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艦歴編集

1935年6月20日起工

1936年6月19日進水(高速給油艦「高崎」として)


※この間に潜水母艦へと計画変更。さらに潜水母艦として竣工する前に航空母艦へと再変更された。


1940年12月27日竣工(航空母艦「瑞鳳」として)

1944年10月25日沈没

1944年12月20日除籍


史実編集

旧日本海軍ワシントン海軍軍縮条約による空母の保有制限から逃れる為に、戦時に空母に迅速に改造できる艦船を企画した。

その案により1935年に建造される事になったのが、「瑞鳳」の前身である「高崎」であり、当初は給油艦として設計された。

その後、建造途中で軍縮条約から脱退した為、より空母に改造しやすい潜水母艦に1938年に計画変更され、更に1940年に潜水母艦から空母へと計画を再変更、艦名も「瑞鳳」として竣工した。


起工日はさほど早くなかったが、祥鳳龍鳳千歳型など給油艦潜水母艦からの改装軽空母を一纏めにした書類上の型「瑞鳳型」では一番改装が早かったために一番艦となった。


太平洋戦争開戦当初は最前線に出る事は無く、試験航海も兼ねて本土・台湾間の航空機輸送作戦に従事していた。

1942年4月、米空母「ホーネット」が放ったB-25部隊が日本本土を初空襲する「ドーリットル空襲」が発生。瑞鳳は、空襲を終えて撤退する米機動部隊に逆襲するべく向かったが、発見する事が出来ず仕方なく帰投した。


1942年6月5日、米国との一大決戦でもある「ミッドウェー海戦」に軽空母「鳳翔」とともに参戦。ただし主力空母はあくまで「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍」の4隻で、「瑞鳳」と「鳳翔」は旧式機ばかり搭載した予備空母戦力の扱いであった。ところがこの戦いによって主力空母4隻を一挙に失ってしまったため急遽、控えだった第三航空戦隊に攻撃の命令が下る。瑞鳳隊の航空機は本格的な戦闘を想定していなかったため魚雷を搭載していなかったが、それでも敵襲に備えて発艦準備を整えるが、結局そのまま海戦が終わってしまった。続く9日、残存の攻略部隊は北方へと向かい、陽動のためアリューシャン方面の米軍拠点ダッチハーバーを空襲していた「龍驤」・「隼鷹」と合流。大湊へ帰投した。帰投後、艦隊司令の「山本五十六」より感状を承っている。


この戦いによって第一・第二航空戦隊が纏めて消滅してしまったため、1942年7月14日に慌てて再編成が行われた。これにより空母不足の穴を埋めるべく軽空母の「瑞鳳」も最前線へ投入される事になり、なんと「瑞鳳」は「翔鶴」「瑞鶴」の正規空母とともに栄えある第一航空戦隊へと配属された。太平洋戦争中、空母のエース部隊である一航戦の一翼を担ってアメリカ機動部隊と戦った軽空母は瑞鳳だけである。


10月26日、南太平洋海戦では「翔鶴」「瑞鶴」とともに機動部隊を編成しソロモン方面へ進出。しかしその戦闘で第一次攻撃隊発艦直後に、偵察のドーントレス急降下爆撃機2機の奇襲に遭う。「瑞鳳」側は敵襲に全く気づいておらず、しかもその時の飛行甲板には発艦準備中の第二次攻撃隊が所狭しと並べられていた。下手すれば、ミッドウェーの悪夢再来となりかねない最悪の状況であったが、ドーントレスが投じた爆弾は運良く航空機の無い艦尾に命中、引火による大爆発は避けられた。ただ、このダメージで「瑞鳳」は中破してしまい、艦載機の発進こそ辛うじて可能だったが着艦が困難になってしまった。そのため「瑞鳳」は戦闘開始早々に空母として艦載機運用能力を喪失してしまうのだった。そのため、以後は発進だけ行い、帰還した艦載機は無傷の「瑞鶴」に受け入れられることとなった。

その後、艦隊はさらに米空母「ホーネット」より飛来した攻撃隊の空襲を受ける。これに対し「瑞鳳」は迎撃のため14機の零戦隊を出撃させ、ドーントレス2機を撃墜した。しかしこの攻撃で「翔鶴」は爆弾を6発被弾。手傷を負った「翔鶴」と一緒に瑞鳳は戦場を離脱した。


