共同性・同一性・安定性
ユートピアは、かつてそう信じられていたよりもはるかに、その実現可能性が高まっているように思える。われわれはいま、新たな警戒すべき問題に直面している。すなわち、 ユートピアの最終的な実現をいかにして防ぐか? ……ユートピアは実現可能である。生活は、ユートピアに向かって行進している。そしておそらく、新しい世紀が始まるだろう。知識階級や教養人たちが、なんとかしてユートピアを避け、それほど“完璧”ではなくもっと自由な非ユートピア的社会に立ち戻ろうとして、その方策を夢見る世紀が。
――ニコライ・ベルジャーエフ
概要
イギリスの作家、オルダス・ハクスリーが1932年に発表した社会派SF小説。機械文明による繁栄と引き換えに尊厳を見失った人間の姿を皮肉と諧謔を込めて描いたユートピア/ディストピア小説である。
相反する性質を持つ『1984年』同様傑作として海外では名高く、その異なった社会構造から比較されることが多い。
題名
題名の「すばらしい新世界(Brave New World)」とは、シェイクスピアの戯曲「テンペスト」の登場人物、ミランダの台詞から引用されている。作中でもとある人物によって発された。
「おお、なんというすばらしい新世界! こんな人達が居るなんて!」
あらすじ
フォード紀元632年(西暦2540年)、中央ロンドン孵化・条件づけセンター心理課で働く心理学者であるバーナードは、アルファ・プラスという最上位階級に生まれたにもかかわらず、労働者階級のガンマの容姿をしていることに劣等感を抱いていた。社会に疑問を持つ彼は、使用が当然であるソーマ(副作用なしの合法ドラッグ)を飲むことも拒んでいた。
生まれ持った容貌と卑屈で羞恥心の強い性格のため、変わり者とみなされ孤立しているバーナードの唯一の友人は、同じくアルファ・プラスであり、しかし高すぎる能力のために周囲からの隔絶を感じ、内に孤独を宿しているヘルムホルツである。作家でもあるヘルムホルツは、痛みのない社会では自分の才能を創造的に使うことが難しいと感じていた。
あるときバーナードは友人のベータ階級のレーニナと共にインディアンの蛮人保存区へ旅行に行き、シェイクスピアを耽読する青年、ジョンと出会う。
旅行直前に上司とした会話をもとに彼が上司の私生児である事を見抜いたバーナードは、彼と彼の母親、リンダをロンドンに連れて帰ることにする。
旧世界の倫理観や常識を持った“野蛮人(Savage)”を、旧世界にとっての堕落にまみれた、“すばらしい新世界”に連れていく事で、喜劇とも悲劇ともつかぬ騒動が始まってしまう。
作品世界
西暦2049年に勃発した「九年戦争」と呼ばれる最終戦争が終結した後、全世界から暴力をなくすため、安定至上主義の世界が形成された。その過程で文化人は絶滅し、それ以前の歴史や宗教は抹殺され、世界は世界統制官と呼ばれる10人の統治者から成る『世界統制官評議会』によって支配されるようになった。
イエス・キリストや神の代わりに大量生産の始祖で自動車王のヘンリー・フォードが創造者(そして預言者として)崇拝され、胸元で切るのは十字ではなくT型フォードを表すT字になっており、用いられる暦は西暦ではなくT型フォードの初生産年1908年を元年としたフォード紀元である。
ほとんどすべての人間は人工受精によって培養瓶の中で養育され、家族制度は消滅し、家庭という言葉が連想させるのは陰鬱と不潔、そして猥褻という言葉になり、幼少からフリーセックスが奨励され、特定の個人に執着することは忌むべきものとなっていた。
倫理というものが根本から現代とは異なるこの世界では死者を弔うことはなく、火葬場で焼いたら、そこから産出したリンは食料生産の肥料にされる。
また後述するソーマという薬の影響のため人々は死ぬまでほとんど老いることはなく、なんの苦痛もなく死ぬ。条件づけによって死への恐怖、悲しみを失った人々にとって、死とは丁重に扱うべきものではない。
またこの世界では階級制度というものが設けられており、人間はアルファ・ベータ・ガンマ・デルタ・エプシロンの五つに製造し分けられる。
アルファ・ベータの二つは知識人階級として優れた容姿、優れた能力が与えられ、一つの胚から一人造られる。
残りの三つは労働者階級としてわざと身体機能や知能が劣らされ、社会の役割分担ともいうべきことが行われている。ときに48に及ぶ異常な数の多胎児として効率的に製造され、まさに部品扱い。
また人々には睡眠学習による幼児期からの刷り込みが施されており、一粒でどんなストレスも吹っ飛ばしてしまうソーマという副作用なしの麻薬が与えられているため、誰もこの社会構造に疑問を抱かず、誰もが自分の立場に満足し、誰もがこの世界に幸福を感じている。
彼らにはたしかに下の階級への蔑視も刷り込まれているが、同時にこのような“教え”も与えられている。
「みんな誰かの役に立っている。いなくていい人などいない」
