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概要

大阪市南部 - 堺市にかけて路線を有する大阪府内を走る唯一の路面電車

阪堺電軌の名称としては2代目で、最初は「大阪馬車鉄道」として開業、その後3度の会社名変更を経て1910年に初代「阪堺電軌」となり、1915年に南海鉄道と合併、同社の大阪軌道線となる。戦時中は陸上交通事業調整法に基づき、近畿日本鉄道に統合されていたこともあった。

旧南海鉄道が南海電鉄として近鉄より分離した時点では、阪堺線上町線平野線の3路線が存在したが、このうちの平野線は1980年11月27日、地下鉄(→OsakaMetro谷町線天王寺 - 八尾南間延伸に伴い、廃止。その3日後の12月1日に残る2路線も経営分離され、2代「阪堺電軌」が発足した。現在でも南海子会社である。

本線格である阪堺線は全線に渡り、南海本線と競合している。このうち、堺市ではLRT計画があり、それと乗入れる計画もあったが、反対派市長が当選したことから計画は頓挫した。

呼び方は「はんさかい」ではなく、「はんかい」。なお、「阪堺電鉄」とは、戦前に同じく大阪市内 - 浜寺間を結んだ路面電車のことで、後の大阪市電三宝線の旧称である。走っている地域や路面電車という形態もソックリであったことから紛らわしく、当時の人々も「阪堺電鉄」を「新阪堺」と呼んで区別していた。

語感的には「半壊電車」とも読むことが出来る。もっとも、2002年度に1度黒字化したものの、2006年度に再度赤字に転落している昨今の経営状況を如実に現してるというのは間違いでもない。特に阪堺線恵美須町停留場 - 住吉停留場間及び堺市部分の我孫子道(以下「あびこ道」)停留場 - 浜寺駅前停留場間経営状態が悪く、堺市部分だけで赤字の大半を産み出していることから、堺市区間廃止が囁かれている。一方、沿線人口の多さや競合路線の少なさから天王寺 - 阿倍野・住吉の住宅街を結ぶ上町線は比較的好調な経営であり、何とか堺市内赤字相殺に努めている。

赤字区間を抱える堺市内においては、運賃補助(1区運賃=200円・2区運賃=290円となるところを上乗せ分の90円を堺市が負担し、全線一律運賃を実施)や低床式車両導入支援など、既存路線活性化に対しては一定の動きが見られるが、新規路線建設(堺市 - 間LRTなど)に関しては消極的である。この新規路線凍結により遂に阪堺側も堺市内廃止という手段に出る構えであったが、開設凍結を政策の1つに掲げて当選した市長自身が「これはヤバい」と実感したのか、後に阪堺への支援増額を決定した。

その結果、堺市内の利用客数は上町線との直通や堺市の運賃補助等の支援もあり、2011年度の堺市内利用客数は対前年比で約50万人増といった成果を上げている。その一方、恵美須町 - 住吉間利用客数は減少に歯止めが掛からず、2014年3月から日中運行本数が毎時5→3本、朝夕ラッシュ時ですら毎時4 - 5本の運行となる大幅な減便を強いられている。

モ161形をモデルとしたゆるキャラ「ちん電くん」が存在する。

路線

住吉停留場で双方線路が合流する間。

  • 阪堺線
    • 恵美須町 - 浜寺駅前
  • 上町線
    • 天王寺駅前 - 住吉間

日中及び土休日の運行系統は天王寺駅前 - 浜寺駅前・あびこ道の2系統が交互に12分間隔、恵美須町-あびこ道系統は1時間当たり3本(運行間隔は約13 - 24分置きとバラつきがある)が運行される(天王寺駅前 - 住吉間は合わせて6分間隔、住吉 - あびこ道間は3 - 6分間隔で毎時15本運行)。なお、堺トラムは天王寺駅前 - 浜寺駅前・あびこ道間運行。

車両

かつては最新鋭車両を次々と投入していたが、子会社化後、特に平成に入って以降は新型車両導入には消極的で(2012年以前の最新車両は1996年設計・1999年製であるが、車体及び台車・モーター等の主要機器以外は旧車両機器を流用している)ある。日本でも数少ない超低床車(LRV)が存在しない路面鉄道会社となっていたが、後述の通り遂に登場した。

