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ル・マン24時間の編集履歴

2022-02-20 20:22:37 バージョン

ル・マン24時間

るまんにじゅうよじかん

自動車による伝統の耐久レース。二輪・四輪で存在するが、四輪の方がメジャーであるため、本記事もそちらについて扱う。

概要

『世界三大レース』の一つ。1923年が初開催で、まもなく100周年を迎える、歴史と伝統のある耐久レースである。

フランスル・マン市のサルト・サーキットで(コロナ戦争が無ければ)毎年6月で開催されている。

運営はFIA(国際自動車連盟)とACO(フランス西部自動車クラブ)が共同で行う。

1950年代からFIAの世界選手権に組み込まれたり外れたりを繰り返しており、現在はWEC(世界耐久選手権)の一戦になっている。


レース専用に設計されたプロトタイプスポーツカーと、市販スーパーカーを改造したGTカーが混走しているのが最大の特徴である。そのため「クラス優勝」の概念が存在する。他の三大レースであるF1モナコグランプリ、インディカーのインディ500と決定的に異なる点である。

SUPER GTやジムカーナのような、市販車をベースとする競技出身の人たちからすれば、競技車両の賞典を車両規格ごとに分けるのは常識である。しかしそのレースに参加する全車が同じ土俵で争い、そのレースで最も速い1人だけが栄誉を得られる文化のF1・インディカーからレースを見始めたファンに理解してもらうには少々時間がかかる概念である。

加えてマシン1台あたりに対してドライバーが複数名エントリーするのも、他の2レースには無い特徴である。1950年代には一人で走りきろうとした猛者がいたが(結果は眠気で操作ミスによりリタイア)、以降は安全上の理由によりドライバー交代は義務となっている。そのためドライバーというよりはメーカーやチームの戦いという色が強い。


クラスによってはアマチュアドライバーが参戦できるため、毎年多数のエントリー希望者が殺到する。もちろんサーキットのガレージの数には限界があるので、WECや「ユナイテッド・スポーツカー選手権(USCC、北米のスポーツカーレース)」にフル参戦していたり、「ヨーロピアン・ル・マン・シリーズ」や、「アジアン・ル・マン・シリーズ」といった姉妹カテゴリで優れた実績を挙げたりしたチームだけが参戦を許される。

北米にはかつて「アメリカン・ル・マン・シリーズ」も存在しており、これは欧州への遠征も行われたビッグイベントであった。「プチ・ル・マン」という10時間レースもロード・アトランタで開催され、今でも続く20年以上の歴史を持つイベントとなっている。

このようにル・マンの名は、耐久レース界最大のブランドに昇華されているのである。


2022年現在はプロトタイプのLMハイパーカー/LMP2、GTカーのLM-GTEプロ/アマの4つのクラスに分けられている。このうちLMP2とLM-GTEアマは中小プライベーター/アマチュアドライバー(あるいはプロドライバーの卵)向けのクラスで、使用できるマシンには制限がある。

加えて、デルタウイングZEOD RCのような先進的技術または自由な発想で作られた車両が参戦できる、賞典外の「ガレージ56」枠も存在する。


年によって参戦メーカー数に大きな幅があり、ワークスチームが1社のみ或いは不在となってしまったことも一度や二度ではない。しかし数々の名車たちが繰り広げてきたドラマは人々の興味と尊敬を集めてやまず、それゆえ100年近くに渡って続けられるビッグイベントとなっているのである。


歴史

戦前はベントレーアルファロメオがそれぞれ4連覇を達成した。またフランス車メーカーを中心に前輪駆動車が小排気量クラスで優れた成績を収めていたこともあった。

第二次大戦中はフランスが戦場となっていたため、開催されなかった。

Mercedes-Benz 300 SLR (W196S)

戦後しばらくは産業の荒廃でベースとなる市販車が少なかったことから、「市販を前提とした試作車(=プロトタイプ)」の参戦も認可された。その結果メルセデス300SLをはじめとする、F1マシンを市販車のフォルムに落とし込んだような、先鋭化した設計の「プロトタイプ」が次々に登場した。

