機能と航続距離、航洋性に関心が寄せられ、ドイツ技術者の協力を得てコピーした潜水艦を作ることになった。 それが本級機雷潜型潜水艦である。
U125(〇一潜水艦(仮称))のコピーとはいえ違いはあり、艦橋の形状・備砲、魚雷発射管を日本式に変更・南方での作戦のための冷却機新設・冷却機新設に従う船体延長をした設計をしていた。
当初は、巡潜型、海大型と共に大日本帝国海軍潜水艦の3番柱の1つとして期待された。
しかし、結果は芳しくなかった。
使ってみると様々な問題点が発覚した。
- 機雷を放出すると、放出した機雷の重量分だけ艦尾が浮き、搭載した機雷を艦尾の機雷敷設筒に移動させるためにタンクの水を移動させる必要がある。
- 前述した船体延長を行ったにもかかわらず、潜舵・横舵の設計がそのままの設計で船体の割に小さいため舵の利きが悪く、本艦の前後の重量の差が少しでも生じると傾斜する危険性がある。
機雷敷設時に起きるバランス変動は、機雷敷設用潜水艦としては普通の事と思われるが、前後の重量差が少しでも生じると傾斜する問題は、一定深度・水平を保ち、一定の場所に機雷を設置する機雷敷設用潜水艦にとっては大きな問題であった。
そのため、機雷潜型潜水艦のことを「きらい(嫌い)潜」と揶揄して呼ばれたのであった。 その後、大日本帝国海軍では機雷潜型潜水艦の後継艦となる機雷敷設用潜水艦は建造されることはなかった(ただし、改マル5計画にて、機雷敷設設備を搭載した巡潜乙型と巡潜丙型の計画艦があったが、建造されることはなかった)。
昭和17(1942)年、戦没した伊号第百二十四潜水艦を除く3隻は、K作戦支援のために機雷庫と敷設筒をガソリンタンクに改造を行っている。
昭和18(1943)年9月1日、先に戦没した伊号第百二十三潜水艦、伊号第百二十四潜水艦を除く2隻は、練習潜水艦となった。
同型艦
1番艦 伊号第百二十一潜水艦
2番艦 伊号第百二十二潜水艦
3番艦 伊号第百二十三潜水艦
4番艦 伊号第百二十四潜水艦
関連タグ
第一次世界大戦終焉から第二次世界大戦末期の1等潜水艦
機雷潜型潜水艦
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