古い車両の場合、全国の路面電車事業者の同世代車両より全般的に大型・ハイスペックな車両が多いが、昭和30 - 40年代に全国で次々登場した機器流用車においても新型台車を新調する等ややコストダウンに無頓着な面があり、その結果お金かなくなり、大阪市電の中古車で車両置換を間に合わせた(この車両は2000年に全廃)という話もあったりする。

2013年春、堺市の支援により新たにアルナ工機製新型車両モ1001形「堺トラム」を導入。阪堺初の超低床車両であり、2013年秋よりデビューした。2014・15年度導入分を合わせて全3編成。この車両の導入により夏季冷房化率100%を達成出来るものと見込まれるが、代わって最古参・モ161形が3両廃車される。

モ161形

阪堺で最古参の車両。というか、全国で普通に営業運行を行う車両としては日本最古参というとんでもない車両。現在は161・162・164・166の4両が営業運行に使われている。

1番古い車両は何と昭和3年(1928年)生まれ。これがどのくらい古いのかというと、桂歌丸師匠より8つも年上であり、鉄腕アトムどころか黄金バットすらまだ生まれていない時代であり、永井一郎さんが「バッカモーン」どころか「オギャー」もいっていない時期であり、何と初代通天閣が現役時代から走っている(阪堺線起点・恵美須町は新世界の真ん前である)のである。

ただし、この車両は非冷房なので夏季(6月後半 - 9月末←近年温暖化で暑い期間が延びて5 - 11月ぐらいまでとなって来ている…)は2014年以降堺トラム導入及び阪堺線系統減便に伴い、定期運用から完全撤退しており、冷房車故障時の代走または貸切専用車となっている。なお、このモ161形は近年のレトロブームのお陰か人気が急浮上しており、それに乗ったか阪堺側もファンサービスのために昔の姿への復元や様々な懐かし塗装を施す等している。

モ501形

1957年に登場した車両。当時全国で流行していた、米国PCCカーの流れを組む高性能車の1つ。カルダン駆動のみならず、路面電車では異例中の異例ともいわれた空気バネ台車を採用。その性能は同時期の高性能車の中でも群を抜いた優秀さを誇る(ちなみに、南海自体で初の空気バネ台車採用車である)。

ところで、多くの路面電車では高性能車は在来性能車と比べ、扱い辛かったことから、普通鉄道と異なり高性能車は直ぐに淘汰され、1980年代に技術進歩が始まるまでずっと吊掛駆動・直接制御の在来性能車一辺倒という時代が続いた。

1960 - 80年までは路面電車衰退期とも重なり、技術の長い停滞を招いたが、阪堺では幸いにも連結運転を行っていた関係で間接制御(高性能車の制御装置として付き物であると同時に、連結する車両にも不可欠)車が多く、この車両は他所の高性能車の様に在来性能にダウングレードされることなく、今日まで当時の性能を保っている。

なお、「煩い」との苦情を受け、本形式のみ製造時からフートゴングを装備しない

モ351形

1962年登場。モ501形と同じ車体であるが、駆動装置等は吊掛駆動の旧型車のものを流用しており、全国で流行った高性能車廉価版の1つ…なのであるが、上述の通り、阪堺はこの車両において主電動機以外の大半の機器を新造した。そのため、空気バネ台車や間接制御機器を採用した贅沢な仕様となっており、製造コストはモ501形と大して変わらないという本末転倒振りである。そのため、製造が5両で中断され、廃線となる大阪市電から中古車を貰ってその場を凌ぐこととなった。

1980年代後半にモ501形と共に冷房化されたため、モ161形と異なり、夏季も変わらず運用に入る。夏場に吊掛駆動のモーター音が聴こえたら、モ351形の方と思って間違いない。

モ701形

1980年代になって、全国でストップしていた路面電車の車両製造が再開され、路面電車自体も見直され出した。その過程において1987年に阪堺が分社化後初めて新造した車両である。

