概要
アメリカによって、日本に自由主義がもたらされた、なんてのは幻想だからな?
戦後、アメリカ陸軍元帥にして連合国軍最高司令官・ダグラス・マッカーサーを中心としたGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は日本を7年間統治し、自由主義的改革を日本にもたらした。
と、教育されている。
まず、戦前の大日本帝国憲法制定以降の体制は、何故か現在の初頭・中等教育では(当時武闘派とされていた)プロイセン(ドイツ第二帝国)のものとされているが、全くのデタラメ。そもそも当時、ヴィルヘルム二世の『黄禍論』を持ち出すまでもなく、ヨーロッパの中でもアジア人蔑視・アジア軽視が酷かったドイツと日本が仲が良い訳がなく(だいたい第一次世界大戦では敵国同士)、実際には同じく立憲君主議会制のイギリスの体制のコピペである。
すでに清教徒革命・名誉革命を経ていたイギリスの体制のコピーだと、「イギリスは民主主義国家じゃねーよ」ということになってしまい、イギリスがアメリカと同じ側、つまり連合国だったために、所謂自虐史観教育に非常に都合が悪かったので、ひん曲げたのである。
ちなみにドイツと日本の相互理解が進み、今日のドイツ連邦共和国と日本の友好関係の下地が築かれたのは、皮肉にもドイツ第三帝国(ナチス)時代である。
そもそも、日本の憲法とは、明治天皇が新体制の樹立(明治維新)に際して示された『五箇条の御誓文』の明文化であり、大日本帝国憲法第一章はこれで成り立っている。
また、戦後、「日本国憲法を制定した」というのも誤りであり、現行憲法は大日本帝国憲法の改正である(つまり、アメリカの圧力があったとは言え、日本は憲政史上既に一度憲法改正をしている)。
明治維新後、とにかく強力なヨーロッパ諸国やアメリカ相手に立ち回るため、天皇の存在は日本国民の団結のシンボルとして必須だった。故に天皇の神格化が行われたのだが、象徴という意味では旧憲法と現行憲法における天皇の存在が実情として全く変わってない事がわかるだろう。
なので旧憲法下では、政府(≠天皇御自身)の都合として安逸に「国民主権」と唱えて国体がバラバラになることを恐れた。しかしそれに変わる言い回しとして「国民本位主義」略して「民本主義」という言葉が生まれた。厳密に言うなら、イギリスを始めとするいくつかの君主制国家の制度はこれである。
戦前日本は軍国主義だと言うが、それは世界恐慌に伴う景気の悪化が原因である。そしてそれは当時の列強と言われた国は多かれ少なかれその状態にあった。
その直前、「狂乱の時代」とまで言われた世界的バブル景気の時代、近代化が遅れていた農村部は別としても、当時の都市部の若い世代は「モボ・モガ」(モダンボーイ・モダンガールの略)と呼ばれ、流行のファッションに身を包み、休日には当時の日本の流行発信地であった銀座や新橋に繰り出して遊興するという、現代のスタイルと大差ないものだった。
また、同じ時期には現在のタカラトミーの源流である富山玩具製作所が創業する(1924年)が、創業者の富山栄市郎はこの時わずか21歳である。
で、日本国憲法第一章と、大日本帝国憲法第一章を比較してもらえると解るのだが、表現を変えてあるだけで言ってることほぼ同じなのである。これは、日本国憲法の起案に際して、当時の日本の憲法学者が、文法が硬い割に組み合わせでいくらでも婉曲表現ができてしまう日本語と、発音数が多く話者数があまりに多いために柔軟性を失っている英語が完全に正確に翻訳できない点をついて、どうにかアメリカ人騙して大日本帝国憲法第一章の内容をそのまま納得させる事に尽力した結果である。
憲法改正に際して、昭和天皇はこの『五箇条の御誓文』を挙げ、日本の民主主義が決して西欧から押し付けられたものではないことを確認している。
そもそもが、現行憲法の効力を保証できるのは日本の国家元首たる今上天皇しかいないので、戦前の制度を否定すると現行憲法の体制もまるごと否定することになってしまう。
ただ、そもそも明治維新を引き起こしたのが黒船来航だから、アメリカが日本の民主化を促した、というのはあながち間違いではない。
