pc-9800
ぴーしーきゅうせんはっぴゃく
概要
NEC(日本電気)が昭和57年から平成15年まで製造・販売していたパーソナルコンピューター(パソコン)のシリーズ。通称は98(「きゅうはち」あるいは「キュッパチ」と読む)。
1990年代前半までのパソコン向けアダルトゲーム(「ギャルゲー」という呼称は昭和61年に使われ始めたとされる)は大多数がPC-9800シリーズ対応として発売されていた。
名称に関して
この「PC-9800」という名称は単一の形式名ではなく、初代PC-9801からPC-9821Ra43までのうち、PC-H98シリーズを除く、カタログの上部に記載されるメーカー公式のシリーズ総称であり、公式の付属部品にも用いられた。タグとしては「PC-9801」やPC-98が多い(PC-9801のtags.php、PC-98のtags.php)。初代のPC-9801が発売されてから10年に及び国内パソコンのトップシェア(最盛期には約90%まで達した)を占め、「国民機」の異名を取った。
その一方で往年のPCマニア(というかおっさんホイホイ・じいさんホイホイにかかるレベルのPCヲタや、その薫陶を受け継いだレトロPCマニア)が「PC-98(98)」の用語を用いる場合には、PC-9821以降の形式(要はWindows実装以降のシリーズ)を含まない場合も多く、人によれば「公式の立場がどうあれ『PC-9800』とは『PC-9801』のみの事を指す(コマンドを打たない98は98じゃない)」と頑なに言い切る人も一定数いる。
構成
NECが昭和54年に発売した8bitPC、PC-8001、およびその上位互換で昭和56年発売のPC-8800シリーズと続いたソフトウェア互換は保持する一方で、ハードウェア互換はバッサリと切り捨てたこと(これは両者を開発していた部署が異なることも関係する)により、世界初のフルネィティブ16bitパソコンとして産声を上げた。なおCPUにIntel8086を搭載。
画面表示
画面表示は640×400ラインという、日本独特の解像度を採用し、後々問題となる。同時発色数は当初8色だったが、後に拡張され、昭和60年には有名な(悪名高いとも言う)16色表示を搭載したPC-9801VM・PC-9801VXでシリーズとしての完成形を見る。
歴史
PC-9801(初代)
初代発売まで
PC-9801は企画時、実は主力商品ではなかった。NECはPC-8001、PC-8801と続いた「パーソナルコンピュータ」からの脱却を目指し、次のステップを目指していた。これはスタンドアローンではなく、メインフレームACOSをサーバーとした、今日におけるイントラネットに近いものを構想していた。この為PC-8801の後継となる次期主力極小型コンピュータは形式号もかわりN5200シリーズを名乗ることになっており、開発もホビーユースを担当していた「電子デバイス事業グループ」から、1970年代以降のNECにおいて通信と双璧を成す花形である「情報処理事業グループ」の担当へと変更された。
一方、1973年(昭和48)にアメリカのゼロックスで開発された「ALTO」を目の当たりにしたアスキーの西和彦の提唱による「日本独自のGUIコンピュータ」を目指し、京セラと共同で開発が進められることになった。PC-8001、PC-8801の担当だった「電子デバイス事業グループ」はこちらに動員された。こちらにはPC-8801から一足飛びに新世代・新時代のコンピュータ第1号であることを主張するPC-100の形式号が与えられた。
しかし、N5200シリーズは「絶対に失敗できないプロジェクト」であり、PC-100は「ギャンブル性の高いプロジェクト」であったため、「N5200シリーズの開発が長期化もしくは商業的に失敗、PC-100がバースト」という状態になるとNECは16bit時代にPC-8801シリーズで戦わなければならなくなってしまう。
日本においては「NECに非ずんばコンピュータに非ず」。NECがそんな無様なところを見せる訳にはいかなかった。
そのため、「N5200の開発長期化や商業的失敗、PC-100の失敗」という「最悪の事態の時の保険」として、「情報処理事業グループ」の余剰人員からプロジェクトチームを編成し、無難なPC-8801の発展形を開発することになった。つまり、期待されてはいなかったのである。
なのでPC-9801はよく言われる「ビジネスマシン」「ホビーマシン」といった色は最初からついていなかった。ただただ「純粋・純朴なパーソナルコンピュータ」として、窓際で産声を挙げたのである。
この時この窓際の新生児こそがNECの命運そのものを左右し、栄枯盛衰を決定づけることになるとは、誰一人として思っていなかった。
伝説へのテイクオフ ~もしくは、やってはいけない企業戦略
昭和57年、初代PC-9801が発売されると「いよいよNECから16bitパソコンが!」と、市場の注目は俄然、PC-9801に集まった。既に国内でもMulti-16が発売されていたが、やはり本命は世界市場でIBMと互角の戦いを演じて溜飲を下げさせてくれた日本の巨人・NECのマシンである。
え、N5200は……?
