公爵
こうしゃく
東アジアでの公爵
ヨーロッパでの公爵
ヨーロッパにおける公爵は、「地方」と呼ばれるような領域を統治する上位の地方長官の事を指し、中世にはその領域を支配する封建君主、近代には最上位の貴族の爵位(名誉称号)となった。
王から賜るという性格の強かった英国の公爵を除き、欧州大陸国家においては多くの場合君主と同格クラスの家格と見做され、近世における王族の貴賤結婚におけるプロトコルでは公爵(ならびに侯爵)は「賤」とはならない、結婚相手として問題の無い地位であるとされた(無論、各々の家の成立過程によって事情は異なるが)。
大陸ヨーロッパで「貴賤結婚のため継承権を放棄し~」と記述のある者の大半は何も平民と婚姻したわけではなく、王・公・侯(あるいは一部の認められた伯)との婚姻ではなく地方のしがない田舎貴族の伯爵やらと結婚してしまったことが原因となる。
これは、時代が中世から近世になるに連れ、下級貴族の陪臣化が進み、王族階級と大きな差が出来てしまったこと、王族の供給量が安定し継承者を制限する必要性があったこと、王族間での閨閥関係を形成し地位を高めたり安定させる過程で下級貴族の家柄や権力など殆どあてにならないことなどから次第にそうなっていった。
Duke
(羅)Dux
(独)Herzog
この称号はローマ帝国の軍司令官Duxに由来する称号で、フランク王国が分裂した後の神聖ローマ帝国やフランス王国では、主に部族長にこの地位が与えられ、ブリトン人のブルターニュ公、ノルマン人のノルマンディー公、サクソン人のザクセン公、バイエルン人のバイエルン公などが置かれた。
11世紀頃には皇帝や王の権威が弱まり、名目上臣従しているものの、ほぼ独立国として振る舞い地位も世襲されるようになった。こうして成立した公国(duchy)は、ブルグント王国やスコットランド王国など小さな王国に匹敵し、フランスの百年戦争やドイツの三十年戦争ではそういった王国と対等に戦うほどであった。この時期になると単に広い領地を持つ諸侯もDukeと名乗るようになり、現存するルクセンブルク大公国などは都市名を冠している。
フランスでは百年戦争後、ドイツではドイツ統一で中央集権化が進んで封建領主の枠組みが解体されると、領主としての実権のない貴族の名誉称号となった。イギリスでは元々Dukeの称号は使われず、14世紀以降に王族にDuke号が与えられて以降、すぐに薔薇戦争が起きて中央集権となったため、基本的には上位の貴族を示す名誉称号として用いられている。
Prince
(羅)Principatus
(独)Fürst
この言葉はもともとラテン語で国家元首を指す語であり、前述のDux/Herzogや侯爵Markgraf、伯爵Comes/Earl/Grafなどのうち有力な君主を指す普通名詞であった。そこから派生して、王ほどではないがDukeでも侯爵でも伯爵でもない独立君主を指す称号ともなっていく。ドイツ以外ではこれらは王国や公国に匹敵するもので、ウェールズ公国(Principality of Wales)は現在のイギリスでイングランドやスコットランドと並ぶカントリーとして数えられる。十字軍のアンティオキア公国やルーマニア語圏のトランシルヴァニア公国(Principatul Transilvaniei)もこれに類する。現在まで残っているPrincipalityにはモナコ公国、アンドラ公国がある。
Princeも中央集権化が進むと名誉称号となったが、王族に与えられることがあり(イギリス王太子はプリンス・オブ・ウェールズ、スペイン王太子はプリンシペ・デ・アストゥリアスなど)、後にはプリンス・プリンセスは王子・王女を指す普通名詞ともなった。ドイツでも王子はPrinzと呼んでいる。
ドイツでFürst単独で用いられる場合にはGraf(伯爵)より上、Herzog(公爵)より下という扱いであった。このためドイツ史の専門書ではFürstを「侯爵」と訳すことがある。またスラブ語圏ではクニャージ(Князь)という称号がPrinceやFürstと互換性のある称号として用いられていた。ただし、この言葉自体の語源はKingと同じである。
日本でDuchyやPrincipalityに匹敵するような状態が長続きしたことはないが、あえて言えば豊臣政権末期の五大老や、江戸時代の御三家など親藩の大大名がそれに近い。