阪堺モ701形

モ601形

1996年より製造。モ701形と異なり、制御機器やブレーキなどを昭和4年製の元大阪市電旧型車から流用した。

阪堺モ701形

モ1001形・1101形

阪堺電軌で初の超低床型車両。3編成が導入され、編成ごとに愛称が付いている。

1001形製造費用は全額補助金で賄ったのに対し、1101形はその半分が阪堺による負担という違いがある。

堺トラム

過去の車両達

1・51形

開業初期からの木造車。その姿は堺市の観光施設「利晶の杜」や通天閣1Fの資料室の模型でも確認可能。

モ101形

1924年に製造された鉄骨木造車。モ161形の見た目を二重屋根構造(ダブルルーフ)にした古めかしい外観が特徴。極僅かにカラー写真も現存しているが、旧運輸省(現・国交省)により、木造車淘汰命令が出たこともあり、南海時代の1967年までに全廃された。機器の一部はモ351形やモ121形に流用された。

モ121形

1967年に購入された大阪市電中古車で、元はモ151・161形と同時期登場した大阪市電半鋼製大型車・1601形。モ151・161形はこの車両の元となった1501形をモデルに造られたこともあり、見た目は類似している。

加えて阪堺譲渡時に前照灯を腰部から上部に移したため、ますます見た目は似るようになったが、台車周りの切込みが深く、窓が僅かに異なる等良く見れば違いが分かる。また、寸法は少し異なる。

導入目的は新車製造費用圧縮と残る木造車モ101形廃車のため。しかし、大阪市電時代はノーマルな直接制御車であったため、高性能化のために置換えるモ101形の機器を流用している。2000年に廃車され、浜寺公園に1両保存車が存在する。

モ151形(→モ301形)

1927年に登場した半鋼製車両。外観はモ161形とほぼ変わらないが、車内を見ると二重屋根構造となっている(セミダブルルーフ)。機能的には161の直接制御版といえ、同車が当初連結運行を行っていたのに対し、単行運行を担ったが、末期はほぼ変わらない運用に付いた。

モ151のままの車両は1980年代に全廃となったが、一部は制御装置を間接制御に変更してモ161形に編入、またごく一部は161の一部と共に多段間接制御モ301形に変更され、これらは平成期まで活躍した。2000年限りで当初モ151形であった車両は全て引退し、車体が現存しているのは四国の丸亀のショッピングセンター内のものと海を渡ったサンフランシスコ(ただし、現在あるかは不明)のみである。

モ151形登場時は他車両が木造車であったこともあり、それらに倣って茶色または黒色の塗装をしていたとされる。平成26年にはこれを模した塗装をモ161形164号が纏い、また当時放送されたNHK朝の連続ドラマ『マッサン』の広告も上から貼付けた。塗装自体は現在も続いている。

モ201形

モ205形に先行して登場した車輌。扉等に特徴的な面が見られ、車体寸法等がモ205形と異なるが、続番となったモ205形と良く似ている中型車。少数派であり、モ205形に先駆け廃車となった。

モ205形

1937年より、初期車両の機器を流用して製造された前後扉の11m級中型車。見た目はモ161形を短縮して前後扉とした車両。またごく初期は高床台車を流用したため、他車両より床面が高かった。

40両以上が在籍し、全盛期の阪堺で最大勢力を誇ったが、構造上そのままではワンマン化が困難であり、機器流用故に足回りが老朽化していたため、平野線廃止と共に大半の車両は運命を共にした。

しかし、足りない予備車後継とするはずであったモ251形が後述の理由で後継不適格と見做されたため、扉を大型車と同じく前中扉としたワンマン改造車も登場。一部は平成代まで生き延びた。

現在、扉を改造した車両は遠く海を渡ったカナダ。また、前後扉のままの車両が大阪産業大学敷地内、及び和歌山の貴志川線交通センター駅最寄の交通公園(旧免許試験場)で保存されている。

モ251形

モ205形の大半は廃線が決まった平野線と運命を共にすることとなったが、それでも40両強が在籍していた同車の全てを置換えるには代替車も何両か必要となった。

時に大阪・神戸両市電は全廃。関西で残る市電は京都市電のみとなっていたが、これが廃線するに当たり、最後まで在籍していた1800形の一部を引取ったものである。

1800形自体は京都市電中堅車両として1950年代に製造された11 - 12m級前後扉車800形をワンマン化に対応するため、前中扉に改造したもので、奇しくも置換対象となるモ205形と寸法は似ており、しかも改造なしでワンマン対応も出来ることが強みとなり、特に状態が良いものが6両譲渡された。

