プロフィール
父ノーアテンション
スーパークリークの父として有名であるが、産駒は晩成型のステイヤーが多かった。通算成績は33戦6勝。1982年10月には凱旋門賞からロワイヤルオーク賞まで4連闘を敢行するタフさも持ち合わせていた。
兄は皐月賞2着馬
半兄は1991年の皐月賞でトウカイテイオーの2着に入ったシャコーグレイドである。トウカイテイオーの引退式が行われた日に実施された東京スポーツ杯を制した。現役引退後は福島競馬場で誘導馬になり、誘導馬引退後に映画「超高速!参勤交代」にも出演し銀幕デビューを果たしたが半年後に老衰で亡くなっている。
戦績
(馬齢表記は旧年齢表記)
3歳時(1戦1勝)
1992年8月16日に新潟競馬場で開催された新馬戦でデビューし快勝も休養に入る。
4歳時(6戦未勝利)
京成杯で復帰を果たしたが8番人気で10着に惨敗。以降も勝つことは出来ず、一介の500万条件馬として過ごす。
5歳時(12戦4勝)
1994年1月30日開催の一般戦に勝利しようやく自己条件を脱出。昇級初戦の早春賞も勝ち1500万条件に昇級も「クラスの壁」にぶち当たってしまい夏競馬の際に900万条件に降級。しかし、醸成された奥手の血はようやく開花し日本海ステークスを快勝。昇級2戦目のオクトーバーSでは東京競馬場芝2300mのレコードを叩き出し遂にオープン入りを果たした。
6歳時(6戦未勝利)
念願のオープンに昇級したもののまたもやクラスの壁にぶち当たってしまい、オールカマーでの5着以外は掲示板に届かない日々が続いた。
7歳時(8戦未勝利)
年明けの中山金杯から始動したが15着の大惨敗。以降も目黒記念4着、日経賞3着、メトロポリタンステークス2着と散発的に好走こそするものの勝ち切るまでには至らななかった。
8歳時(平地7戦未勝利/障害3戦1勝)
AJCCから始動したが惨敗を繰り返し、目先を変えて久々のダート戦として武蔵野Sにも出走したものの好転に至る事はなく陣営は障害競走への転向という判断を下した。さすがに障害競走の世界では平地での脚の違いから3戦目で勝利している。
9歳時(平地5戦1勝/障害3戦1勝)
年明け早々の400万条件戦を勝利し障害オープンクラスに昇級するも、またもや平地時代同様にクラスの壁に阻まれてしまった。昇級初戦の東京障害特別(春)では落馬競走中止、次走の阪神障害ステークス(春)も6番人気で9着と大敗。中山の障害コースが合わないと判断した陣営は東京開催まで回避するため一旦平地競走に復帰させることにした。そして障害転向前に2年連続で出走していた日経賞を使う事に決めた。
運命を変えたあの日
12頭立ての12番人気…最低人気である。1番人気は連覇を狙うローゼンカバリー、2番人気は1997年の菊花賞2着馬ダイワオーシュウ… テンジンショウグンの支持率は1%どころか全体の0.2%でしかなかった。陣営も江田照男騎手に「賞金圏内の8着までに入ればいいから」と指示。しかし8着どころか一世一代の大爆走で勝利し、2着も人気薄だったシグナスヒーローだったため馬連、枠連とも当時の払戻金額の最高記録を樹立した。配当記録については下表のとおりである
馬券種類 | 配当 | 当時の順位 |
---|---|---|
単勝 | 35,570円 | 第3位 |
枠連 | 59,000円 | 第1位 |
馬連 | 213,370円 | 第1位 |
最初で最後のGⅠ出走
この勝利がきっかけとなり障害復帰は白紙に戻され、平地競走に専念することになった。そしてテンジンショウグンにとって初めてのGⅠ競走への出走の機会が巡ってきた。天皇賞(春)である。
日経賞勝利のインパクトはやはり大きく、天皇賞前には朝のニュースでも取り上げられた。また人気面でも6番人気と穴人気になってはいたが、結果は勝ち馬メジロブライトに1.6秒離された11着に終わった。
燃え尽きた果てに
あの日経賞で完全に燃え尽きてしまったのか、以降もいいところなく惨敗を繰り返しアルゼンチン共和国杯18着を最後に引退が決まった。
引退後
警視庁騎馬隊への転身が決まった。だがそれは競走馬時代の「テンジンショウグン」という名との決別を意味していた。転身の際に新たな馬名が与えられるためである。新たなる志を意味する「新志」という名を拝命したテンジンショウグンは交通安全教育などで2012年8月まで活躍し、再び「日経賞馬・テンジンショウグン」として亡くなるまで北海道の養老牧場で余生を送った。