夏目時行
なつめときゆき
1962年2月6日、千葉県に生まれる。画業開始までの経歴は不明。
1988年12月、児童書出版社『偕成社』の児童図書シリーズ『創作こどもクラブ』で『ゆかりとひろし 日記はひみつ』(文:浜野卓也)の作画担当を務める。
1990年6月、同シリーズで『オレがいっぱい大作戦』(文:浅川じゅん)の作画担当を務める一方、総合出版社『小学館』に持ち込んだ短編漫画『ぶっとび!ニンニン』で第19回藤子不二雄賞(現・小学館新人コミック大賞 児童漫画部門)佳作を受賞し、同年同月の児童漫画雑誌『月刊コロコロコミック 夏休み増刊号』への掲載によって漫画家デビューを果たす。
1991年1月、サブカルチャー情報誌出版社『ラポート』で奥田誠治によるOVA作品『ドリームハンター麗夢』のアンソロジーコミック第1弾『ぱあてぃ おぶ 麗夢』に寄稿する。
1991年3月、本誌掲載の確約を前提に『月刊コロコロコミック 春休み増刊号』で読切漫画『はしれ!迅風丸』を執筆し、同年5月に自身初の連載作品となる『ニンジャBOY あばれ!忍丸』を別名義「菊池モモタロー」のペンネームで開始する。
厳密には原作を富田祐弘、企画構成を広井王子率いるマルチクリエイター集団『レッドカンパニー』(現・レッド・エンタテインメント)が担当した共同作品であり、実状は以前と同じく作画担当に留まってはいたものの、新人漫画家の連載デビュー作品にアニメ業界のビッグネームが2人も付くという異例の待遇を受けての発進となった。
しかし、強力な後押しに反して連載当初から伸び悩みが続き、翌1992年2月の全10話を以って人気低迷による打ち切りが決定し、小学館を去ると同時にペンネームを本名に戻す。なお、後に発刊された単行本第2巻には打ち切りによる連載終了で発表されなかった物語の結末部分23ページの補完に加え、一部のページに加筆修正が施されている。
1992年4月、知古を得ていた偕成社の依頼を受けて『ゆかりとひろし 恋はおまじない』(文:浜野卓也)の作画担当を務め、同年8月にラポートの霊夢アンソロジー第2弾『ふぇすた おぶ 麗夢』に寄稿する。
1993年6月、教育書出版社『学習研究社』(現・学研ホールディングス)の漫画雑誌『月刊コミックNORA』で『リリス』の不定期連載を開始する傍らでイラストレーター業を併行し、同年11月に再び偕成社の依頼を受けて『コピーがいっぱい大作戦』(文:浅川じゅん)の作画担当を務める。
1994年6月、学研の隔週刊漫画雑誌『コミックガイズ』で『マッドクィーン麗華』の連載を開始し、同年9月に秋田書店の『コミック版 学校の怪談1 戦慄のトイレ恐怖体験集』の一編『契約の行方』を執筆するが、コミックガイズでの連載終了を最後に執筆活動の形跡そのものが途絶える。
本業が児童図書の挿絵を描くイラストレーターであり、28歳で迎えた漫画家デビューは当時としてもかなりの遅咲きに属するとは言え、漫画とは違って一枚絵で的確に場面の詳細を語る挿絵の技術を活用した緻密な筆致は背景や機械の描写に顕著に表れており、効果線を多用した躍動感を信条としつつも白黒のメリハリを効かせた書き込みでスッキリと見せる。
『リリス』以前の執筆作品は熱血で向こう見ずな腕白少年を主人公に据える傾向が強く、コロコロコミック時代の忍者作品三部作はその代表例であり、特に『あばれ!忍丸』では雑誌購読層の性質上から「屁を忍法に利用する」「堂々と陰部を晒す」「底無しの資質に振り回される」など、腕白盛りの元気少年振りをギャグで誇張した描写が随所に見られる。
未刊行作品については誌面掲載年に読み替えの事。
夏目時行名義
偕成社
発刊年 | 名称 | 掲載誌 | 総巻数 |
---|---|---|---|
1988 | ゆかりとひろし 日記はひみつ | 創作こどもクラブ | 1巻 |
1990 | オレがいっぱい大作戦 | 創作こどもクラブ | 1巻 |
1992 | ゆかりとひろし 恋はおまじない | 創作こどもクラブ | 1巻 |
1993 | コピーがいっぱい大作戦 | 創作こどもクラブ | 1巻 |