概要
現在の大阪府大阪市中央区(旧摂津国東成郡)に築かれた城である。現在は大阪城公園として一帯が整備されている。かつては「大坂」と表記されたため、歴史的用語としては「大坂城」となる。明治以降、「土に反る(=死ぬ)は不吉」とされ、「大阪」と改称された。
歴史
現在の大阪城のある場所は戦国時代には浄土真宗本願寺教団の本山である石山本願寺が築かれていた。寺とはいいながら戦国大名に匹敵する勢力をもった同教団の本拠にふさわしく石垣や堀などの要害が造営され、実質的には「城」であった。
事実、織田信長による包囲戦にも長期間耐え、十年に亘る石山合戦を展開した。
天正8年、織田信長と和睦した本願寺教団が同地を去った後、失火により石山本願寺は焼失。その後石山城として織田政権下の一部となった。
1583年に羽柴秀吉(豊臣秀吉)が、瀬戸内海、京都、琵琶湖を結ぶ新たな本拠地としての大坂城の築城を開始した。豊臣政権下では全国に号令する中枢として機能した。
黒田官兵衛の縄張により現在の本丸・二ノ丸の外側に、大手口・玉造口・京橋口の外側に馬出として機能する三の丸を、更に広大な総惣と外堀を設け、城下は政治経済の中心地として発展した。
本丸には5重6階地下2階の天守を建造した。黒漆塗りの下見板張りで、漆喰壁部分も灰色の暗色を用いて、各所に金箔を押した瓦や彫刻で飾らせていたという。内部は鉄砲や衣服、武具などの倉庫として使用されており5階には、黄金の茶室があったといわれている。最上階は、30人ほど入ると関白の服に触れるほどであったとルイス・フロイスの『日本史』にある。
本丸には千畳敷御殿と呼ばれる巨大な書院建築が建造された。これは唐入り(現在で言う文禄・慶長の役)に際し、明の使節を迎えるために解体・拡張され、本丸石垣より突出し、懸け造り(京都清水寺の舞台みたいなヤツ)で新造され、更に内堀内に作られた能舞台と橋で結ばれていた。
この巨大御殿は慶長大地震により、秀吉入魂の伏見指月城や京都方広寺の大仏と同時に崩壊している。
関ヶ原の合戦後徳川家康が実権を掌握し江戸幕府を開くと、一大名としての豊臣秀頼の居城となった。1615年、大坂夏の陣で落城し、豊臣家は滅亡。大坂城も焼失した。
その後、江戸幕府により豊臣大坂城の跡に高さ数メートルの盛り土をして、その上に完全に新造された大坂城が築城された。現在見る石垣は、近世城郭の完成形であり、豊臣期では三段階に分けて築かれた高石垣を一段で実現させている。建築は豊臣期の漆塗り、金箔飾りを廃止し、江戸城に次ぐ規模の層塔式の五層天守を始め、本丸はすべて三層櫓を多門櫓で連結し、本丸御殿も江戸城に倣う規模で建設された。
1665年に落雷により徳川大坂城の天守が焼失。以後明治維新まで天守のない城として幕府の西国支配の拠点となった。
しかし、戊辰戦争では伏見の戦いでの敗戦後に徳川慶喜が軍を立て直し城に篭ったはずだったが、夜逃げ同然に江戸城に帰還したことで、戦争の趨勢が明らかになることになり、この後は転がり落ちるように衰退し、豊臣に続いて徳川までも滅亡の生き証人となってしまう。慶喜逃亡後に原因不明の失火で本丸は全焼、二ノ丸も一部を除き焼失した。
明治維新後城跡は陸軍の管轄となり連隊が置かれる。
1931年(昭和6年)に当時の大阪市長關一の発案により市民からの募金などにより天守の再建運動が起きた。明治近代化の名の下の破壊の波、日清日露の時代を経て、日本人の心の拠り所となった変化を示す事象だった。同時期に洲本城、岐阜城、郡上八幡城で模擬天守が建造され、西尾城で再建が計画されていた。
古川重春により、黒田家蔵「大坂夏の陣屏風」を元に、五層に虎と鶴の蒔絵を、各層には望楼式(大屋根が重なる旧式の構想建築)のデザインに、当時最新技術である鉄筋コンクリート製、エレベーター付きの天守が建設された。(徳川期天守の意匠はどこまで反映されたか不明、加筆求む)
鉄筋コンクリートで造ったため、木造天守とは重量が比べ物にならず石垣では支えられないので、石垣の内側をくり抜いて基礎杭を地盤に打ち込み、天守の重量は打ち込んだ基礎杭で支えており、石垣は天守の重量をほとんど負担していないという構造になっている。
それまでは陸軍施設として一般人には公開されていなかったが、この時期に大阪城の一部は公園として解放されるようになった。
なお、市民の献金の一部(大部分?)は、大阪駐屯の第四師団司令部庁舎の建設費に横流し(または前述の公園化の埋め合わせ)された。この洋風建築は単体では立派な洋風建築だが、大阪城本丸という立地を考えると場違いという意見もある。戦後は大阪府警となり、後に博物館、今ではミライザ大阪となり市民に開放されている。
米軍の空襲により復興天守は第二次世界大戦の空襲こそ焼失を免れたものの、三層の伏見田倉、京橋門、和歌山城から本丸に移築された紀州御殿等は焼失。
復興後、大阪市民の誇りとなった三代目天守は、現在歴代最長寿の天守となった。1997年(平成9年)、復興天守そのものが国の登録有形文化財に登録された。
創作作品における大阪城
よく燃やされ、破壊される場面が多い城である。
大坂夏の陣を描いた作品であれば当然史実通りの結果・・・であるが実はそんな映像は(近年のNHK大河ドラマのCG映像を除く)全く無い。
豊臣期の大坂城天守が映像に登場したのは「大坂城物語」(特技監督は大の城好き円谷英二)の冬の陣(しかも黒田家夏の陣屏風ではなく下絵だけの冬の陣屏風に前述の櫻井案ミックス)で砲撃を受け破損しているだけ。
昭和天守はやはり関西きっての名勝だけあって、昭和中期のゴジラシリーズのゴジラとアンギラスの戦いの最中と、初代ウルトラマンのゴモラで有名ある…あと味皇。
ちなみに前田日明は子供の頃にゴモラ戦の放送のあった翌日、大阪城に行って壊されてないことに疑問を抱き、そこにいた工事現場のおっちゃんにたずねたら「おっちゃんらが徹夜で直してん」と答えたという。
また、ガメラ対バルゴンでは氷漬けになった。同じミニチュアが「ガメラ対大魔獣ジャイガー」で出たが、これは無傷。
平成では「ゴジラvsビオランテ」で登場したが、復興天守より巨大なツイン21にゴジラが向かったため無傷。「天守みたいな巨大な日本建築を作れる特殊美術さんがもう誰もいなくなった」という裏事情付き。
『キン肉マン』では、「キン肉星王位争奪編」の決勝戦の舞台となった。
大阪城はキン肉星宮殿とうり二つの建物であるため選ばれたとのこと。
さらには「飛車角の迷宮」「血縄縛りの門」というトラップが追加されたり、天守閣が展開して大観客席になったりとゆで理論全開な改造が施されていた。
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「大坂城」表記が多いもの