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プロコフィエフ

ぷろこふぃえふ

ロシア人の姓。本項では作曲家のセルゲイ・セルゲーエヴィチ・プロコフィエフについて紹介する。

概要編集

1891年4月23日帝政ロシアエカテリノスラフ県バフムート郡のソンツォフカ(現在のウクライナ東部ドネツィク州)に生まれる。

母の影響で5歳のころから作曲を始め、13歳でサンクトペテルブルク音楽院で作曲・ピアノを学ぶ。

1914年に自作『ピアノ協奏曲第1番』でピアノ成績上位者とのピアノ勝負に勝利。

その後ロンドンで興業主セルゲイ・ディアギレフと連絡を取り、バレエ『アラとロリー』を委嘱される。1915年に作品は完成するが、ディアギレフから「ロシア的ではない」と拒絶されてしまう。その後ディアギレフの指導に従い、アレクサンドル・アファナーシェフの民話集から題材を選定し『道化師』を手掛け、1921年5月17日の初演で大成功を収めた。

音楽院でオルガンを学ぶことで第一次世界大戦の徴兵を逃れたが、この間手掛けたオペラ『賭博者』は2月革命の影響で初演が中止、交響曲第1番『古典』、『ヴァイオリン協奏曲第1番』は延期となっている。

ロシア革命以降はソ連の大臣であったアナトリー・ルナチャルスキーの公認を得てロシアを離れた。

1918年に『古典』の初演を果たした後、アメリカへの亡命を画策。シベリア鉄道を経由して敦賀港から日本に上陸し、6月1日に東京に到着する。そこで南米行きの船を捜したが出航した後であり、8月の北米行きの船便に乗るまで日本に滞在した。

西洋の大作曲家が初めて来日したとして日本の音楽界に少なからず影響を与えたとされる。

1918年にはアメリカサンフランシスコに到着。ラフマニノフらロシアの亡命者らと比較されつつ、ニューヨークでのソロコンサートはいくつかの契約に結び付き、新作オペラ『3つのオレンジへの恋』の契約を結んだ。

しかし音楽監督のクレオフォンテ・カンパニーニが急逝したことで初演が延期となり、経済的にも困窮。1920年4月にはフランスパリへと旅立つ。

パリでは未完成となっていた『ピアノ協奏曲第3番』などを仕上げ、1921年12月にはシカゴで『3つのオレンジへの恋』の初演を実現。ディアギレフはこのオペラに興味を示し、上演の可能性を考えるようになる。しかしオーディションの場に居合わせたストラヴィンスキーと激しく対立する。

1922年にはドイツバイエルンの小村エッタルに移住し、オペラ『炎の天使』に集中。

すでに祖国でファンを獲得し帰国の誘いもあったがヨーロッパ残留を決意。1923年にはスペイン出身の歌手カロリナ・コディナと結婚。2人の息子をもうけた。

その後はパリに戻って複数の作品を演奏するが反響は芳しくなかった。

このころにはストラヴィンスキーと和解するが、プロコフィエフはストラヴィンスキーがバッハを様式化するような作風を嫌っていたという。一方ストラヴィンスキーはプロコフィエフを現代最高のロシアの作曲家と語り、自分に続くものと評していた。

1927年には初のソ連での演奏旅行を実施。1928年には『交響曲第3番』を完成させる。

1929年10月に休暇からパリに戻る途中に車の運転中事故に見舞われ左手の筋肉の一部を負傷。モスクワでの公演を中止することとなったが客席から自作の演奏を楽しみ、数年ぶりにロシアの音楽家と交流するきっかけとなり祖国に帰るきっかけともなった。

世界恐慌で欧米でバレエオペラの上演機会が減少するが、ピアニストとしては根強い人気があった。

しかしあくまでも作曲家としての道を志したプロコフィエフは、ソ連とヨーロッパの間で音楽大使として活動。キーロフ劇場から委嘱を受けバレエ『ロミオとジュリエット』を手掛けた。紆余曲折を得てボリショイ劇場と新しい契約が結ばれたが、原作とは異なるハッピーエンドを迎えたことでソ連の役人の間で論争が起こり、最終的に上演は無期延期となってしまった。

1936年にモスクワに居を構える。同年に『ピーターと狼』を作曲する。

当時のソ連はスターリンによる大粛清の真っただ中であり、自身の築き上げた功績からなんとかイデオロギー的プレッシャーを逃れられるともくろんだが、現実は厳しかった。

1939年の暮れには「戦争ソナタ」こと『ピアノソナタ第6番』、『第7番』、『第8番』を作曲。暗にスターリンを礼賛しなければならない実情を綴ったとされるが、第7番はスターリン賞第2席、第8番は第1席を獲得している。

1941年のバルバロッサ作戦でソ連が戦場となると、レフ・トルストイの『戦争と平和』を原作としたオペラを書き上げた。

1945年の『交響曲第5番』初演によりソ連の主導的作曲家としての名声を得たかに思われたが、慢性高血圧により転倒、脳震盪に苦しむようになる。

戦後はショスタコーヴィチと共に「形式主義」としてジダーノフ批判の対象となった。多くの作品が演奏禁止とされ、18万ルーブルにもおよぶ多額の借金を抱えた。

晩年は健康状態の悪化もあって次第に表舞台から退くようになり、趣味のチェスすらもしなくなった。

最後に姿を現したのは1952年10月の『交響曲第7番』の初演だった。

1953年3月5日に死去。奇しくもスターリンと同日であり、スターリンの3時間前に死去した。

居住していたのも赤の広場の近くだったため、棺はスターリンの亡骸へ向かう人の波と反対方向にひっそりと運ばれていった。


代表曲編集

交響的物語『ピーターと狼

バレエ『放蕩息子

バレエ『ドニエプルの岸辺で

バレエ『ロミオとジュリエット

バレエ『シンデレラ

映画音楽『キージェ中尉

映画音楽『スペードの女王

映画音楽『イワン雷帝

歌曲『みにくいあひるの子

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