黒田氏
くろだし
宇多源氏・佐々木氏の一族を称し近江国伊香郡黒田村(滋賀県長浜市)に住んだことが由来とされるが、藤原氏または赤松氏の庶流とする説もある。
戦国時代に高政が近江国から備前国福岡(岡山県瀬戸内市)に、高政の子重隆が播磨国姫路(兵庫県姫路市)に移り住み、小寺氏に仕え姫路城を預かった。重隆の子・職隆の時には小寺姓を下賜されたうえ、主君・政職の養女を娶るなど重臣として厚遇された。
職隆の子・孝高は政職から対織田外交を任されたものの、政職が織田から離反した荒木村重に与したため黒田家は小寺姓を返上し織田家に降った。以降は織田信長の家臣となり中国地方侵攻を担当する羽柴秀吉の与力となった。
信長の死後に秀吉の直臣となり、1587(天正15)年の九州征伐後に豊前6郡12万石を与えられ故地である播磨を離れた。関ヶ原の戦いでは子の長政と共に東軍の徳川家康に付き、戦後筑前1国52万3千石となり明治維新まで続いた。
廃藩置県直前の明治3年、藩ぐるみでの太政官札の贋造が発覚(太政官札贋造事件)し、12代藩主・長知は知藩事罷免の上閉門、幹部5名が死罪という汚点を残すことになった。華族令施行では侯爵に叙爵された。
分家
- 秋月黒田家
長政の三男・長興を祖とする家。1623(元和9)年に5万石を分与され秋月陣屋(福岡県朝倉市)を藩庁とした。
華族令施行により子爵に叙爵された。
- 直方黒田家
長政の四男・高政を祖とする家。1623年に4万石を分与され東蓮寺(福岡県直方市、1675(延宝3)年に直方に改称)を藩庁とした。
1677(延宝5)年に3代藩主・長寛が福岡藩の後継となったため収公される。1688(元禄元)年に長寛の弟・長清が5万石を与えられ再興するも、1720(享保5)年に後継ぎが無いまま没したため再度収公。
1891(明治24)年に長知の四男・長和が家名を再興し、男爵に叙爵された。
- 三奈木黒田家
孝高の猶子・黒田一成を祖とする家。黒田家の筑前入部後に三奈木(朝倉市)1万6,200石を与えられ、福岡藩の筆頭家老を世襲した。
1899(明治32)年、男爵に叙爵された。
江戸時代の当主・用綱は3代将軍・徳川家光の四男で上野舘林藩主(群馬県館林市)・綱吉の家老となり、跡を継いだ直邦が綱吉の5代将軍就任と同時に再度幕臣へ登用された。
直邦は奏者番や寺社奉行を勤めつつ、1703(元禄16)年に常陸下館(茨城県筑西市)1万3千石を与えられ大名に列し、上野沼田(群馬県沼田市)2万5千石→3万石を経て、1742(寛保2)年に直邦の跡を継いだ直純が上総久留里(千葉県君津市)3万石へ移封となり、明治維新を迎えた。
華族令公布により子爵に叙爵された。
薩摩鹿児島藩士・黒田清隆とその遠縁にあたる黒田清綱をそれぞれ祖とする家。
両家とも下級藩士の家だったが、清隆は長じてから江川英龍に砲術を習い、戊辰戦争で活躍。維新後は北海道開拓使長官や農商務大臣を経て、1888(明治21)年に第2代内閣総理大臣を勤めた。
清綱は維新後川路利良と共に警察制度の成立に尽力し、その後も文部少輔や元老院議官を務めた。
清隆家は華族令公布と共に伯爵に、清綱家は1887(明治20)年に子爵に叙爵された。