背景
1950年代の世界はアメリカ合衆国を筆頭とする民主主義・資本主義の西側陣営とソビエト社会主義共和国連邦を筆頭とする共産主義・社会主義の東側陣営に分かれ対立する「冷戦」の時代にあった。
米ソ両国は原子力による核兵器開発やミサイル開発などで競い合ってしのぎを削り、互いに牽制し合っていた。
また、当時の米ソ双方が所有する核兵器は数万発に及び、その威力は1発でさえ広島・長崎型の数千倍に及ぶ「全世界を数回焼き払っても、まだ余る」と言われる程の過剰状態で、1発で東京全部を焼く払う程の威力を持っていた。(その後、この事件の反省もあり、あまりにも威力を高めすぎたミサイルは廃棄され、一つの敵基地を破壊できるレベルに抑えられた)
その当時、もしも両国が何らかの状況で戦闘に陥って戦争が発生した場合第三次世界大戦となる、あるいはそうならずとも「核戦争」となる可能性が高いと恐れられ、「人類の破滅」がすぐ傍まで近づいていた。
キューバの状況
もともとこの島を支配していたのは独裁的な親米派のバティスタ政権であったが、1959年にフィデル・カストロがチェ・ゲバラとともに政権を打倒し、反米・親ソ的な共産主義国家を宣言する「キューバ革命」が発生。
アメリカは隣国が共産化し、利権も失われたことに衝撃を受け、両国は対立関係となった。
アメリカ合衆国大統領がドワイト・D・アイゼンハワーからジョン・F・ケネディに代わり、ケネディはカストロ政権打倒計画を極秘裏に練っていたといわれる。
発生
1962年。キューバはアメリカの攻撃に備えてソ連に武器を求め、ソ連第一書記であったニキータ・フルシチョフはアメリカとの国際的な軍事均衡の主導権を手にするため、核弾頭搭載型中距離弾道ミサイル、略称IRBM(弾道ミサイル。なお、ICBMは大陸間弾道ミサイルの事で、射程距離が全く違うため、誤記)、の配備を決定。
7月からキューバにミサイルや必要物資を送り、9月でミサイル42基、核弾頭150発、ソ連兵約3万人が配置された。
アメリカのスパイとなっていたソ連の情報員・ペンコフスキーからキューバへの核ミサイルの情報がもたらされ、10月14日にアメリカは高高度偵察機U-2によってキューバに建設中のミサイル基地を発見。
CIAからの報告を受けたケネディ大統領は閣僚による緊急会議がなされ、様々な対応策がされた。事前通告なしの先制攻撃という強硬案に関してはケネディの実弟で司法長官のロバートは真珠湾攻撃を命じた東條英機と自分たちが同じ立場だとして反対した。
ケネディ大統領はキューバ近海の海上封鎖とキューバを目指すソ連籍貨物船への臨検を決定。16日にケネディはNATOやOASに説明して支持を得て、18日にソ連外相アンドレイ・グロムイコがホワイトハウスを訪問、ケネディと会談するがケネディは攻撃用核ミサイルを発見したことを一切語らず。19日にアメリカは同盟国政府にミサイルを撮影した写真を公開し、22日にケネディは全国テレビ演説でキューバのミサイルを国民に公表。
この時にアメリカ軍は準戦時態勢をとりデフコンレベル( Defense Readiness Condition、戦争への準備態勢を5段階に分けたアメリカ国防総省の規定、平時は5。ちなみに、後の歴史で3が発令されたのは第四次中東戦争とアメリカ同時多発テロの2回のみである)を3に設定し、国内の核ミサイルを発射準備態勢に置き、日本・トルコ・イギリスの駐留米軍を臨戦態勢とし、核爆弾を搭載したB-52爆撃機や核ミサイル搭載原子力潜水艦をソ連周辺に向かわせていた。
さらに米軍は密かに沖縄の在日米軍基地に核ミサイル1300発を配備し、ソ連の極東方面と中国に照準を定めていた。
25日に、国連安保理会議でアメリカ国連大使がソ連国連大使にミサイルの写真を見せて撤去を求めたが、ソ連側はこれをはぐらかした。
戦争準備を進めるアメリカだったが、ケネディは先制攻撃を迫る軍部首脳を抑えて平和的解決に必死であった。
攻撃派の一人で空軍参謀総長のカーティス・ルメイは、かつて大戦時に日本本土への無差別空襲を指揮した人物で、ICBMだけでなく空爆や潜水艦などからの核攻撃も計画していた。だがもしも、この攻撃案が実行されればもしもの時は、東ドイツの西ベルリンにソ連軍が侵攻し、事態が拡大する危険もケネディは想定していた。
一方のフルシチョフも、あくまで政治的な軍事均衡を動かすために核ミサイルを利用したまでで、実際に使うことは躊躇っていた。双方は水面下で妥協点を模索し交渉を続けていた。
その頃、この情報をアメリカにもたらしたペンコフスキーはソ連当局にアメリカのスパイだと判明し拘束、後に処刑された。
危機
26日に、ソ連はアメリカに「キューバ侵攻をしなければミサイルを撤去する」と提案を伝えた。
この時、アメリカのデフコンは更に上の2に引き上げられた(ちなみに、このレベルは歴史上この時のみである)。その後、27日に提案を「トルコの米軍核ミサイル撤去」に変更。
