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竹内まりや

たけうちまりや

日本の女性シンガーソングライター。シティポップソングの先駆者としての顔と、アイドル楽曲提供者としての顔を持つ。
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概要編集

日本シンガーソングライター

1955年3月20日島根県出雲市大社町の老舗旅館『竹野屋旅館』の6人兄弟(2男4女)の第4子・三女として生まれる。一番上の兄は『竹野屋旅館』5代目当主。

夫は同じくミュージシャンの山下達郎スマイルカンパニー所属。


流行に媚びす、女性の心中を繊細に描く歌詞が特徴で、提供楽曲の後に自身でセルフカバーして世に出す日本音楽界でも数少ない人物でもある。


人物編集

幼少期からビートルズニール・セダカをはじめとする洋楽ポップス、坂本九ザ・ピーナッツの翻訳洋楽に慣れ親しんできた。大学時代はニール・ヤングジェームス・テイラーなどを好んで聞いたという。特にビートルズについては、産休復帰後にシングルカットされてリリースした『マージービートで唄わせて』で子どもの頃の気持ちを吐露している。


シンガーソングライター"兼業"主婦の走りで、出産間もない時期でも提供楽曲を乳飲み子の娘をあやしながら制作していた。主婦をしつつ楽曲に向き合う時間を重ねることで、竹内自身は「作家的視点が養われた」と後に振り返っている。この頃の習慣で、現在も曲作りの際はミニキーボードをよく使うらしい。


毎年8月と12月の末尾2週の日曜は夫・山下の『サンデー・ソングブック』(TOKYOFM)のゲスト企画「夫婦放談」が放送される。竹内は山下のことを「達郎」「たっつぁん」と呼んでいるが、家庭内では別呼称もあるらしい。ちなみに、山下は竹内を「まりや」「あぁた(あなた)」と呼ぶ。


遍歴編集

デビューまで編集

高校でアメリカイリノイ州への留学を経験した後、慶応義塾大学文学部に進学してオールジャンルバンドサークル『Real_McCOYs』に所属した。サークルの先輩で、後にCMソング『ウイスキーが、お好きでしょ』の作曲などをする杉真理のバックコーラスとして音楽家のキャリアをスタートさせる。当時は音楽雑誌編集者志望だった。


白羽の矢が立ったのは1978年ビクターの次世代発掘を目的としたセッションアルバム『ロフト・セッションズ』に参加したことによる。このCDで収録された竹内の歌声にレコード会社BMG(現・アリオラジャパン)が注目し、同年11月に『戻っておいで・私の時間』のシングルリリースをもってメジャーデビューを果たす。ただ、この裏には当時の日本音楽業界がルッキズムを是するアイドル不在だった面も作用しており、その後の竹内を心理的に追い詰めていくことになる。


アイドル扱いからの活動停止編集

新人アイドル空白の時期にデビューした竹内は3rdシングル『SEPTEMBER』で1979年日本レコード大賞新人賞を獲得。翌1980年には『不思議なピーチパイ』で資生堂リーゼのCMガールに起用された一方、次第に拷問に近いバラエティ企画を強要されるようになり自問自答の日々を送りはじめる。この時、尊敬する音楽家として進路相談していたのが同じオールディーズ音楽に感化され、人生の伴侶となる山下達郎だった。同年夏には交際をはじめている。


山下は自身もルックスに絡んで業界から冷たく扱われた経験から、「その先に君が望むような未来は無い」とバッサリ断言したが、竹内は踏ん切りを付けられず喉を病気を患って声が出なくなる。1981年に一旦療養も兼ねて休業を選択した。


結婚出産と復活までの道編集

休業後、1982年に山下と結婚。作詞作曲家として音楽活動を再開した。アイドル活動強要のトラウマからテレビ露出を避けるようになった。しかし、河合奈保子に提供した『けんかをやめて』など提供楽曲がヒットする過程で、その後のアイドル楽曲作詞作曲家としてのキャリアの土台を築く。


私生活では1984年に娘が生まれているが、メディア露出しない期間中に書き溜めた竹内のオリジナルソングの質に山下が驚き、同年アルバム『VARIETY』をリリース。CD30万枚以上が売れるヒットとなった。


アイドル歌手への楽曲提供編集

出産後、竹内は子育てしながら女性アイドル歌手への楽曲提供に注力していく。薬師丸ひろ子中山美穂中森明菜牧瀬里穂広末涼子など時代を彩った芸能人が歌った曲は数知れない。


特段、岡田有希子との交流は思い入れが深く、アイドル界のニューホープとして多数の曲を提供した。しかし、過労死してもおかしくない仕事量をこなしていた岡田が飛び降り自殺。いわゆるウェルテル効果から若者の自殺が多発する社会現象が起き、自らの過去の体験も重なり竹内は苦しんだ。1992年にリリースしたアルバム『QUIET_LIFE』に収録した岡田のセルフカバー曲『ロンサム・シーズン』の歌詞カードには「この曲を岡田の想い出に捧ぐ」と英語で献辞が書かれている。


ライブ活動再開と新譜作成注力編集

90年代末まで公のライブを避けてきた竹内だったが、娘に歌手としての本領を見せたかったこと、周囲の後押しもあって、2000年7月に18年ぶりとなるライブを日本武道館大阪城ホールで実施した。


子育ても一段落した00年代中頃になると、新譜作成を加速させていく。2009年には出身地・島根を舞台としたNHK連続テレビ小説だんだん』に劇中歌『いのちの歌』を提供。以後、NHKの企画で度々起用され、2019年年末の紅白歌合戦では『いのちの歌(スペシャル・エディション)』を歌唱した。


地元振興と『Plastic_Love編集

いのちの歌』を通じて出身地と向き合う機会を得た竹内は、2013年出雲市からの依頼を受けて大遷宮の提供曲『愛しきわが出雲』を書き上げた。2015年には楽曲提供を評価され、出雲市から特別功労者として表彰を受けている。また同年、公益財団法人岩谷時子音楽文化振興財団から岩谷時子賞を贈られている。楽曲提供の面では、ジャニーズアイドル・に『復活LOVE』を夫の山下と共作して提供した。


10年代後半になると、かつてシティポップの先駆者でもあった竹内の楽曲『Plastic_Love』が海外で大いに支持を集め、vaporwave音楽とあわせて80年代の日本音楽が再評価されるムーブメントを作った。詳しくは『pixivでは』の項目参考。


pixivでは編集

Plastic Love

1984年にリリースされた楽曲『Plastic_Love』をフランスのハウスエレクトリックデュオ・ダフトパンクがリミックス。『Something_About_Us』という曲名で2009年に公表された。これが2010年代の世界的な古典テクノミュージックのリバイバルブームの波に乗って、2017年~2018年にYouTubeのオートプレイでサジェストされる現象が発生。発表から30年以上を経て海外でブームとなり、70~80年代のジャパニーズシティポップが国際的に再評価されるきっかけとなった。


2021年現在も、本タグ付き投稿作品数の半数以上をこの曲のレコードジャケットに関するものが占めている。


関連タグ編集

山下達郎 MOON_RECORDS ワーナーミュージック・ジャパン BMG

シティポップ vaporwave J-POP

アイドル 岡田有希子

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