歴史
エレメカ時代
起源はエレメカによるアーケードゲームで、1932年にイギリスのマイヤーズ社が販売した「Road Test」が最初とされ、スクロールする布製のコースをハンドルコントローラーで車の模型を左右に動かして通過していくというものであり、以降はそのフォロワーゲームが続いていった。
この頃は機能的に競い合う車両の表現は難しく、「ドライブゲーム」と称するのが妥当であろう。
日本に於いては、1958年にkasco(関西精機)が製作した上記のフォロワーゲーム「ミニドライブ」が初の日本製ドライブゲームである。
ビデオゲームとして
ビデオゲームが誕生し普及し始めるとドライブゲームもそちらへシフトし、競い合う表現が可能となり”レースゲーム”として世に出回り始める。
日本における最初のレースのビデオゲームは、「スペースインベーダー」の開発者として知られるタイトー(当時はパシフィック工業)の西角友宏氏が1974年に開発したトップビューによる「スピードレース」で、この視点がセガが1979年に販売したフォロワーゲーム「モナコGP」にも用いられるなど、ビデオゲーム黎明期には常套化する。
それを改めたのが、1982年にナムコが販売した疑似3D視点による「ポールポジション」で、約2年の歳月をかけてその表現を成功させたという。
以降はトップビューによるゲームも残りはする一方、販売される殆どが実車の運転に近しい3D視点に占められ、主流がドット絵から3DCGに移行するとその傾向は益々顕著となる。
その3DCGによる世界初のアーケード用レースゲームは1989年にナムコが販売した「ウイニングラン」で、その2ヶ月後にはアタリも「ハードドライビン」を販売している。
実車の登場
初期のレースゲームは基本的に実車は登場せず、登場しても版権取得すらしていないので実名を出さないことで存在を誤魔化す((あるいは一部をこっそり変えてそれっぽく似せる))という、「訴えられたらアウト」という状態であった。
そんな中、1989年にナムコが自動車メーカーのMAZDAと組んで「ユーノスロードスター・ドライビングシミュレーター」を開発する。ただし、タイトル通りゲームではなくシミュレーターであり、またユーノスの一部販売店に設置されるのみというものではあったが、ゲームメーカーが正式に実車を用いた最初の製品だといえる。
丁度その頃、フジテレビによる「F1グランプリ」のテレビ放送がブームとなっており、その版権を取得したアーケードゲームが各社から販売された。1991年に基板ベースではビデオシステムが「F1 GRANDPRIX」を、筐体ベースではタイトーが「レーシングビート」、ジャレコが「F-1グランプリスター」、セガも「F1スーパーラップ」を販売するなどしている。ただし、各参戦チームやメーカーとの版権契約ではなくフジテレビを通じて当時のFIA(国際自動車連盟)やFOCA(フォーミュラ・ワン・コンストラクターズ・アソシエーション)との許諾契約を結んだ形を取っている。
また、その後「セガラリーチャンピオンシップ」など自動車メーカーと契約し実車が登場するゲームも販売されるが、宣伝の名目であり版権料は支払われていない。
初めて自動車メーカーへ版権料を支払ったゲームは、1996年にタイトーが販売した筐体ゲーム「サイドバイサイド」で、実際に販売されている複数の車両を選択可能という意味に於いても画期となる製品となった(企画者の酒匂弘幸氏曰く、「版権料を支払うという慣例を作ったため、開発費がその分上乗せされることもあって他社からは結構恨まれた」旨を述べている)。
また、サイドバイサイドのようなゲームの構想はグランツーリスモシリーズを手掛ける山内一典氏も持っており、SCEIへ企画書を提出したものの、まだ自動車メーカーに版権料を支払うということが非現実的とされ、当時は上層部に受け入れて貰えなかったという。それが形となったのはサイドバイサイド発売の翌年であった。
以降、メーカーへ版権料を支払い実車を登場させるゲームが主流となっていくが、ゲームの内容如何ではメーカーから許可が下りないケースも間々あり、殊に危険運転や車が大破するような内容のものは許諾が下りづらい。
また、実在する一般公道を模したコースには、メーカーロゴの看板や垂れ幕などを設置するなどして、レース場であるかのような表現をすることがメーカーからは求められる。
主なタイプ
アーケード - 実際の車の様にハンドルとブレーキ、アクセルがあるものが一般的。時間制限内にゴールする仕様のものが大筋を占める。
据え置き - 主に家庭用ゲーム機の純正コントローラーを使うが、リアリティーを追及するものはハンドルとアクセル、ブレーキのコントローラーが使用できるものがある。
ピクシブ百科事典に記事のあるレースゲーム
あ行〜た行 | な行〜わおん |
---|---|