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イギー・ポップ

いぎーぽっぷ

アメリカの歌手、ミュージシャン、俳優。「ゴッドファーザー・オブ・パンク」と呼ばれる。
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概要編集

本名:ジェームズ・ニューエル・オスターバーグ・ジュニア(1947年4月21日~)

アメリカ合衆国出身の歌手ミュージシャン俳優。1960年代に結成したストゥージズでの過激な音楽性やステージ・アクトから「ゴッドファーザー・オブ・パンク」と呼ばれる。


来歴編集

誕生から編集

1947年4月21日、マスキーゴン市(ミシガン州)に誕生。後にデトロイト市郊外のイプシランティ市に転居する。


1960年、アナーバー市のパイオニア・ハイスクールに入学。成績優秀者で雄弁部に所属し活躍した。

ドラマーとして幾つかのバンドを掛け持ちし、初のレコーディングを経験したイグアナズの愛称「イギー」は後に芸名に採用される。


1965年、ミシガン大学に入学したが翌年に退学。レコードショップのバイトをしつつ、プライム・ムーヴァーズに加入。

リスペクトするサム・レイ(ドラムス)の連絡先をポール・バターフィールドに教えてもらい、シカゴ市まで会いに行く。シカゴ市には8ヶ月ほど滞在し、リトル・ウォルターマジック・サム等と共演するが、「ブルース黒人の音楽だし、自分は白人キッズのための音楽を演ろう」と決心。


サイケデリック・ストゥージズ編集

1967年、「バンドをやれば女もヤクも喰らい放題」と言ってメンバーを集め、サイケデリック・ストゥージズを結成。デトロイト市で活動し、MC5らと親交を深める。当初はインストゥルメンタル・グループだったが、ジム・モリソンの影響でイギーがヴォーカルをとり、衆目を驚かすパフォーマンスを行うようになった。


1968年3月、ギャラを貰っての最初のギグで客席にダイブして歯を折る。その後も割れたガラス瓶の上を転げまわる等「悪ふざけ」を行い、次第に注目されるようになった。


ザ・ストゥージズ編集

1968年10月8日、MC5と共にエレクトラ・レコードと契約。バンドはザ・ストゥージズに改名した。


1969年8月5日、デビュー・アルバム「イギー・ポップ・アンド・ストゥージズ」をリリース。

ビルボードで最高位106位。


1970年7月7日、セカンド・アルバム「ファン・ハウス」をリリース。

評価は高かったが商業的には失敗に終わった。メンバー全員が薬物依存でバンド内は滅茶苦茶になり、エレクトラ・レコードから契約を解除される。


1971年7月9日、ザ・ストゥージズは解散。


イギー&ザ・ストゥージズ編集

1971年9月、デヴィッド・ボウイの所属事務所「メインマン」と契約し。コロムビア・レコード社長クライブ・デイヴィスの目に留まり、レコーディング契約を得る。


1972年3月、イギー&ザ・ストゥージズを結成するが、実質ザ・ストゥージズ再結成だった。


9月10日、アルバムのレコーディングが始まり、1ヶ月程で終了したが、所属事務所は稚拙なミックスが気に入らず、ボウイにリミックスさせた。


1973年2月、「ロー・パワー」をリリース。


5月、所属事務所「メインマン」から解雇された。

7月30日以降、コロムビア・レコードの後援によりプロモーション・ツアーが行われ、これまで以上に過激なものとなる。


12月、クライブ・デイヴィスが社長を解任され、年明けにはイギー&ザ・ストゥージズもコロムビア・レコードとの契約を解除される。


1974年2月、デトロイト市の暴走族コーピオンズと対立し、殺害を予告される。イギーが観客を挑発、罵倒し、客がステージに物を投げつける状況にバンドのメンバーは疲弊し、イギーの提案で解散することになった。


ソロ活動編集

イギー&ザ・ストゥージズ解散後、業界から干されたイギーはUCLA神経精神医学研究所に入所して薬物依存症治療にあたり、ボウイは治療施設を度々訪問した。自分も薬物依存症に苦しんでいたボウイは、売人と縁を切るためロサンゼルスを離れたいと思っていた。


1976年6月、イギーとボウイはエルヴィル城(フランス)に滞在。その後西ベルリンに移ってマンションで共同生活を送る。ボウイの紹介でRCAレコードとのレコーディング契約を得る。