ちなみにドーントレス急襲前に発艦した「瑞鳳」の航空隊(「日高盛康」大尉以下零戦21型9機)は第一次攻撃隊として「翔鶴」「瑞鶴」の航空隊とともに、米機動部隊へ向けて飛行した。すると前方より米空母「ホーネット」から発進した敵の攻撃隊が近づく。しかし両者ともに手出しはせず、素通り。これが後に「翔鶴」を被弾させた部隊である。

そして次に遭遇した空母「エンタープライズ」の攻撃隊(F4Fワイルドキャット8機、SBDドーントレス3機、TBFアヴェンジャー8機)とすれ違った時、第一次攻撃隊の最後尾に付いていた「瑞鳳」の零戦隊が反転攻撃。敵航空隊5機(雷撃隊の指揮官機を含む)を撃墜。他にも1機の無線と機銃を破壊してエンタープライズへ撤退させた。しかし空戦で零戦2機が撃墜され、帰投方向を見失った零戦2機も瑞鳳に帰り着く事無く失われた。誘導機として零戦隊を率いていた九九艦爆も未帰還となった。またこの瑞鳳隊の反転離脱によって三艦合わせて21機の攻撃部隊護衛戦闘機は12機のみとなり、敵直掩戦闘機の迎撃を受けた第二次攻撃隊は艦爆が20機中17機未帰還、艦攻が20機中16機未帰還となり、攻撃隊長で雷撃の神様と謳われた「村田重治」少佐も戦死するという惨憺たる結果となってしまった

幸い、第一次攻撃隊は米空母「ホーネット」を発見。3発の爆弾を飛行甲板に撃ち込み、最終的に撃沈へと追い込んだので一矢報いたといえる。しかし瑞鳳隊は道中で敵航空隊に反転攻撃をしたためこの攻撃には参加できなかった。


その後、佐世保工廠で修復した「瑞鳳」は大型艦載機運用のために飛行甲板を180m→195mに「鳳翔」同様無理矢理引き延ばした。その結果、バランスが悪いことで定評のあった軽空母「龍驤」のように甲板の下についている改装後の「瑞鳳」の艦橋は、目の前のでかい「ひさし」が更に巨大にされたため視界は最悪となってしまった。


1943年、ガダルカナル島撤退作戦の支援や硫黄島付近の索敵、南方の日本軍拠点への航空機輸送作戦等に従事。硫黄島付近は潜水艦など危険が多い海域となっていたが瑞鳳は被弾する事なく作戦を完遂させ、横須賀トラック間の輸送任務にも従事した。

同年3月、「い号作戦」により瑞鳳航空隊の一部を南方の陸上基地へ派遣。またラエ基地に輸送する兵員と物資を載せた輸送船団を護衛するため瑞鳳所属の零戦15機を派遣している。しかしこのビスマルク海海戦ではすでに制空権はほぼ損失していた上、米軍の新戦術「反跳爆撃」により輸送船団は護衛の駆逐艦もろとも壊滅するという手痛い敗北を喫している。


1944年4月8日、第一航空戦隊所属だった「瑞鳳」は期待に新型装甲空母「大鳳」の完成を以って古巣の第三航空戦隊へと配置換えとなった。

同年6月、絶対国防圏の要であるサイパン島に米軍が襲来。これを迎え撃つべく連合艦隊は再建したばかりの機動部隊をマリアナ諸島に送り込み、マリアナ沖海戦が発生。「瑞鳳」も第三航空戦隊としてこの作戦に参加。「千歳」「千代田」とともに前衛部隊を送り出し、「翔鶴」ら本隊が繰り出した航空隊の前面に展開させた。しかし米軍の濃厚な統制砲火と対空網に引っかかり、送り出した航空機の大半が撃墜されてしまっている。俗にいう「マリアナの七面鳥撃ち」である。

