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朝倉宗滴

あさくらそうてき

朝倉宗滴とは、越前の戦国大名朝倉家の一門衆。宗滴とは出家名で本名は教景。金吾の名でも知られる。朝倉貞景、孝景、義景の三代に渡って仕えた重鎮。対加賀一向一揆戦でその名を轟かせ、朝倉家の武威を天下に示した名将として名高い。
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越前戦国大名朝倉家の一門衆。朝倉貞景朝倉孝景(宗淳)、朝倉義景の三代に渡って仕えた名将。


プロフィール編集

生没年:1477年〜1555年

諱:教景

号:宗滴

通称:小太郎、太郎左衛門尉、金吾

官位:左衛門尉

渾名:越前の軍神、朝倉の九頭竜


父:朝倉孝景(英林)

妻:朝倉景冬の娘

兄:朝倉氏景、朝倉景総(元景)、朝倉教景(以千宗勝)など

養子:朝倉景紀(貞景の四男)

養孫:朝倉景垙、朝倉景恒


概要編集

英林孝景〜氏景時代編集

朝倉家七代目当主の英林孝景の八男として生まれ、元服後は四兄・景総に殺害された五兄・教景と全く同名の小太郎教景を称していた。

その名前から嫡男として遇されていた可能性(後述)があるが、1481年に父・英林孝景が死去した時僅か4歳だったため、家督は兄の氏景が継いだ。その氏景が1486年に38歳で早世した際もまだ9歳と幼かったので4歳年長だった甥の貞景が家督を継いだ。この時期は叔父である経景・光玖・景冬が活躍していたこともありこれといった事績はない。


貞景時代編集

教景が成人した頃には経景・景冬・光玖ら一族の長老たちは病死しており、その才覚から徐々に台頭し始める。

1503年、京へ出奔し(朝倉家と因縁ある)細川政元の家臣になっていた景総改め元景は娘婿である敦賀郡司・景豊(景冬の子)に貞景への謀反を唆す。そして景豊は義弟である教景に対し加担させようと図る。しかし、教景は景豊の誘いを断り竜興寺に籠り出家し宗滴と名乗った。そして宗滴は貞景に密告し貞景は自ら軍を率いて金ヶ崎城を包囲して景豊を自害に追い込んだ。その後、貞景は宗滴を連座させずかえって景豊の後任の金ヶ崎城主に任じ敦賀郡司に就けた。その後、加賀から攻めてきた元景の軍を破りそれを契機に家中で頭角を現していき朝倉家の軍務を取り仕切ることになる。


この頃、越前の隣国加賀を統治していた一向宗が度々勢力拡大を目指して朝倉領に侵攻してくる。

1506年、周辺の越中能登の門徒と合流してふくれあがった一向宗の軍勢は、越前の九頭竜川一帯で朝倉軍と対峙。宗滴は朝倉軍の総大将を務めることになる。この時一向宗側は30万を超えていたと言われ(もちろん大幅に誇張されているだろうが)、対する朝倉側は1万程度だったと言う。圧倒的に不利な状況の中、宗滴は夜襲を敢行。これが功を奏して一向宗側は潰走した(九頭竜川の戦い)。そして勝利の余勢を駆って越前国内の一向宗の拠点である吉崎御坊(現あわら市)を破壊し廃墟にした


宗淳孝景時代編集

1512年、貞景が38歳で急死。跡を継いだ孝景を後見する。

1517年、幕府の命令で若狭守護・武田元信の援軍とし

若狭丹後で起きた反乱を鎮圧する。

1527年、美濃で土岐家当主・頼武(貞景の娘婿)に対して長井長弘と長井新左衛門(斎藤道三の父)が頼武の弟・頼芸を奉じて反乱を起こす。長弘を支援した北近江の浅井亮政を牽制するために孝景の命で朝倉景職(経景の子、景健の祖父)と共に近江に出兵し、南近江の六角定頼と共に牽制。浅井家本拠地である小谷城の一角を占拠し、六角家と浅井家の調停を務めた。それ以降、彼が占拠した一角は『金吾嶽』と呼ばれるようになる。

更に将軍・足利義晴と管領・細川高国の要請で上洛。京周辺に勢力を伸ばしていた阿波の三好元長(長慶らの父)との緒戦で、見事勝利を収めている。これらの活躍により、下克上による台頭で不安定だった朝倉家はその地位を盤石にした。

この時期、敦賀郡司職を養子の景紀に継がせたが軍奉行の職は継続した。

1531年、一向宗の内紛が起きると能登の大名畠山義総の一族である畠山家俊と共に加賀に出陣。手取川で一揆勢を破るも、津幡で畠山勢が壊滅したため、撤退を余儀なくされた。その後、美濃国主になった道三が尾張織田信秀が戦った際には、道三への援軍として美濃に出兵し信秀を破っている。1548年に孝景は病死し、嫡男の延景(義景)が跡を継いだ。