1977年3月、初のソロアルバム「イディオット」をリリース。

ボウイがベルリン三部作レコーディングの合間にプロデュースに当たり、バックの演奏もほとんどがボウイによる。ビルボードで100位以内にチャートインした。


1977年8月29日、ボウイのプロデュースでセカンド・ソロ・アルバム「ラスト・フォー・ライフ」をリリース。

イギリスでは前作以上の売り上げがあったが、アメリカでは発売のタイミングがエルヴィス・プレスリーの死と重なり、RCAレコードはエルヴィスの旧譜再発に忙しく放置された。これに不信感を持ったイギーはRCAレコードを離れ、アリスタ・レコードと契約する。


1979年4月、「ニュー・ヴァリューズ」をリリース。

評価は高かったが商業的には失敗に終わった。

このためアリスタ・レコードからすぐ次作の制作に入るよう要求されたが、メンバーの出入りが激しく、みな身勝手な行動をして制作現場は混乱を極めた。


1980年2月、「ソルジャー」をリリース。

商業的には失敗に終わった。アリスタ・レコードからは「もっとコマーシャルな曲を作れ」とプレッシャーをかけられる。


1981年6月、「パーティー」 をリリース。

商業的には失敗に終わり、アリスタ・レコードから契約を切られた。


11月30日、12月1日、ローリング・ストーンズサポートアクトとしてポンティアック・シルバードームでのライブに参加。革ジャンミニスカートノーパンストッキングを履いた姿で客を罵倒しまくり、ステージに物が投げられ大混乱となった。


1982年、インディーズアニマル・レコーズ(配給はクリサリス・レコード)と契約。


9月、「ゾンビー・バードハウス」をリリースし高い評価を得る。

プロモーションのため2年がかりのワールドツアーを敢行。ヨーロッパ、北米、日本、オーストラリアを回る。


1983年8月、ボウイのアルバム「レッツ・ダンス」からイギーと共作の「チャイナ・ガール」がシングル・カットされて大ヒットし、75万ドルの印税収入により経済的苦境から解放される。


1984年5月、ボウイのアルバム「トゥナイト」のレコーディングに参加。

「ダンシング・ウィズ・ザ ・ビッグボーイズ」を共作した。


1986年5月、A&Mレコードと契約。

出演した映画シド・アンド・ナンシー」がカンヌ映画祭で公開。


10月23日、「ブラー・ブラー・ブラー」をリリース。

ビルボード100位以内にチャートインし、イギリスではシングル・カットされた「リアル・ワイルド・チャイルド」がチャート10位を記録した。


1988年6月20日、「インスティンクト」をリリース。

セックス・ピストルズのギタリスト、スティーブ・ジョーンズを迎えハードな内容となった。A&Mレコードに契約を解除され、ヴァージン・レコードと契約。


1990年6月、「ブリック・バイ・ブリック」をリリース。

プロデュースはドン・ウォズガンズ・アンド・ローゼズからダフ・マッケイガンスラッシュがゲスト参加。シングル・カットされた「キャンディ」はビルボードで28位を記録。


1993年9月、「アメリカン・シーザー」をリリース。


1996年3月5日、「ノーティー・リトル・ドギー」をリリース。


8月30日、出演した映画「ザ・クロウ」がアメリカで公開。


1999年9月14日、「アヴェニューB」をリリース。


2001年6月18日、「ブチノメセ!」をリリース。


2003年9月5日、出演した映画「コーヒー&シガレッツ」がヴェネツィア国際映画祭で公開。


11月4日、「スカル・リング」をリリース。


2005年7月19日、「プレリミネール」をリリース。

アストラルワークス・レーベル(配給はヴァージン・レコード)に移籍し、ニューオーリンズ・ジャズの影響を感じさせる内容。


2012年5月9日、「アプレ」をリリース。

ヴァージンEMIレコードから契約を切られ、サウザンドマイルIncより発売された。


2016年3月18日、「ポスト・ポップ・ディプレッション」をリリース。

キャロライン・インターナショナル/ロマ・ビスタ・レコーディングスより発売された。アメリカでビルボードトップ20、イギリスでOCCトップ5を記録。


2019年9月6日、「フリー」をリリース。

キャロライン・インターナショナル/ロマ・ビスタ・レコーディングスより発売された。


関連タグ編集

洋楽 ロック パンク

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