…しかし、高性能な間接制御車が多数存在する阪堺において、オーソドックスな直接制御の保守的な設計であったモ251形は「低スペック車」とされ、高速運行に適さず、しかも収容力も低いとあっては乗客・乗務員双方から不満が出て、早々にラッシュ時増発要員に回されてしまった。

結局最終的にはモ205形の必要最低限の数を(さながら同車が改造されたのと同様に)前中扉に改造して継続使用するという本末転倒な結果に終わり、このモ205形改造車引退とそう変わらない1990年代半ば、丁度関西空港開口の頃に引退した。

引退後も1両のみ動力を残したまま我孫子道車庫に動態保存されており、京都市電カラーが施され、イベント時等でその姿を見せるが、車籍を有さないため、本線走行は出来ない。

ここからは余談であるが、京都市電には廃止当時、より大型の12m強の大きさの1900形も在籍していた。こちらは阪堺大型車には敵わないものの収容力は上回っていたが、全車両を広電(先に1900形の一部を購入していた)が引き取ってしまい、阪堺の譲受すべき車両はなかった。

また、京都市電には他にもより高性能な間接制御車群(700・800・900形の一部)や阪堺大型車に匹敵する13m超の大型車1000形(登場は1949年)が存在したが、これらは阪堺で車両増減が必要ない1970年代前半に相次いで廃車され、丁度この時期には1両も残っていなかった。

京都市電では直接制御車が圧倒的多数の地位を占め、1950年代に新しい技術の一環として間接制御車が導入されても、ベテラン乗務員からは扱いにくいとの声を受け、ここにモータリゼーション進展に伴う路面電車斜陽化が重なり、構造がより複雑な間接制御車から廃車されていった。

これは何も京都に限った話ではなく、上述したモ501形に見られるいわゆる和製PCCカーといわれたカルダン駆動新型車も保守的な設計の車両が残る中で先行して廃車される例が各地で相次いだ。

和製PCCカー成功例とされた大阪市電や名古屋市電ですら、廃線後これらの高性能車を引き取る会社がほとんどいないか、あっても旧仕様に改造して導入しており、1960年代の路面電車衰退期を象徴するような出来事として伝えられる。同時にこれらの事象の発生で、1980年代に至るまで路面電車業界では戦前からの吊掛・直接制御の旧態依然とした車両による技術停滞が長期に渡って続いた。

か様にして1800形を導入「せざるを得ない」事態となったが、逆に戦前から間接制御・高性能車扱いになれた阪堺は、これら他都市の路面電車のありようとは逆の道を歩んだこととなる。それ故に、京都では「慣れ親しんだ使いやすい車両」であった1800形が阪堺では全く逆の評価を受ける始末となった。

同時にこれは廃止された他都市の戦後製車両や戦前製車両の機器を使い回すことで、(保存車を除けば)最も古い車両でも1950年代製までにほぼ統一した他都市の路面電車と異なり、戦前それも1920年代に製造されたモ161形の様な車両が21世紀まで生き残る原因ともなった。

路面電車の裏話

  • 駅ホームは道路に置いてるだけなので、車がぶつかって簡単にズレるので、人力で元の位置に直す。
  • 駅ホームにトイレがないので、運転士は駅近くにある公衆トイレを全て覚えて、緊急事態に備えている(お客さんに「すいませんトイレ行かせて下さい」と断って大急ぎで行く。その場面に出逢えたらレア)。
  • 路面電車で、駅と駅の間隔が短いのと、車との接触防止のためブレーキを掛ける回数が多く、ブレーキの部品交換を頻繁に行なう(新品の部品と使用済みの部品は厚みが半分程違う)。
  • 車両広告は全て手書き・手塗り。理由は道路を走っているため、どうしても小さな傷が付きやすく、ラッピング広告であると全部剥がさないといけないが、手塗りであると傷が付いたその部分だけを補修すれば良いから。堺市にあるゴールデン塗装という会社が一手に引受けている。阪堺電車の広告費は3年間で約600万円(JRは1ヶ月で約450万であるからそれと比べれば安い)。

昔本当にあった裏エピソード

  • 2000年前後、軌道敷(線路)に入ったままの路上駐車で線路を塞ぎ、電車が通れなくなってしまった。仕方なく運転士はお客さん5 - 6人に手伝って貰ってその車を抱えてずらした(人力)。

関連項目

南海電鉄 路面電車 阪堺表記揺れ大阪市 堺市

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