しかし1955年、ホームストレート上で突如減速したジャガーに接触したメルセデスが観客席へ突っ込み、80名近くを巻き込む大惨事を起こす。これによりメルセデスはモータースポーツ自体から長らく撤退し、欧州各地でもモータースポーツを縮小あるいは禁止する地域が出るなどの大きな影響があった。

フォードGT40 CN.1075

1960年代前半は他に有力なマシンがいなかったこともあるが、フェラーリが無敵の強さを誇り、多数のプライベーターたちとも合わせて怒涛の6連覇を達成した。しかしその途中から当時大衆車量産メーカーと思われていたフォードが新開発の決戦兵器・GT40で勝負を挑む。1966年にフォードはついにフェラーリを打ち破り、翌年には連覇を達成した。この経緯については映画化された「フォードvsフェラーリ」で詳しく見ることができる。この頃マシンの高速化が進むようになり、最高速度は300kmに到達。またレース戦略も「ゆっくり確実に走る」から、「そこそこのレーススピードで競り合って勝つ」へ変化した。

同時期にIMSA・Can-Amといった北米スポーツカーレースも勃興しており、両者の間で交流が生まれるようになった。

PORSCHE 917K

1968年からはプロトタイプ規定の最大排気量が3Lに制限されたため、大排気量のフェラーリとフォードはワークス参戦から撤退。それに代わってマトラルノーアルピーヌ)、ポルシェなど、従来中小排気量クラスに参戦していたメーカーが総合優勝を目指して争った。しかし実質的にはプロトタイプと同じマシンを、最大排気量5Lのスポーツカー規定車両の条件となる最低台数25台を生産し、従来と同じ排気量のまま参戦するという力技が発見される。これによりフォードがさらにもう2連覇(計4連覇)を達成し、ポルシェもこれに追随して917で悲願の総合優勝を達成した。なお917は40年に渡って塗り替えられない走破記録(5,335km)と、20年近く破られない最高速記録396km/h、そして今でも破られないコースレコード(3分13秒9)を達成するなど、現在とのコースレイアウトの違いを差し引いても凄まじい性能を示した。

当然こんなやり方はコスト高騰の原因になるということで、スポーツカーの最大排気量も3Lにされてこれらのマシンは締め出され、ほぼライバル不在の中マトラが3連覇を達成する。

なお日本でヒットした映画「栄光のル・マン」もこの頃、本番で撮影車両を参戦させながら製作されている。そしてこの人気に触発されたシグマ・オートモーティブ(現SARD)が1973年にデビューしたのを皮切りに、マツダスピード、童夢トムスなどの日本のプライベーターがル・マンへ参戦するようになった。

1978 Renault Alpine A442B

1975年はマトラも市販車に注力するため撤退し、ワークスチームが完全に不在となった。翌年から大幅に規則が代わり、グループ6(スポーツプロトタイプ)とグループ5(シルエットフォーミュラ)が参戦可能となった。メイクス世界選手権ではグループ6と5が入れ替わりタイトルを獲得していたものの、ル・マンでは完全にグループ6が主役であった。

最初はルノーとポルシェが当時はレース用としては真新しかったターボエンジンで激しく争っていたが、F1に軸足を移したがっていたルノーは1978年に目的を達成すると早々に撤退したため、オープントップのポルシェ・936の一強態勢が色濃くなった。これに当時F1で無敵を誇ったコスワース製DFVエンジンを利用したプライベーターが抵抗し、1980年にロンドーがカーデザイナー兼ドライバーとして優勝するという快挙を達成している。

ミュルサンヌ、午後3時

1980年代は「使える燃料の量以外は全て自由」と形容される、『グループC』が施行された。オイルショックの影響が明けて、本格的なレース活動の場を求めていたジャガー、メルセデス、ランチアマツダトヨタ日産アストンマーチンプジョーなど史上稀に見る多数のワークスチームが参入した。

グループCはポルシェの独走を阻止する狙いもあったが、実際には「ポルシェのために作られた規則」と揶揄されるほどポルシェは徹底的にこの規則に適合させたマシン、956と962Cを開発。しかもこれらをプライベーターに手厚いサポートと共に大量供給したため、むしろ独走態勢は強化され、7連覇を達成する有様であった。

Mazda 787B ( 志摩 リン )