どうしても社会に適応できなかった場合も、他の多くのディストピア小説のように殺処分はされず、同じような不適合者のいる島に流されそこで自由に真理を研究することを許される。ディストピアにしてはかなり優しい。
1984年が出版されたとき、著者からジョージ・オーウェルへ送られた手紙の一説
「世界の支配者たちは、幼少期の条件付けや麻薬催眠が、政府の手段としては棍棒や刑務所よりも効率的であることを発見し、人々を鞭打ったり蹴ったりして服従させるのと同じように、人々に隷属を好きにさせることで、権力欲を完全に満たすことができることを発見するだろうと私は信じている」 |
──もしユートピアの定義が万人の幸福というところに有るなら、この世界こそがそうだと言えるだろう。
登場人物
計画生産された人物は、すべて経済学や社会学の偉人に由来する名前をつけられている。姓は1万通りしかない(世界人口は20億)ので、被りがそれほど珍しくない。
バーナード・マルクス(Bernard Marx)
中央ロンドン孵化・条件づけセンター心理課で働く心理学者。培養瓶の中に注入する人工血液に誤ってアルコールが混入したため(本来はガンマ以下の階級の胎児に行う処置)ガンマ階級の容姿を持っており、階級のわりに低身長。本人はそのことに劣等感を抱いており、幸福にみちみちた人々とは違って卑屈で内気な性格。その捻くれた性根のため周囲からは孤立している。
蛮人自治区で出会ったジョンを町に連れて帰り、蛮人(Savage)の管理者として社交界で衆目を集める。
「 新しい人間をわけなくつくることが出来るのだ――望むだけの数をね。異端は単なる個々の人間の生命以上のものをおびやかす――それは社会そのものに打撃をあたえるのだ。そうだ、社会そのものに。 」
ヘルムホルツ・ワトソン(Helmholtz Watson)
バーナードの唯一の友人でアルファ・プラスの感情技術者。完璧なアルファ・プラスの美男子かつ非の打ちどころのない社交家で、感情工科大学創作学部の講師を務める傍ら詩人や脚本家としても才能を発揮している非常に優秀な男であるが、それゆえに自分は周囲の人間と違っているという孤独を感じている。
4年以内に640人もの女性と関係した噂がある。
バーナードのことは好きだが、彼の自己憐憫や自慢の悪癖にはやや辟易している。
「 "フォード様はみずから助くる者を助く" 」
レーニナ・クラウン(Lenina Crowne)
中央ロンドン孵化・条件づけセンターで働くベータの保育士で、赤子に予防接種を打つ作業をしている。センターのアルファ男性のほぼ全員と寝たことがある美女。公平な人格で皆から人気があるが、ここ4ヵ月ほどはアルファのヘンリー・フォスターとだけ関係を持っていたため、ちょっと変わり者扱いされている。
皆とは違ったバーナードに少し惹かれているが、彼の風変わりな思想を理解できないこともしばしばある。
「 "鬱かなと思ったら早めのソーマ"よ 」
ジョン・サヴェジ(John the Savage)
中央ロンドン孵化・条件づけセンター所長(アルファ)と、その元恋人リンダ(ベータ)の息子。小麦色の髪に薄青の瞳、浅黒く焼けた肌の白人の美青年。
蛮人保存地区で生まれ育ち、前時代の劇作家シェイクスピアの全作品を愛読している。
初めのうちは文明社会に行けることに歓喜していたもの、文明社会に旧世界の倫理や文化はほぼすべて欠落していることを知り、失望する。社会の歪みを正そうと色々な騒ぎを起こすも、社会からは好奇の目を向けられマスコミに集われ、最後には……
「 僕は不幸になる権利を要求しているんです 」
ムスタファ・モンド(Mustapha Mond)
西ヨーロッパ駐在統制官で世界統制官の一人。この世界の統治者であるが、旧世界の文学や思想に明るく人間社会に対する洞察に満ち、冷笑的でどこか優しい憂愁さえたたえた哲学的な指導者。
「 苦労なしで身につくキリスト教精神――それがソーマだ 」
関連タグ
オメガバース…階級の呼び方が似ている
『ハーモニー』…すばらしい新世界の系譜に並び得る幸福な白いディストピア。真綿で首をじわじわ絞められるような楽園。医療技術を社会の管理手段に置いているところが類似している。最重要人物によって本作が言及されるシーンが作中ある。
『シン・仮面ライダー』…持続可能な幸福(ディストピア)を追求する愛の秘密結社SHOCKERが登場。
『機動戦士ガンダムSEEDDESTINY』…デスティニープランの目指すところがこの世界に似ている
『ダーリン・イン・ザ・フランキス』…妊娠・出産の必要が消滅し、“コドモ”と呼ばれる被搾取階級の結婚が重罪扱い(兵器として運用できなくなることを阻止する意味合いが強い)される未来社会が舞台。“コドモ”はすばらしい新世界の人々と同じように“製造”されている
『1984年』…この世界と性質を逆にする世界、結果として持続不可能だったことが示唆された厳格な黒いディストピアが舞台。ディストピア小説のなかではすばらしい新世界同様有名な作品