概要
ヨーロッパの中央部、アルプス山脈の東の内陸にある連邦共和制国家。首都はウィーン。
国際的に認められた永世中立国であるが、上記のこともあり形骸化しつつある。
かつてハプスブルク家の下繁栄し、音楽をはじめ芸術分野が盛んな国である。
なお、「Axis Powers ヘタリア」(APH)におけるオーストリアはローデリヒ・エーデルシュタインの項目を参照のこと。
国の名前の話
ウィーン少年合唱団やアーノルド・シュワルツェネッガーの出身地として有名、のはずだが、カンガルーやコアラのいるあの国と似た名前、というイメージの方が日本では強いかもしれない。しかしあの国とは場所も大きさも全く違う上に歴史上の関連もほとんどない。本当に名前が似ているだけである(強いて言えばどちらも方角由来の国名とは言えるが、あの国は「南の地」、こちらは「東の国」が原意である)。
一時期「オーストリーと呼んでくれ」と駐日オーストリア大使館がアピールしてみたものの、結局あんまり定着しなかった。
ちなみにオーストリアは英語読みで、現地語だとÖsterreich、日本語で宛てるとエ(ー)スタ(ー)ライヒ、あるいはエステルライヒという音が近い。昔のハプスブルクの人の姓がフォン・エスターライヒともいうのはそのせい。日本語読みもそっちにしておけばあの国と間違わなかったのに。
なお、実際にオーストリア国内では「ここにはカンガルーはいませんよ」というジョークまで作られている。
歴史
前述の通り、「(神聖ローマ帝国において)東の国」が原意である。歴史的にはドイツの一地方と言え、ドイツ民族主体の国であるが、紆余曲折あってドイツとは別の国になっている。
現在のオーストリアの政治的行政的起源に最も近いと考えられるのは、オーストリア辺境伯領。中世ドイツを支配した神聖ローマ帝国皇帝から東南方面の防衛を命ぜられた、封建諸侯の領国であった。その経緯からハンガリーやオスマン朝トルコ帝国等の侵攻と戦う歴史を続ける。その一方で当時領主となっていたハプスブルク家は巧みに皇帝位を手にし、逆に全ドイツに号令できる地位を世襲するようになる。続いて結婚政策を駆使してスペインや中欧の現代でいうオランダ、ベルギー、イタリア等、そして中南米の大部分やフィリピン、マラッカ等の世界各地の植民地を手にして超大国になる。ドイツ防衛諸侯の立場としては、当時全盛期オスマン帝国のスレイマン大帝率いる12万人の大軍がハンガリーを征服してオーストリア大公フェルディナント以下2万人が立て籠もるウィーンを包囲する。野砲や地下坑道、地雷といった猛攻がウィーンの城壁を次々と崩す最大の危機となったが、激闘の末に辛くも撃退した(第一次ウィーン包囲)。
こうしてヨーロッパと世界各地に勢力を広げる超大国として君臨するも、イギリスに無敵艦隊が敗れた後は植民地帝国としては衰退、三十年戦争によって神聖ローマ帝国から諸国が自立してしまうなどわりとあっさり弱体化。オスマン帝国を破って東方に領土を広げ、神聖ローマ皇帝ではなくオーストリアの君主として大国の維持を目指すようになった。
神聖ローマ帝国が解体された後、ドイツの覇権を巡りプロイセンと対立。
結果普墺戦争で敗れ、オーストリアはプロイセン主導のドイツ帝国から締め出されてしまった。
ハプスブルク家による多民族国家オーストリア帝国(1866年以降はオーストリア=ハンガリー二重帝国)の中心をなしていたが、第一次世界大戦で同帝国が崩壊。ハンガリー・チェコスロバキア・ルーマニア・クロアチアなどが分離したオーストリアはドイツ民族居住地域だけの小国に転落した。オーストリア人はドイツとの合併を望むようになったが、戦勝国のフランスが「敗戦国が領土を拡大させるのはおかしい」と主張し、サン=ジェルマン条約でドイツとの合併は禁止されてしまう。