1990年代に入る直前、FISAはTV放送枠に適したレースフォーマットで成功を収めたF1に倣い、F1とグループCエンジン規格を統一することを表明。ル・マン以外の選手権レースをスプリントレース化した。しかし従来とは逆に燃料使い放題となったこの規則は、根本からの設計の見直しと多額の投資が必要となってしまう上、世界的な経済不況も重なってメーカーの撤退が相次ぎ、1993年にはトヨタとプジョーだけになってしまった。

なおマツダ787Bがその混乱の間隙を縫う形で、1991年の移行期間に日本メーカー初となるル・マン初制覇を達成している。これはロータリーエンジン車としても空前絶後となる記録である。

またシグマもトヨタのグループCマシンで何度も参戦するが、あと一歩のところでマシントラブルで涙を飲んでいる。

日産 R390 GT1 '98

一転して不人気になってしまったル・マンをどうにかしようとFIAが様々な手を尽くした90年代は、いくつかの車両規定が混在し入れ替わる混迷の時代を迎える。1994年は『LMP1』の名称でグループCと、1台だけでも公道仕様車を製作すれば公認を取得できる『GT1』規定の混走となる。95年からはグループCは参戦不可となる代わり、IMSAのWSC規定(LMP1)とGT1の混走となった。

これにより日産やポルシェ、メルセデスなどが復活しアウディBMWも参入するが、ダウアー・ポルシェがWSCでもGT1でも規則の穴を巧みに突き続けたため、実質的にはポルシェ一強状態であった。トヨタ・日産もこれに倣ったマシン(TS020R390)を開発し、日本人トリオによる表彰台や別規定ゆえのクラス優勝は獲得できたものの、マシントラブルが原因で総合優勝だけはどうしても手が届かなかった。

なお1995年に、上野クリニックの佐山氏がスポンサーして追加で走らせたマクラーレン・F1 GTRをドライブした関谷正徳が、日本人ドライバー初のル・マン総合優勝を成し遂げている。

優勝おめ絵!

FIAはGT1を廃止して最高クラスをLMP1(LMP900)に一本化するが、2000年代になった途端に各々の事由でワークスチームが一斉に撤退。ベントレーとアウディという同一(フォルクスワーゲン)グループの2社による寡占状態に陥り、さらに2003年はベントレー、2004年~2006年はアウディそれぞれ1社のみとなってしまう。この頃チーム郷のアウディ・R8で荒聖治が日本人2人目の、そして日本チームの日本人ドライバーとしては初のル・マン制覇を達成した。

幸い、当時はエコ技術として注目を集めていたディーゼル技術に興味を持つプジョーが2007年から参戦したため、以降はアウディvsプジョーの大排気量ディーゼルターボ対決が繰り広げられた。

90年代半ば〜00年代はクローズドトップのタイヤが細く規定されていたこともあり、オープントップが優勢であったが、2011年以降はFIAの意向によりクローズドボディのみとなった。

【24 Hours of LeMans】Audi R18

2012年から電動技術と4WD技術を掛け合わせたLMP1ハイブリッド規則が施行される。自由かつハイレベルな技術で1000馬力を叩き出すこの規定は、アウディ・トヨタ・ポルシェが三つ巴の戦いを繰り広げ、全盛期を迎えた。しかし2015年の『ディーゼルゲート』により突如暗雲が立ち込め、フォルクスワーゲン・グループに属していたアウディとポルシェが2016~2017年にかけて撤退。わずか5年ほどでLMP1ハイブリッド規定は事実上の終わりを迎えたが、新規定の決定が大幅に遅れたため、2020年まで従来規定を継続した。

その結果、またしてもワークス1社のみとなってしまったル・マンでトヨタは"勝利"を重ねざるをえなくなる。中嶋一貴小林可夢偉がこれにより日本人ウィナーとして歴史に名を残すこととなった。また中嶋は2014年に日本人初のポールポジションも獲得している。