あ、あと日本の役所がお互い仲が悪いのは別に旧陸軍と旧海軍の専売特許じゃねーし(このあたりは日本面(鉄道、私鉄・地方公営鉄道編)、インターアーバンの項に詳しい)、なんなら戦後も防衛幕僚会議で空自の士官が「陸自は邪魔だからすっこんでろ」という趣旨の発言をして陸自を激怒させたとかそういう話はいくらでもあるから。
一方、この頃のアメリカの態度はどうだったのかというと、こっちも紳士的とは到底言い難い。民主化と言いつつ、その実、1945年9月2日までアメリカ建国以来最大の強敵となっていた日本が再起できないよう、日本列島以外の領土を切り離しただけではなく、工業力を根こそぎ破壊する、所謂「ハードピース路線」をとっていた。
ただし、マッカーサー本人は昭和天皇とその取り巻く環境を見て、その路線がアメリカに利益をもたらすかはだいぶ懐疑的になるようになっていた。
だが、このような到底友好関係を再構築できるとは思えない戦後の日米関係は、アメリカが方針転換を図らざるを得ない状態となったことで変わっていく。
ソ連の台頭
その転機とはソビエト社会主義共和国連邦の台頭である。後に、西側諸国と呼ばれる陣営の有力国で、イギリスは以前から共産主義の広まりを警戒していたが、第二次世界大戦の大半の時期においてアメリカの指導者であったフランクリン・D・ルーズベルトは、ソ連に融和的だった。しかし、ソ連がアメリカの力を使って版図を広げようとする段階に入ると、ルーズベルトの死に伴ってアメリカの指導者がハリー・トルーマンに代わるが、トルーマンはソ連に対して(すくなくとも、ルーズベルトよりは)融和的な政策をとらなくなっていった。
第二次世界大戦末期には、既にアメリカとソ連の対立、所謂冷戦は始まっていた。これが決定的なものになると、アメリカは、アメリカの勢力圏に共産主義勢力が入り込む事(赤化)に対して、脅威を感じるようになっていた。
この状況で、あんまり日本人に我慢を強いていると、「アメリカは日本人を虐げている! ソ連赤軍は日本人民を解放する」という大義名分をソ連に与えてしまい、日本が赤化する危険性が極大した。この時点でのソ連海軍は大した能力ではなく、アメリカの直接的脅威にはなり得なかったが、日本を取り込まれてしまうと『大和』を建造した日本の技術がソ連に大量流出する危険性がある。
実際、戦後復員してきた大量の元兵士を抱え込んだ国鉄には大量に共産思想に嵌ってしまった者が多かった(国鉄分割民営化の一端は、これを根絶しようとしたものである)。また、シベリア抑留を終えて日本に帰国した元兵士・元満州入植者などが、完全に赤化思想に洗脳されていて、アメリカにとって不穏な勢力となった。
(ただ、昭和天皇に拝謁したあるシベリア抑留帰国者は、その瞬間「俺が間違ってました」と洗脳が解けたことがあると言う。ホンマかいな……)
アメリカは日本の占領政策を可及的速やかに終了し、その後はB-29の総生産数の約1/10を撃墜され、約3,800名のクルーの戦死者を出し、最後は核兵器まで持ち出して苦労して叩き潰した日本の工業を再建するという必要に迫られた。
日米同盟の締結。アメリカの援助による日本の経済成長。
1951年9月にサンフランシスコ講和条約が締結され、日本は主権を回復。さらに、日本とアメリカの同盟・日米安保条約を締結する事で、冷戦において日本はアメリカを盟主とする西側諸国に属する事となった。これが日米同盟の枠組みの原型となる。
日米同盟が締結されたことにより、日米は共にソ連・中国・北朝鮮による脅威に対抗することが可能になった。
さらに、アメリカによる援助もあって、日本は高度経済成長を遂げることに成功した。
ただ、この時アメリカは「戦時中はどんだけ憎しみ合っても終わればスカッと忘れてヘラヘラしてる 」という日本人の特異性を読みきれず、同じ方針の外交政策をとっては失敗するを繰り返す(ベトナム、カンボジア、イラン等)。
一方で、対日関係の再構築はアメリカだからこそうまく行ったとも言われる。君主制や君主制の経験があるヨーロッパの連合国では、ここまで自分達に敵対した日本の君主がおめおめとその座にとどまっている事が許せない、という世論がかなり強い国が多かったのである。日本の皇室と王室との関係が深いイギリスでさえその傾向があった。最初から共和制のアメリカだから受容できたと言われる。
日米同盟の強化
1960年1月、日米同盟が強化され、在日米軍は日本を防衛する義務が生じた。