義景時代編集

すでに70歳を過ぎていた宗滴だが若年の義景に代わって辣腕を奮う。

そして1555年、越後守護代の長尾景虎に呼応して再度加賀に出陣。途中まで順調だったが陣中で病に倒れ、総大将の座を朝倉景隆に譲り帰還。一乗谷で死去。享年79歳。

朝倉家の大柱石で事実上の当主代行だった宗滴の死の影響は大きく、朝倉家の大いなる弱体化を招くことになる。


宗滴死後の敦賀郡司朝倉家編集

宗滴が没した3年後の1558年、景紀自身もすでに50歳を過ぎていたため隠居し長男の景垙が敦賀郡司職を継ぐ。しかし景垙は1564年9月、加賀攻めの陣中で大野郡司朝倉景鏡との口論が原因で自害してしまう。景垙の跡を継いだ弟の景恒も1570年の織田信長徳川家康との戦いで居城の金ヶ崎城を開城したために、家中からの吊し上げに遭い憂悶の内に病死した。このため敦賀郡司家は完全に没落し景紀もこの2年後に病死した。

ちなみに臨済宗の僧侶で千利休と親しく信長や豊臣秀長の葬儀の導師を務めた蒲庵古渓は宗滴の子とも言われている。


人物編集

本来なら嫡男?編集

朝倉の大宿老として朝倉家の全盛期を演出した宗滴だが、本来なら嫡男でありこと、外交や軍事などの権限の大きさなどから貞景の当主就任時から自身が病没するまでは実質上の朝倉家の当主だったという説もある。

元々以千宗勝・宗滴兄弟の諱である教景は5代当主が足利義教の偏諱を受けて名乗った名前であり、祖父・家景と父・孝景も名乗っていた時期がある。さらに兄弟が名乗った仮名の小太郎も五代教景・家景・英林孝景も名乗った由緒ある名乗りだったことから、先述のように宗滴は以千宗勝の死後は嫡男として遇されていたと考えられる。

このため景豊の乱の時、朝倉宗家の家督継承に野心を抱き景豊や元景らの謀反に一度は同調したという。しかし、成功する見込みは無いと悟り景豊らの謀反計画を貞景に密告したとされる。


朝倉宗滴話記編集

宗滴の来歴や教訓などが、家臣の萩原宗俊によってまとめられた。後にこれは編集され、『朝倉宗滴話記』として完成している。成立年は不明だが宗滴の死後と思われる。

武士は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つことが本にて候」の一文が有名。

他にも国を治める手本として今川義元三好長慶武田信玄毛利元就長尾景虎正木時茂(大膳亮)、里見義堯の家臣)、そして織田信長を挙げている。

当時まだうつけと評判だった信長の台頭を予期しており、臨終の際に『後三年生きて織田三郎(信長)の行く末を見てみたい』と語ったと伝わる。


しかし、その信長により敦賀郡司家の没落ひいては朝倉宗家の滅亡を招くことになる。


フィクションにおける朝倉宗滴編集

信長の野望編集

朝倉家家臣として登場。いまいちパッとしない同家家臣団のなかでは、全てにおいて標準以上の極めて高い能力を誇る。初登場時の武将風雲録には「『あの』朝倉にこんな名将が!」と驚いた者も少なくない。同時にかなりの高齢ゆえゲーム開始早々1カ月と持たずに死ぬことが多い。シリーズ通して桶狭間の戦い前後のシナリオではお馴染。信長の家督継承〜桶狭間シナリオ序盤の朝倉家は宗滴が死ぬまでにどれだけ勢力を伸ばせるかが最重要課題となる。


似たような境遇である西上野長野業正と合わせて、ファンの間では「高性能じいちゃん」と呼ばれている。


戦国大戦編集

年代設定のせいで登場が危うかったものの、「-1582 日輪、本能寺より出ずる」にていよいよ参戦。

もう死んでるじゃねえかとか言ってはいけない。北条も氏綱出たし。

上のイラストがその戦国大戦のもの。


スペックは騎馬隊・武力10・統率10・特技「魅力・制圧」。無論浅井朝倉家最高スペックである。と言うか信玄とほぼ互角と言う鬼スペック。


計略は「勝つ事が本にて候」。超絶強化であるが、浅井・朝倉が数揃っていないと全力を発揮できない問題もある。


ちなみに「武士は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つことが本にて候」は出陣時に聞ける。



Fateシリーズ編集

詳細は朝倉宗滴(Fate)を参照。


関連タグ編集

戦国時代

朝倉貞景 朝倉孝景(英林・宗淳) 朝倉義景

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