世界恐慌時にオーストリア出身のヒトラーがドイツで独裁者となり、オーストリア・ナチス党が台頭する一方、ナチスを嫌って合併反対派が増大した。しかし反対派の当時のオーストリア首相は暗殺、後継首相も逮捕されてドイツ軍が侵攻し、オーストリアもなかば不本意な形でナチス・ドイツに併合されてしまった。ドイツ軍が侵攻した理由はオーストリア政府が合併賛否の国民投票を行おうとし、しかも否決されるとの予測がヒトラーを激怒させたことによるという。侵攻後にナチス主導で投票が行われて99.75%の賛成が得られたというが、投票の公正さは歴史の闇の底である。以後オーストリアは、連邦構成主体としての自治権が認められる「領邦」や「州」ではなく、自治権が一切ない「帝国大管区」として扱われ、名前も「オストマルク」に改称された。文化にも弾圧が及び、オーストリア音楽の象徴ウィーンフィルハーモニー管弦楽団にも解散指令が出る。指揮者フルトヴェングラーの仲介で解散は回避されたものの、ユダヤ人団員6名は収容所で処刑された。こうしてかつてドイツとの合併を夢見たオーストリア人の間に、ドイツとの合併そのものへの疑念と後悔が増大することとなる。
第二次世界大戦後の1955年、連合国による分割占領から永世中立国として独立し現在に至る。「ドイツ人ではないオーストリア人」としての自覚が芽生えるのは先述の戦中から戦後のことであった。このようなわけで、ドイツ人とオーストリア人は本来同じドイツ民族であるが、別の国民意識を持つというややこしいことになっている。
冷戦期は中立国ながら西寄りな体制を取っていた。民主化を進める隣国・ハンガリーとの国境を開放し、東ドイツ国民を亡命させた『汎ヨーロッパピクニック』は結果として冷戦を終結へと導いた。
現在は欧州連合の一員としてヨーロッパ統一を推進し、ドイツとも友好的な関係を築いている。
文化
かつての超大国というと、軍事力と武勇を誇示する国を想像したくなるが、むしろ文化国家である。ハプスブルク家の家訓とされる「戦争は他国に任せておけ。幸いなるオーストリアよ、汝は結婚せよ。他国がマルス(戦争の神)から与えられる領土を、汝はヴィーナス(美の神)から譲り受けるのだ」にその精神が現れているといえよう。
音楽
皇帝たちが征服したイタリアからしきりに芸術家を招聘したこともあって、音楽の伝統は特に有名である。ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンという古典派三大音楽家は全てオーストリアで多くの活動を行い、イタリア出身の音楽家達から学ぶだけでなく次第に独自のドイツ音楽を形成していった。その後もシューベルト、ブルックナー、マーラーらがオーストリアで活躍し、音楽史上での世界一の大国の座は間違いない。現代では、オペラではウィーン国立歌劇場があり、また同劇場有志によるウィーン・フィルハーモニー管弦楽団も著名なオーケストラである。音楽のイベントとしてはモーツァルトを記念したザルツブルク音楽祭等がある。
美術
オーストリアの美術が特に注目を集めたのは、19世紀末〜20世紀初頭のアール・ヌーヴォー・表現主義の時代である。画家に官能的な作風のクリムトや激しく捻じれた造形で知られるエゴン・シーレらが挙げられる。また、建築にはオットー・ワーグナーが現れ、合理的な建築を追求して後のモダニズム建築への道を開いた。美術館はウィーンの美術史美術館が、ハプスブルク家の集めた欧州各地各時代の作品を収蔵する。特に世界最大のブリューゲル(フランドル地方の画家)コレクションで有名。
食文化
上流階級は概してフランス料理を伝統的に味わってきたが、庶民の間ではドイツ料理と、チェコやハンガリーの料理等が影響し合って生まれた独特のオーストリア料理の伝統がある。牛肉の煮込み『ターフェルシュピッツ』、ミラノから伝わった子牛肉のカツレツ『ウィンナー・シュニッツェル』、ハンガリー風ビーフシチュー『グラーシュ』等々。また、宮廷の保護もあってケーキを中心にお菓子も豊富でチョコケーキ『ザッハー・トルテ』が特に名高い。ケーキなどお菓子に合わせる飲み物はコーヒーが定番だが、ウィンナーコーヒーはご当地コーヒーとは多少違う(同記事参照)。
酒は白ワインが多く産出される。ウィーン近辺の農家が卸業者のピンハネをヨーゼフ2世に訴え、実現したというのが『ホイリゲ』。これはウィーン郊外の丘陵に点々と設けられた農家自家製の作りたてワインを飲ませる居酒屋である。新酒の季節には多くの人々で賑わい、ウィンナ・ワルツを席から席に回って演奏する楽士達も現れる。これぞ音楽の都らしい夜の風景といえるだろう。
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