日米貿易摩擦
だが、1970年代後半に差し掛かると、日米の間は多少、ギクシャクしだす。ゴキb……ゲフンゲフン 戦後の焼け野原から不死鳥のごとく復活し、更に高まった日本の工業力は、アメリカの産業を圧迫し始めたのである。決定的になったのは1978年、「昭和53年自動車排出ガス規制」であった。
日本国内の自動車の規制がどうつながっているのか、というと、この内容、アメリカの自動車業界が達成不可能だと叩き潰してしまった、アメリカの自動車排出ガス規制法案である「マスキー法
」そのものなのである。
アメリカは「損害が発生した後、徹底的に責任を追求する」という点で、日本より進んでいるとされる。しかし一方で、日本は水戸藩時代から官民共同で公害と戦ったシンボルである日立大煙突に代表されるように、「予見される被害は、可能な限り対策する」という点では西欧に先んじている面がある。これは日本が災害大国であることにも由来している。
「安くて高性能、しかもクリーン」という日本車のイメージは日本の工業製品全般のイメージアップにつながった。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のマーティの日本製品に対する印象が、そのまま当時のアメリカ国民が受けている印象だと考えて問題ない。
アメリカの工業力の根幹であると言って差し支えない自動車産業を始め、アメリカが唯一解禁を引き伸ばした航空機を除き、あらゆる工業製品が日本製品の圧迫を受ける様になっていた。アメリカの企業で、日本市場に逆に殴り込みをかけられたのはP&Gぐらいであった。
アメリカは完全共和制の国であるため、資本家や労働者の力が強く、日本製品に良いようにされて彼らから反発を受ければ、政権が持たない。だからといって、既に戦前を遥かに上回る工業力を身に着けた日本にそっぽを向かれた場合、日本が赤化しないまでも、NATO加盟国であってもオピニオンリーダーがアメリカだということが気に食わない何カ国かが日本を抱き込んだ場合、それは長期的に見てアメリカの利益に反する。
アメリカとしてはある程度のところ、日本が本気で怒り出さない線を探りながら、日本の工業製品の対米輸出に制限をかけようとした。だが、これが返って事態をややこしくする。
既にアメリカ国民の生活に浸透してしまった日本製品を、ただ締め出すだけでは、アメリカ国民の生活水準が下がって余計に苦しくなるだけである。
なので、日本企業に現地生産拠点をアメリカ国内に建設させて、そこにアメリカの労働者を吸収してもらうという手法をとったのだが、そのために日本メーカー車がバッシングされると、そのメーカーの現地工場で働いているアメリカ人が「俺達の作っているものに文句があるってのか」となってしまう。挙げ句に、フォードに至ってはマツダ車をダンピング課税対象候補として警告したところ「うちの販売チャネルの売り物がなくなる」と言い出す始末。
一方、日本でもアメリカの経済摩擦に対する是正要求を「イチャモン」だという世論が生成された。アメリカとはある程度距離を取って独自の防衛力(軍事力)を持とうという国防自立論が芽吹き始めたのもこの頃である。
これらの流れは、一応は1990年代初頭の、日本のバブル経済崩壊による景気減速、工業開発能力の減衰で解消されたと日本では思われている。実際は……アメリカの工業界は深いダメージを受けていた。具体的に言うと、第二次世界大戦当時の軍需名門メーカーがスクラップ&ビルドを繰り返すようになり、「直接戦った」あのグラマンもノースロップに吸収されてしまった。
一方、日本は不景気だ不景気だと言いながら、大東亜戦争時の三大軍需メーカーは健在。Big3は多少は力を取り戻したが、それでも浜松の大狸に弄ばれる始末。
あと日本企業が思い切り暴れた結果、ここまでに時計は見事に根こそぎにされ、カメラはアメリカどころか全世界が焼け野原。
冷戦後
1991年、日米の共通の敵対国・ソ連が崩壊し、冷戦が終結した。
しかし、ソ連を事実上継承したロシアは中国・北朝鮮と共に日米に対して恐喝行為を頻繁に行なっているため、日米同盟の意義がさらに増している。
近年では特に、日米両国は台湾有事に共に備えるために協力関係を更に強固にしている。