路線データ
営業路線 | 養老線(営業キロ57.5km) |
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駅数 | 27駅 |
軌間 | 1067mm |
複線区間 | なし(全線単線) |
電化区間 | 全線(直流1500V) |
閉塞方式 | 自動閉塞式 |
最高速度 | 65km/h |
概要
養老鉄道は、近畿日本鉄道の全額出資により2007年に設立された鉄道会社。近鉄の所有する路線、近鉄養老線として運行されていた路線を運営することになった。
移管後しばらくは近鉄が第三種鉄道事業者として施設を保有、養老鉄道が第二種鉄道事業者として運行を担当していたが、近鉄が無償譲渡のうえ2018年1月からは沿線自治体が出資した「養老線管理機構」が第三種鉄道事業者として施設を保有、「公有民営方式」(第三セクターの一種)となっている。
三重県にある桑名駅から岐阜県にある大垣駅を経て揖斐駅までの区間、57.5kmを運営しており、途中の大垣駅でスイッチバックする。この区間の軌間は近鉄で一般的に用いられる1435㎜(標準軌)ではなく国鉄(現:JR)などと同様の1067㎜(狭軌)となっているため、近鉄の他路線との直通運転はできない(理由は後述)。
西大垣駅には車庫があり、列車検査と月検査が行われる。重要部検査や全般検査の時は、桑名にある東方台車振替場で標準軌用仮台車に履き替え、近鉄の電動貨車モト94・96に牽引される形で、近鉄名古屋線塩浜駅に隣り合う塩浜検修車庫に回送し、検査を行う。
本来の台車はモト94・96の上に載せられる。
なお、線路の保守は引き続き近鉄の電気検測車「はかるくん」(モワ24系)による検測となっている。
問題点
この路線の問題点は大垣駅~桑名駅の地域間輸送になり切れていない点である。路線データで前述したようにこの路線は全線単線となっており、それが原因で大垣駅~桑名駅の地域間輸送として今一つである事が主な理由である。その為、大垣駅~桑名駅の複線化や高速化なども検討しながら地域間輸送を向上していく事が課題となる。
この路線では悪名高い信用乗車方式(欠点はこちらを参照)を採用しており、それが鉄道利用を落としている要因等も存在する。
また、終起点や列車交換箇所に存在する信号機は最高65km/hと言った低い関係上、信号機は黄(注意現示)・赤(停止現示)のみとなる2灯式で設置されている(設置するなら青(進行現示)で最高65km/h、遠方のみ黄・青(減速現示)で最高50km/h-55km/h、黄(注意現示、遠方信号機乃至場内信号機(3灯式)のみ)で最高40km/h-45km/h、赤(停止現示)とした方が良い、つまり出発信号機は青・赤のみとなる2灯式とすべき物となる)。
路線の歴史
この会社の運営している路線(養老線、ただし大垣駅で系列分離され特に地元民は養老線と揖斐線と認識している)は1913年から1922年まで所有した会社も養老鉄道を名乗っていた。今の養老鉄道となるには複雑な経緯をたどっている(養老鉄道→揖斐川電気→養老電気鉄道→伊勢電気鉄道→養老電鉄→参宮急行電鉄→関西急行鉄道→近畿日本鉄道→養老鉄道)。
詳細な歴史
明治30年代、井島茂作(国会議員、四日市市長などを歴任。四日市商業高等学校の校長にもなっている)はこの地域に鉄道を敷設しようと有力者に調整を行う。しかし作業は困難を極めた。そして立川勇次郎(京浜急行電鉄の創設者、イビデンのもととなった会社を創設したりした人物)が社長となり明治44年養老鉄道が設立され、大正2年に岐阜県内養老-大垣-池野間が完成し、営業を開始した。
大正5年には現在の区間の建設が開始したものの、第一次世界大戦による資材の高騰もあり大正8年まで完成は遅れた。また、この時期に桑名から四日市への路線の許可も入手する。大正11年に電化を目指すが、これまでの経営状況(かなりの無理をしていたため経営状況は厳しいものであったとされる)および合理化により揖斐川電気(後のイビデン)に吸収され揖斐川電気鉄道部となった。
ところが大正14年、社長が死去すると鉄道の過剰な設備投資があだとなり、本体が苦しくなる。そのため四日市から桑名の路線の許可を北部への路線延伸に色気を見せていた伊勢電気鉄道に売却。さらに昭和3年養老電気鉄道として分離され昭和4年に伊勢電気鉄道に合併され、津-大垣間の一体運営が行われる。これと前後して岐阜への路線延長ももくろんでいたとされる(第二次世界大戦後の近鉄傘下も東海道新幹線の連絡線として岐阜延伸をもくろんだものの名古屋鉄道に敗れる形で立ち消えとなった)。
世界恐慌の影響および積極運営の失敗により昭和11年に伊勢電気鉄道が参宮急行電鉄に買収されるとこの区間は養老電鉄として独立することとなった。昭和15年になると会社自体は貨物営業がよかったこともあり黒字となったため参宮急行電鉄と合併、さらに参宮急行鉄道は昭和16年大阪電気軌道と合併し関西急行鉄道となり、昭和19年には南海電気鉄道と合併し近畿日本鉄道となる。
その後、昭和36年に近鉄名古屋線との直通ができなくなったり国鉄路線と連絡した貨物運送が減少(昭和60年ごろには定期貨物扱いはなくなった模様)したり並行する国道の整備が進んだりしたことや沿線の少子高齢化などため乗客数は減少、結果赤字ローカル線となり上下分離のため養老鉄道(二代目)が設立された。
使用車両
- 600・610・620・625系
第三セクター化当初より在籍。
見た目は近鉄でよく見かける旧型丸屋根車そのものであるが、実は名古屋線にいた1600系・1800系、南大阪線にいた6000系・6800系の余りをかき集めた、いわゆるフランケンシュタインもどきの車両。
残念ながら下述にある新車の頭数が足りないので現在も運用中。
養老鉄道は伊賀鉄道と異なり、大型20m級規格の車両が入れるが、親会社が一般車の老朽更新を渋っているせいで手頃な中古車を探し回った結果、東急電鉄がスクラップにしようとしていた7700系を引き取ることになる。
実は上の元近鉄車より5年古いのだが、昭和末期~平成初期にかけて制御装置のVVVF化など足まわりが更新されたためその分マシなのかもしれない。後に親会社も鮮魚列車の代替として1年古い車両をそれの後継にあてがうのだが。
東急側からは15両購入(3両編成・2両編成共に3本ずつ)、塩浜検修車庫で養老鉄道仕様に改造され、養老線100周年にあたる2019年4月27日にデビュー。奇しくも平成にデビューした最後の電車となった。
ちなみに置き換えられたのは半数だったりする。
乗り心地は空気バネ台車なので良好。中型18m規格なのでラッシュ時には心許ないが、ステンレスなのが幸いしてか利用客からは新車として好評の様子。
譲渡時点で車齢50年。プレスリリースには今後30年程度使用と書いており、都合80年の活躍が保証されている。