さらに米艦隊の反撃によって「翔鶴」「大鳳」「飛鷹」が撃沈され、航空機も300機以上が撃墜されるなど帝国海軍の大敗北に終わったが、「瑞鳳」だけは損害無く帰投した。この時、「瑞鳳」は本隊の前方に展開する前衛艦隊に所属していたのだが、その前衛艦隊の中でも最前列に配置されていた。それでいて損害が無かったのは、ここでも南太平洋海戦同様に瑞鳳の強運が発動したからと思われる。その代わり、後方にいたはずの本隊は米潜水艦の襲撃を許し、虎の子の「翔鶴」と「大鳳」が撃沈される憂き目を見ている。


1944年10月、皇国の喉元であるフィリピンに米軍が迫る。帝國海軍は捷一号作戦を発令、持てる艦隊戦力を全てフィリピン沖へと出撃させた。ここまで生き残っていた「瑞鳳」も小沢機動部隊の一員として作戦に参加。「瑞鶴」「千歳」「千代田」と同じように船体を輸送船に見立てた迷彩で染め、甲板に大量の対空火器を積んだ姿で出撃した。

これら空母群に課せられた任務は米軍の航空兵力を引き寄せて、主力の栗田艦隊レイテ湾突入を助ける事だった。しかし囮艦隊に与えられた航空機と護衛艦艇は極僅かなもの(総勢15隻)であり、対する米軍は翔鶴と大鳳がまだ健在だと思っていた為、この囮部隊に対して「エンタープライズ」や「アイオワ」を擁する全主力機動部隊(総勢70隻)を派遣。150機に及ぶ爆撃機で攻撃した。


10月24日、まず第一波の80機が襲来。「瑞鳳」の後部甲板に爆弾一発が直撃し、リフトを貫通してリフト機械室が破壊されてしまった。その直後には旗艦「瑞鶴」も被弾し小沢機動部隊は激しい爆弾の驟雨に晒される。爆弾2発を受けた瑞鳳は操舵不能となり、格納庫が炎上。続いて護衛の駆逐艦「秋月」が沈没。軽巡「多摩」が被弾により落伍、艦隊より離れた。戦闘開始から約1時間後、被弾により傾いていた「千歳」が沈没。続く第二波によって「千代田」も被弾。機関に火災が発生し航行不能、以降は漂流。敵は健在であった「瑞鶴」「大淀」「伊勢」に攻撃を集中させ、「瑞鳳」にも攻撃の手が及んだ。踏みとどまる「瑞鳳」は対空砲で反撃し、敵機を撃退。直撃弾を受ける事は無かったが多数の至近弾が飛んできて、破孔が生じる。また、この頃から船体が傾斜し始める。

第三波、「瑞鳳」の船体後部に魚雷が命中し右へ傾斜。さらに至近弾を7発受け第二缶室使用不能、速力は僅か6ノットにまで低下。そして遂に航行不能に陥った。

この攻撃によって旗艦「瑞鶴」が沈没。旗艦沈没後も満身創痍の体で浮いていた「瑞鳳」であったが、約20機の敵機に襲撃され、浸水により船体を真っ二つにして艦尾から沈んで行った。この戦いにおいて、「瑞鳳」は軽空母ながらに最終的に至近弾82発、魚雷2発、爆弾2発の被害を受けたという。

沈没した瑞鳳の乗組員は駆逐艦」に艦長以下847名、戦艦「伊勢」に98名が救助された。

ちなみに普通、軍艦が沈む際には大きな渦が発生し、せっかく海面に脱出した将兵が艦もろとも海中に引き込まれてしまうことに加え、特に空母の場合は破砕口やエレベーター等から広大な格納庫へと大量の海水が流れこむことで、海中どころか艦内へと引きずり込まれてしまう悲劇(翔鶴のエピソードが有名)を起こすことがあるのだが、「瑞鳳」の場合は違った。V字に折れた船体が静かに沈みゆく中、付近の水を外へ外へと押しやり、将兵たちをそっといたわるかのように艦から引き離したという。


上記のように正規空母4隻の損失も相まって軽空母ながら多くの激戦に参加し、日本機動部隊として最後の戦いとなったレイテ沖海戦では囮の一翼まで担って奮戦した殊勲艦であった。


関連項目編集

瑞鳳

大日本帝国海軍 軽空母

瑞鳳型 祥鳳(軽空母) 龍鳳

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