概要
1912年に我国の鉄道における初の本格的な電気機関車として、ドイツのAEG社より12両が輸入された。
信越本線の碓氷峠越え区間(横軽)で使用されていた蒸気機関車を淘汰し、輸送力の改善や無煙化による乗務員の勤務環境の改善を行った。
輸入当初の形式を10000形としていたが、1928年の形式照合改定に合わせてEC40形に改称された。
性能
基本的な外観として、車端に小さなボンネットを有した凸型の車体に、ロッドで駆動する動輪3軸の足回りをもつ。車内には、動輪とラックレールに噛み合わせる歯車を駆動させるため、出力210kWのモータを1基ずつ、計2基搭載した。
使用される区間の横軽はトンネルの天地寸法が小さかったため、第3軌条集電を採用しており、足回りにはそれに用いる集電靴が取り付けられている。ただし横川と軽井沢の駅構内は感電の危険があったことから、通常の電車線(架線)から集電しており、それに対応するためのトロリーポールが屋根上に取り付けられた。
重連での運転が行えるよう、総括制御に対応した主幹制御器も採用されている。車内には補助電源として蓄電池を装備していたが、当時は電動発電機などを装備していなかったことで、2往復の運転後に横川機関区内に設置された蓄電池庫で交換していた。
運用
本項では、本形式に関係する碓氷峠の電化の歴史についても軽く触れる。
1909年6月に碓氷峠の電化が決定し、その準備として1910年に横川へ火力発電所、横川方の丸山と軽井沢方の矢ヶ崎へ変電所が設置された。
1912年5月から本形式を使用した電気運転が開始され、18km/hで運転を行い、所要時間を蒸気機関車で75分以上かかっていたのを43~47分に短縮させたほか、単機で80t、中間に1両を挟んだ2両で140tと若干の輸送力の向上をも行った。
運転開始時は、次のような編成で使用された。
←軽井沢 横川→
[貨車または客車][ピフ][EC40]
[貨車または客車][EC40][貨車または客車][ピフ][EC40]
列車は機関車を除いて、最大14両で運転された。
ピフとは、碓氷峠用のラックレールに制動をかけるための、歯車緩急車である。
1914年に主電動機用の送風機が設置されたため、軽井沢方の運転台が撤去されて片運転台となった。この片運転台構造は、以後に製造されたアプト式電気機関車に踏襲されたほか、EF63形も通常の補機運用では横川方運転台が使用されていた。1915年には横川方を2両に増やした、本形式3両による200t列車の運転を開始した。1918年には本形式の10004号と10009号が車両不具合により急勾配を暴走し、熊ノ平駅で大破する大事故を起こしている。
1919年には輸送力増強のため、大宮工場で造られたED40形(10020形)が導入され、以後は共通運用とされたほか、すべての列車が電気機関車で運転され、1921年からは列車の輸送量が230tに増やされた。
←軽井沢 横川→
[貨車または客車][機関車][貨車または客車][ピフ][機関車][機関車]
1925年からは、さらなる輸送力増強が行われ、次の編成で運転された。
←軽井沢 横川→
[貨車または客車][機関車][機関車][貨車または客車][ピフ][機関車][機関車]
1931年より機関車5両を使用した350t列車の運転が開始されたほか、ブレーキ力の強化により歯車緩急車の使用が廃止された。
1933年から新形式ED42形が製造されたため、本形式が置き換えられることになり、1936年までに全廃された。
廃車後に4両は後述のとおり、他社へと譲渡された。
譲渡
1941年に大宮工場内で保管されていた本形式のうち、EC401~EC404の4両が京福電気鉄道福井支社(現在のえちぜん鉄道)へ譲渡され、うちEC401号とEC402号がテキ511形511号・512号として再起した(EC403号とEC404号は部品取りとして譲渡されたという)。
譲渡にあたり、両運転台への復元や、ラックレール関連機器(モータや歯車等)の撤去、横川方ボンネットを撤去したところへデッキの設置などが行われた。また当時の京福電鉄では、トロリーポールが使用されていたため、パンタグラフからトロリーポールへと交換されている(のちにパンタグラフへと再交換されている)。
テキ511号は1964年に国鉄へと返還されることになり、浜松工場で保管されていたED28形ED2811号と交換で返還された。テキ512号は1970年まで使用されたという。
保存
1964年に京福電鉄から返還されたEC401号は、大宮工場で概ね明治時代の姿へと復元され、輸入当初の10000形10000号として、軽井沢駅に保存されている。
復元されたのと同時に鉄道記念物にも指定されている。