概要
この裁判は第二次世界大戦における戦争犯罪を裁くために行われた軍事裁判のひとつであり、ほかにはドイツ(第三帝国)に対するニュルンベルク裁判(1945年より1946年にかけて行われた軍事裁判であり、国家社会主義ドイツ労働者党の党大会開催地であるニュルンベルクで開かれ、24名が裁かれ、7名が有罪、3名が無罪、2名が免訴されたほかは死刑)、マニラ軍事裁判(フィリピンにおける戦争犯罪を裁くための軍事裁判)などが存在する。
概要
この裁判は勝利した連合国側が1946年4月29日から1947年(昭和21年から昭和22年)にかけ、戦前・戦中の日本の指導者たちを“戦争犯罪人”として弾劾した裁判である。
根拠としては、日本政府が無条件で受諾したポツダム宣言(ドイツ降伏後のポツダムで行われたアメリカ、イギリス、ソ連の首脳会談中に作成された日本に対する宣言であり、アメリカ、イギリス、中華民国の共同声明として出された日本への降伏要求の最終宣言、すべての日本軍の無条件降伏など全13か条から成る宣言)10条「日本における捕虜虐待を含む一切の戦争犯罪人は処罰されるべきである。」および国際軍事裁判所憲章であるとされる。
この裁判では東條英機元首相以下、“いわゆるA級戦犯”とされた28名が、「平和に対する罪」「人道に対する罪」そのほかの罪状で28人が追訴され、免訴3名を除き死刑7名を含み全員が有罪とされ、死刑の執行は昭和23年2月23日であった。
また、裁判終了時収監者がまだ存在していた
ちなみに日本政府及び国会は昭和27年(1952年)のサンフランシスコ平和条約によりthe judgmentsを受諾し、異議を申し立てる立場にないという見解を示した。
問題点
この軍事裁判に関しては問題点が各所から指摘されており、一部ではこの裁判のことを“復讐劇”や“リンチ”と表現する人物も存在し、ひどい場合は裁判とは称しているものの、その実は中立・公平の原則を一切守っていないデタラメな不当裁判であるとまで主張する向きもある。
このように言われる状況を整理すると以下のとおり
- このような戦犯を裁く軍事裁判自体、戦前からの国際法上のどの規定には根拠が無く、また当時のどの国際条約にもそのような罪は存在しておらず、ドイツの状況をみて戦争終結直前に連合国側で決定したきわめて事後法(実際の行為の際には存在せず後に制定された法律を過去に遡って使用して罰すること。近代法の概念全てを否定することに繋がるため通常はタブーとされている)に近い概念によって行われた。
- この裁判は日本とはまったく事情の異なるドイツ(ナチス)を裁くための軍事裁判であったニュルンベルク裁判をほぼそのまま適用したため、齟齬が見られる。
- 連合国側のシナリオ「一連の戦争は陸海政の共同謀議によるもの」が実際には異なる(陸軍は勝手に動き回り戦局を悪化させ、海軍は戦争が無謀であるにもかかわらずその事実を告げない、さらには政治家は政争に明け暮れ国を見ることはなかった、すなわちバラバラだった)にもかかわらず、それを押し通した。
- 裁く側の判事や検察官が中立国から派遣されておらず、さらには日本および日本人に偏見を抱く人物や法廷の公用語が理解できない人物が指定されており、裁判において守られるべき中立が守られなかった可能性が高い。これは行われた当時から連合国側の専門家の間でさえ、その正当性を疑う声も少なくなかった(唯一の国際法専門家であった、インド代表で参加したラダ・ビノード・パール博士は、国内手続きのミスにより代表に選ばれたため、連合国側の息がかかっていなかった)。
- 裁判の中立性が守られなかったため、国際連合側、特に中国およびソ連に有利になるように訴追、裁判が動かされたとされる。
- 戦争犯罪者選定に関する不可解な状況。これは知名度を中心に決定したためであり、たとえば近衛文麿などは選定を知り自殺を許してしまったし、石原莞爾などはいったん指定されたがはずされた。さらには石井四郎などは指定もされていなかった。また日本軍を敗退に追い込んだ原因となった人物(牟田口廉也・富永恭次など指定の話もあったが不起訴)もし呈されていない。逆にまともな部類だったはずの梅津美治郎だったり松井石根が指名されたりしている。
- 海軍の有力な人間が指定できなかった(艦隊司令などが多いが、そのほとんどが戦死したため)。また、収監中に永野修身(海軍軍人、砲術の専門で日露戦争に従軍したりしている、海軍兵学校長、海軍大臣など。太平洋戦争時に軍令部総長。真珠湾攻撃の許可により戦犯指定された)を殺してしまい、そのため死刑者を出さず「海軍善玉論」がうわさされるようになった。
- 証人の選定や証言など。偽証(自らに利益そのほかため虚偽の証言を行うこと)に対する処罰も存在しなかった(偽証に関しては愛新覚羅溥儀が自伝に記している)。
