賤ヶ岳七本槍とは賤ヶ岳の戦いで豊臣秀吉陣営として参戦し特に活躍が目覚ましかったとされる七名の武将を指す言葉である。
詳細
具体的には、
の七名を指すが、清正と正則は共に秀吉の縁戚でありこの当時で高禄を得た武士であったことから他五名との釣り合いが取れず、更に賤ヶ岳の戦いで大いに活躍したのは他にも、
らを含めて合計、十二名(一説には十四名)おり、よって上記七名は得た禄高からも秀吉が直卒の部下を喧伝したいが為の単なる誇張であるという意見もある。実の所、秀吉を頂点として考えた場合、七本槍筆頭格の正則は秀吉の叔母を母に持ち、清正は秀吉の母、なかの従姉妹かそれに類する女性を母に持つので清正の方が血縁として上座に来る。つまりは繰り返しになるがこの両名は秀吉の血縁に当たるので他五名と並列に列べた場合、蔑称になりかねない訳である。賤ヶ岳の戦いが勃発した時点で豊臣家の直轄地は五百万石という途轍もない禄高になるので、その血縁ともなれば相当の地位に当たるのはお判り頂けるだろう。
が、秀吉に見出され相応の禄高を得ておきながら秀吉没後、幼少の後継者である豊臣秀頼の後見人争いとして勃発した関ヶ原の戦いでは石田三成憎しということも手伝い豊臣政権の重鎮である清正・正則と、武則を除いた七本槍全員が徳川家康の東軍に与し、豊臣氏滅亡の大役を買うに至る。しかし、豊臣恩顧の大名家は徳川家からは睨まれる対象でしかなく清正は自身と家康の死後の徳川秀忠の時代に至り後継ぎの加藤忠広と孫の加藤光正は共に暗愚でありやらかしを積み重ねて改易、正則は広島城無断修築が原因(本多正純または土井利勝の策謀説がある)でこちらも改易の憂き目に遭っている。
豊臣と徳川の争いを回避するために自らの手回しによって家康と秀頼を二条城で会見させ、さらに次女を家康十男の徳川頼宣に嫁がせたものの、自身の死もあり豊臣家滅亡を止められなかった加藤清正、関ヶ原の戦いによる加増転封を餌に唯一、親豊臣の藩主として関東からの要衝でありかつて織田信長も居城にしていた尾張清洲から防長二国に追い払った毛利輝元の後釜として安芸広島へと移った結果、江戸から京都への陸路である東海道や東山道を全て清洲藩(のちの尾張藩)や彦根藩など徳川親藩や譜代に押さえられ豊臣家滅亡を傍観するしかなかった福島正則の両名には秀吉も草葉の陰から嘆いたかもしれない(もっとも秀吉が秀次事件などを起こさなければ良かったので秀吉の責任はかなり大きい)。
尚、賤ヶ岳七本槍で大身のまま一族を繁栄させたのは脇坂安治だが安治以上に嫡子の脇坂安元によるところが大きい。一方、加藤嘉明は脇坂家と真逆で嫡子の加藤明成が暗愚であった為に改易。孫の加藤明友が辛うじて家名を存続させたが大幅に減封され明治に至る。平野長泰は武勇・政治観共に優れたものの普段から豊臣贔屓を喧伝しすぎた為か大名に成れず交代寄合の旗本として明治に至る。糟屋武則は前述の通り関ヶ原の戦いで西軍に付き改易しその後は不明。片桐且元は方広寺鐘銘事件で折悪しく総奉行を務めており、徳川と豊臣の板挟みに遭い豊臣家と決別し徳川家に与すことになるが後に無嗣断絶。以上のように七本槍の家は脇坂家は別格として加藤嘉明家と平野家がどうにか家名を残せたぐらいである。
羽柴四天王といい、どうも秀吉が名指しして称賛した人物というのは晩年、落ち目となる事が多いのは不思議である。ちなみに羽柴四天王は神子田正治と尾藤知宣は共に秀吉の不興を買い追放され、のちに両者とも処刑。戸田勝隆はこの中で唯一、秀吉の天下統一を見届けたが、嫡子が事故で早世しており絶家、宮田光次は三木城の戦いで討死しておりいずれも江戸時代には家名も残せなかった。
身も蓋もない事を言えば、
「七本槍」の初出は小瀬甫庵により1626年に初版が発刊された『甫庵太閤記』である。
甫庵は『信長記』や『太閤様軍記の内』を著した太田牛一を「愚にして直(バカ正直)」と見下して、自らの書へは意図的に創作や日時の改変などを入れ込んでおり、その史料的価値には大いに疑問が残る。七本槍という名称もそのメンバーも飽くまで甫庵自身の意図によるものと考えてよい。