ル・マンGR010 1-2フィニッシュ記念せつ菜

2021年からはLMハイパーカー、さらには北米IMSAとの提携でLMDhの両規定が施行され、プジョーやポルシェなど多くのメーカーが再参入の動きを見せている。

また2010年代以降独自に施行してきたGT規定の『LM-GTE』が限界を迎え、GT3をベースとする新規定へと移行する。


小ネタ

ル・マン式スタート

黎明期はホームストレート上のピット側にマシンを斜めに並べ、反対側にドライバーが並び、スタートの合図と同時にドライバーがダッシュでマシンに乗り込み、エンジンを掛けてスタートしていく「ル・マン式スタート」が用いられた。

しかしシートベルトをしないままスタートするという危険な行為が後を絶たなかったため、これに抗議したジャッキー・イクスは、1969年にゆっくり歩いてしっかりシートベルトを締めて最後尾からスタートし、しかも優勝したというまるで創作話のような実話がある。


1971年にル・マン式スタートは廃止されたが、近年のWECではこれを模して、ダミーグリッドへ整列する代わりにル・マン式スタートと同じ位置にマシンを配列している。

二輪の耐久レースではシートベルトの必要がないため今でも使われており、日本でも鈴鹿8耐で見ることができる。


ちなみに対義語(?)は「デイトナ・フィニッシュ」である。これは1-2-3位など上位独占状態の自社のマシンをこれ見よがしに並べて勝利のチェッカーフラッグを受けることである。

1967年デイトナ24時間でフェラーリ陣営が行ったのが起源であるが、実は前年のル・マンでフォードがやったことをそのまんま仕返ししただけである。つまり本来なら「ル・マン・フィニッシュ」でもおかしくないのだが、なぜか「デイトナ・フィニッシュ」が定着している。


ユノディエール

第5コーナーから6kmにも渡って伸びるストレート「ユノディエール」はサルト・サーキット最大の特徴である。普段は公道として利用されているこの区間では、1980年代まで熱い最高速バトルが繰り広げられていた。

プジョー有志によるプライベーターのセカテバは、総合優勝を諦めて最高速記録だけを求めたグループCマシン「P88」を開発し、1988年に405km/h(!)という記録を刻んでいる。


しかし高速化しすぎてあまりに危険すぎるということで、1990年にシケイン、つまり減速のための超低速コーナーが2つ設けられ、一つの時代は終わりを迎えた。

とはいえ6kmのストレートが3分割、つまり常設サーキットとしては世界最長とされる富士スピードウェイのホームストレート(1.5km)およそ3つ分のストレートが残っているわけなので、現代でもローダウンフォース傾向でマシンセッティングが組まれるのが一般的である。


ちなみに現在のコースレイアウトでの最速タイム記録は、2017年小林可夢偉がトヨタ・TS050 HYBRIDで叩き出した3分14秒791。これはグループCのシケインが無かった時代のジャッキー・イクス(ポルシェ・956)をコンマ01秒上回るタイムで、技術進歩というものの凄まじさを教えてくれる。


空飛ぶメルセデス

ル・マンの歴史の中でメルセデスは3度宙を舞っている。


1度目は前項で述べた、1955年のホームストレート上での大事故。これは事情を知っていれば、メルセデスに責を問うのは酷な事件であった。


2、3度目は1999年。メルセデスはGT1規定のCLKを3台エントリーさせるが、1台は予選中に、もう1台は決勝中に高速コーナーで、突如マシンがフロントからふわっと浮いて「離陸」するという事故が発生した。これはマシンの空力的な欠陥と、上下の激しいコーナーが不運にも噛み合ってしまったことが原因であった。

いずれもマシンが真っ逆さまに着地するという事態になったにも関わらず奇跡的に死者が出なかったが、メルセデスは危険性を鑑みてレースウィーク中に撤退。メルセデス製マシン(シャシー)はこれを最後に、二度とル・マンへ踏み入れることはなかった。


関連項目

モータースポーツ 耐久レース グループC プロトタイプ オレカ シェルビー NSX スープラ スカイラインGT-R 787B R92CP

Pixiv百科事典に記事がある、過去参戦したドライバー

ミハエル・シューマッハ リカルド・パトレーゼ ジャン・アレジ ロバート・クビサ ニック・ハイドフェルド

星野一義 中嶋悟 土屋圭市 鈴木亜久里 近藤真彦 立川祐路 中嶋一貴 小林可夢偉

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