- 天皇に対する扱い。本人自身は退位して責任を取るつもりであったとされるが、国際状況や責任を取らせまいとする人々により訴追も証言も行わなかった。
- すべての裁判官により協議されることがなかったとフランスの判事は証言しており、本当にきちんとした裁判を行う気が合ったのか疑わしい。
- 敗戦国である日本の戦争犯罪のみが裁かれ、日中戦争における中国国民党などの戦争犯罪やアメリカ合衆国やオーストラリア等の戦争犯罪は省みられず、法の下の平等に反していた(たとえばチャールズ・リンドバーグ(1902-1974、大西洋単独無着陸飛行に初めて成功した人物として知られるが、人工心臓の開発なども行う、第二次世界大戦においてはナチスよりであるとしてアメリカ軍の復帰が認められず民間人として戦争に協力)が、自身の戦争体験を記した『第二次大戦日記』には、連合国側兵士による、日本軍兵士への、おぞましい虐待・虐殺の様子が綴られている)。
ドイツとの比較
この軍事裁判に先立ちナチスドイツもニュルンベルク裁判で「平和に対する罪」、「人道に対する罪」で裁かれており、このことに関してドイツは裁判の結果を受け入れて一切の弁解もしておらず、現在もアドルフ・ヒトラーの著書である「我が闘争」は発禁処分を解除されていないことから比較されることもある。
ところが日本とドイツでは戦後処理の形式が異なり、日本が国家賠償を多数の国に行っているのに対し、ドイツは当時東西に分裂していたため国家賠償が不可能であるとして個人補償という方法を採用し、それもユダヤ人に対するホロコーストなどの非人道的行為に対する補償のみで、日本と異なり旧交戦国のどの国とも講和条約を結んでいない。
更に、西ドイツのリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー(貴族。戦後法律等を学び、政治家や市長となった後、連邦大統領となる。なお父は外交官でありニュルンベルク継続裁判で裁かれる立場であった。)連邦大統領は、自身の演説(この演説は過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となりますというフレーズで日本では有名)で「ヒトラーとナチスに罪がありドイツ人には罪は無く、ドイツ人の罪ではないが責任は負う」という旨の発言をしており、これはつまり「ナチスの犯罪だからドイツは無関係」、「金は払うが罪は認めない」という意味である。
ユダヤ人の中には、このようなドイツの態度に怒り、保証金は受け取るべきではないという声もあったという。
そのほか
GHQの司令官ダグラス・マッカーサー元帥(もともと彼自身はアメリカ単独での軍事裁判を主張しており、国際裁判には反対していた)は、1951年4月に朝鮮戦争の方針をめぐりハリー・S・トルーマン大統領に司令官を解任され帰国後、5月3日から5日までの3日間、上院軍事外交合同委員会での公聴会の宣誓証言をしており、その演説の中で第二次世界大戦での日本について、以下の発言をしている。
Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security.
日本語訳
「彼らが戦争を始めた目的は、主として安全保障上の必要に迫られてのことだったのです」
上述の証言は、このような主張においてよく見られる「私的な場での発言」でも「自伝での記述」でもなく、アメリカの軍事・外交政策を決定する最高の公の場での正式な発言であり、『マッカーサー証言』とも証されており、一部ではこの裁判の正当性を根本から覆しかねない発言とされている(ただしこの発言は一部の切り出しであり「ある上院議員が与えてくれた好機を利用して、日本をテストケースとして自身の解任の原因とされた中国への封鎖作戦の正しさを訴えている」という意見も存在する)。
起訴および処刑の日付に関しては天皇に関する記念日を当てることにより、国民に深く刻み込もうとする作戦であり、ウォーギルトインフォメーションプログラムの一環ではないかといわれている。
結果
この裁判が真実の追究よりも責任者の処罰を優先して行われたことにより、逆に日本がなぜ戦争への道を突っ走ってしまったか、ということが国民にわかりにくくなってしまい、それに伴い右翼による(グダグダだった)戦前回帰が叫ばれる遠因のひとつとなっている。
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関係人物
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被告
被告以外
原告側
ラダ・ビノード・パール(日本無罪論) ダグラス・マッカーサー GHQ