アメリカ側は受け入れがたい要求に困ったが、同日昼頃にキューバ上空を飛行中のU-2がソ連の地対空ミサイルによって撃墜され、さらに核魚雷を搭載したソ連潜水艦に米海軍艦船が爆雷を投下、潜水艦は核魚雷で応戦する可能性があったが、ソ連の政治将校の反対により浮上し、指示に従ったということが後に発覚している。
この日は「暗黒の土曜日」と呼ばれ、ケネディをはじめ、ホワイトハウスの誰もが世界の終末を覚悟して青ざめたと言われる。事件公表以来、国民の多くはマスコミの報道によって核戦争を恐れ、買い溜めに走って大混乱になった。
解決・影響
すでに日本の広島・長崎で、当時保有していた核爆弾の数千分の一の威力でしかない(ために、地球規模の被害を予測できなかった)結果を知っていた両陣営は、このままでは相手陣営を威嚇するための「道具」であった核兵器を、双方のどちらかが『あと一歩』踏み出せば使用してしまい「人類絶滅」(どころか、地球上の生物が全滅)する寸前の状況に陥った。
28日、フルシチョフは突然ミサイル撤去を発表。これを受け、ケネディはキューバ侵攻をしないことを約束し、トルコの核ミサイルを撤去した。
対立国であった米ソはこれを機に、危機回避のための直接対話のホットラインを設置した。一方の直接利害関係が存在するキューバのカストロ議長はこの頭越しの決定に憤慨し、またソ連もカストロ議長の強硬政策を知ってか、キューバとソ連は一時期お互いに距離を置くようになった。
その後、ケネディはダラスで暗殺され、フルシチョフは失脚して第一書記を更迭された。
核戦争の危機は回避されたものの、ベトナム戦争が始まり、冷戦は新たな段階に進んだ。
真相
当時の状況では特にソ連の状況はわからないことが多く、経緯から推測するしかなかった。その後、ソ連などの状況が明らかとなったことで、真相がわかった点も存在する。
撤去の理由
なぜフルシチョフはミサイルを撤去したのか?
当時の米ソ両国は「相互確証破壊(MAD)」という理論(どちらかがミサイルを発射したら、即座に反撃して確実に相打ちに持ちこむ)を採用していた。
有名な話では、KGBがケネディが教会で礼拝した後にテレビ演説をしようとしていると情報を掴み、「アメリカ大統領は教会で礼拝した後に開戦を発表する」という前例から、「ケネディもテレビ演説で開戦を発表して攻撃を実行する」と推測。この憶測を聞いたソ連首脳は、アメリカが本気であると狼狽してミサイル撤去を決めたというもの。
この説は、現在ではデマ話として知られるが、当時も不確実な情報が飛び交っていた。後述するがフルシチョフも本気で戦争する気は無かった。
まとめると、明確なきっかけによって撤去したわけではなく、地道なギリギリの交渉の末の結果にフルシチョフが決断したことになる。
核戦争の可能性
もしもどこかで何かが違っていれば、本当に核戦争が発生し、そして第三次世界大戦が起こっていたか?
当時のアメリカの核兵器保有数が5000発に対してソ連は300発と歴然の差が存在した(しかし、1発の性能に違いがあり、ソ連は威力を度外視したツァーリ・ボンバという水爆さえ作っていた)。(核爆発の威力や放射能汚染を)楽観的に見れば、もしも開戦となって核ミサイルを使用したとしてもソ連側はすぐに使い果たし、アメリカよりもソ連側の打撃が大きいと推測される。仮に奇襲攻撃でNATO各国を壊滅させても、他の地域にも米軍やソ連の敵対勢力がいるため(当時既に中ソ対立が起きている)、勝てなかった可能性が高い(しかし、潜水艦発射ミサイル(SLBM)があるため、地上のミサイルだけでは分からない)。
なお、ICBMは当時開発されたばかりで目標に命中する可能性が低く、米ソは目標から離れた場所に落ちても確実に破壊できるように威力を大幅に高めて命中率を補おうとしていた(だからこそソ連はキューバに、アメリカはトルコに核兵器が搭載可能なミサイルを配備していた)。
そしてフルシチョフは、ミサイルを使い果たせばヨーロッパを主戦場に通常兵器での戦いに移ると見ていた。第二次世界大戦における独ソ戦の一つ、スターリングラードの攻防戦において指揮をとった経験があるフルシチョフはドイツ軍との苦戦を覚えており、同じ徹を踏むことを恐れていた。
フルシチョフはミサイルを外交カードに使っただけで本当に戦闘攻撃に使う気はなく、アメリカがキューバ侵攻を諦めてトルコの核ミサイルを撤去でき、国際的軍事均衡を少しでもソ連に有利になるよう変えたただけでも、満足のいく成果としてみていたといわれる。
とは言え、当時の人々の放射能への認識は甘く、汚染への想定はあまりなかった。核の冬理論もまだ無い。
もしも双方からの核攻撃が実行されれば、核戦争が起こっても地上戦になる前に核の冬や放射能汚染が北半球の広範囲に及び、1960年代時点で人類文明がほぼ滅亡に瀕した可能性は大きい。
関連タグ
渚にて - 1957年にネヴィル・シュートによって書かれた小説。全面核戦争によって北半球が核爆発で破壊・汚染され、南半球のオーストラリアに避難した人類が、その後の放射能汚染によって徐々に全滅するまでを描いた。
遥かなる星 - 佐藤大輔による歴史改変SF。危機がエスカレートして実際に開戦した後の、核戦争による第三次世界大戦の発生とその後の世界を描いている。