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矢野燿大

やのあきひろ

矢野燿大は、大阪府出身の元プロ野球選手(捕手)。現役時代は中日ドラゴンズ、阪神タイガースで活躍した。
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経歴編集

1968年12月6日大阪府生まれ。

本名は「矢野輝弘」(読みは同じ)であるが、2009年から「矢野燿大」を登録名にしており、現役を引退した現在でも「矢野燿大」の名前で活動している。


ポジションは捕手。東北福祉大学から1990年のドラフト会議で中日ドラゴンズから2位指名を受け、入団。

入団一年目から一軍出場を果たしたが、当時の中日には正捕手中村武志がおり、あまり目立つ選手ではなかった。入団後しばらくは中村を助ける控え捕手でプレーしていたが、打撃力を買われて外野手として出場したこともある。


1997年オフに大豊泰昭と共に、関川浩一久慈照嘉との交換トレードで阪神タイガースに移籍。当時の監督であった吉田義男にリード面を評価され、それまでの正捕手山田勝彦に代わってすぐに正捕手の座を勝ち取ると、2003年2005年の阪神リーグ優勝の立役者として貢献した。

だがその後故障が相次いだことや、2010年シアトル・マリナーズから城島健司が加入したことが要因で、出場機会が少なくなり、同年に現役引退を表明した。


引退後は2015年までプロ野球解説者として活躍。2016年シーズンから、阪神タイガースの一軍作戦兼バッテリーコーチに就任。2018年シーズンからは二軍監督として指揮をとり、チームを前年最下位から、8年ぶりのウエスタンリーグ優勝にまで押し上げた。

二軍とは対照的に、17年ぶりに最下位に終わり引責辞任することとなった金本知憲の後を受け、2019年シーズンから一軍監督(第34代)として指揮をとることに。2022年シーズンまでの4年間に渡り「在任期間全てのシーズンをAクラスで終える」という、阪神歴代監督ではなし得なかった快挙を果たしている。監督としては2012年以降の阪神のテーマでもある「育てながら勝つ」を方針を前任者の金本知憲から引き継ぎ、一定の成果を挙げた。


監督生活通じてのスローガンは「俺たちの野球」。

これは誰かに言われてその通りにプレーするのではなく、自分が得意なことは何か、何を以て観客を沸かせたいのか、その為に今すべきことは何かをしっかりと考えた上で自分だけのスタイルを確立・発展させていくことや自分にしか出来ないプレーを行い、チーム一丸となって勝利に突き進むこと等を端的に表したものと思われる。

特に「積極的なミスなら構わない」ことをモットーとして掲げており、果敢に飛び込んだ結果エラーになってしまった守備や暴走とも取れる積極走塁、(勿論狙っていい場面に限るが)フルスイングしての三振等では決して怒ることはなく、特に阪神の盗塁数の多さに繋がっていると考えられている。

ここから見て取れるのは選手の自主性を重んじ、優れたプレーヤーであると同時に人間性も磨き上げることを目標とした矢野の野球観であろう。

反面、情の深さ故に勝負に徹しきれない一面もあり、良くも悪くも矢野の師の一人である星野仙一との共通点と指摘されることも。

この他、4スタンス理論を用いた打撃指導にも定評があり、これがきっかけで同じく4スタンス理論を研究している藤井康雄と親交を持つようになったとも。藤井は後に矢野の呼びかけに応じて阪神の打撃コーチに就任している。


背番号編集

2(1991年 - 1995年):中日ドラゴンズ

38(1996年 - 1997年):中日ドラゴンズ

39(1998年 - 2010年):阪神タイガース

88(2016年 - 2022年):阪神タイガースバッテリーコーチ →2018年より二軍監督 →2019年より一軍監督


人物編集

  • 阪神タイガース時代、「阪神で一番短気」と言われることもあった。事実、年に一度のペースで乱闘寸前になることがあり、投手を叱咤することも見られた。また、審判の判定に不服を示す素振りも見られ、1998年2006年に審判に対する暴力行為で退場処分を受けている。
  • 共に1968年生まれである金本知憲、下柳剛と仲がいい。
  • 井上一樹とは中日時代からの親友であり、野球観も同じだという。阪神の監督就任に当たり、「なんとか阪神でやってくれないか」「一樹しかおらんのや、頼む」と中日一筋であった彼をダメ元で口説き落とし、ヘッドコーチに引き入れた。その仲の良さは本人をして「こんなおっさん(同士)がらぶらぶで恥ずかしいんですけど」と笑顔で語るほど。
  • 東京ヤクルトスワローズ監督の高津臣吾とは大学時代から親交があり、このことは古田敦也も「高津と矢野は昔から仲が良い」と言及している。2022年オールスターでの中日ドラゴンズの公式動画にて木下拓哉のバッティング練習を見ながら穏やかに談笑する姿が確認されている。
  • 周囲の信頼が厚いことでも知られ、上原浩治は侍ジャパンでチームメイトになった際「矢野さんがみんなから慕われる理由がよく分かった」とその人柄を絶賛している。
  • 先述の1998年の退場劇で怒り狂う矢野を必死で宥めたのは(前年までチームメイトではあったが)相手チームの選手であるはずの山本昌であった。山本昌は「テル、やめろ。おまえの気持ちは分かるけど、怒るな!」と叫びながら矢野の体を押さえつけて制止したという。(※矢野の名前は「あきひろ」だが、輝弘と書くために当時の星野監督から「テル」と呼ばれ、チーム内でも浸透していた。阪神時代は同年代の金本や下柳からは名字の矢野をもじった「矢野プー」等のあだ名で呼ばれることが多かったもよう)
  • 声優水樹奈々は矢野のファンであり、それを聞いた矢野は水樹が2006年に行った日本武道館ライブにビデオメッセージとサインボールを送ったことがある。

関連項目編集

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