実は前年に発売されていたのだが、オフィス用を意識しすぎて、採用されたマルチタスクOS、この当時にハードディスク前提の構成、庶民はカタログを見てため息ついてりゃいいんだよ! と言わんばかりの早すぎた商品構成に見向きもされなかったのである。肝心のオフィス用途でも、まだこんなクソ高いシステムを欲するのは国鉄ぐらいで、PC-9801が発売されると企業の関心までそちらに移ってしまった。失敗してはいけないプロジェクトが失敗してしまったのである。
PC-100は、98から1年遅れで発売されるも、事実上の「和製Lisa」と化しバースト。
もう言うまでもないだろう、「『最悪の事態』になった」のである。
PC-9801はNECの「頼みの綱」になってしまったのだ。
「窓際族プロジェクト」から「栄光の国民機」へ
しかし、NEC自身にとっては余録で生まれた商品だけに、最初から言われるような栄光の道だったわけではなかった。最初の3年は、“色を持ってない”PC-9801の方向性を確定させるための苦難の道だった。特に新世代の記憶媒体であるフロッピーディスクの取扱を巡って二転三転することになる。表示規格もPC-8801から受け継いだ8色カラーは当初から搭載していたが、フォントや発色数の取扱を巡って試行錯誤が続く。初代PC-9801からPC-9801U2までの機体は、そのための存在だったと言える。
最終的に方向性を決めたのはこのPC-9801U2だろう。3.5インチプロッピーディスクを搭載して¥298,000。高嶺の花で有ることに違いはないが、1セット50万円と言われるIBM PCやApple Macintoshに比べれば「文字通り8bit機を2台買うつもりで」なんとか手が出る価格だった。
キューハチの方向性は決まった。「最小クラスの汎用機だ、一定の方向を向くつもりはない」である。
そしてこれがNECの商品構成そのものも決定づけた。NEC自身は、しばらくPC-8801mk.IIとのハイ・ロー・ミックスとする戦略を練っていたが、価格対性能比で圧倒的なパフォーマンスを誇るPC-9801U2は飛ぶように売れた。PC-8801に引退勧告を突きつけ、ホビーパソコンとかいうテレビゲーム機にキーボードを付けたようなまがい物共を根こそぎなぎ倒し、IBMを筆頭とするアメリカ勢を事実上シャットアウト、メインフレームでの「宿敵と書いてともと呼ぶ関係」である富士通のFMRシリーズに早くも引導を渡し、日本市場に君臨する道を見事踏破したのである。
特にホビーパソコンジェノサイドはこれを見ていたアメリカ資本家たちにまで危機感を与えた。
「大した性能もないのに規格を濫立させてグダグダやってるホームコンピュータに投資してる場合じゃない! このままでは鉄道、自動車に続いてパソコンまで日本にやられてしまう! 戦争に勝ったのはオレたちのはずなのに!!」
これにより日本のホビーパソコンに当たるアメリカのホームコンピュータ市場は一気に縮小、選択と集中の理論に基づき、NECと正面切って戦えるIBMとその互換機、Appleに資本は投じられることになった。
昭和60年7月、16色カラー搭載のPC-9801VMを発売。これが98の最初の完全形態となった。この後、Windowsが主流となる1990年代後半まで、多くのソフトが「PC-9801VM・PC-9801UV以降」という対応になった。
昭和63年7月までの主力機の展開
翌昭和61年にU2の後継であり、VMのピザボックス筐体・3.5インチFDD搭載型であるPC-9801UVを発売。
なんとUVにはFM音源が標準搭載され、それでいて価格はVMより安いともう完全にホビーパソコンの息の根を自社のPC-8801mk.IIもろとも止める商品だった。
PC-9800シリーズの基本モデルは素の状態では特別な回路を積んでいないことから、ゲームに必要な能力を持っていないことが「ビジネス機」とされる所以だが、そもそもそんなものは必要なかった。有り余るCPUパワーと広大なメモリ空間でぶっ叩けばいいだけの話なのだ。
昭和63年3月にあからさまにMacに喧嘩を売っている一体型のPC-9801CVを発売。
「PC-98」形式号の登場
ハイレゾ機
昭和60年、見るも無残なN5200シリーズの代替として、1170×750ラインの高解像度(High Resolution、略してハイレゾ)表示が可能な「N5200よりは安価で、バカ売れしているPC-9800と互換性を持つ」商品が求められた。
これにより投入されたのがPC-98XAである。01はどーした。
このXAは更に細かい仕様ごとに割り当てられる形式もそれまでの1ケタ乃至2ケタの番号から、N5200流の「model.XX」という記述になった。
ただ、「N5200よりは安い」が、「UVが2台買える」お値段であり、個人ユースでわざわざこれを買うのは余程の物好きに限られた。
昭和62年、32bit CPU、Intel 80386の情報が日本でも流れるようになった。IBMが搭載してくるのは間違いないし、Macが採用しているMotorola MC68020は既に98にも搭載されている80286と同世代だが、先に32bit化していた。NECの、いや日本のメンツにかけて、32bitで出遅れる訳にはいかない。
10月にPC-98XL2(実際にはXLの2乗と書いて「XL ダブル」と読む)を発売。80386搭載のメジャーパソコン一番乗りを果たしてファンを喜ばせたが、精神的に喜ばせただけだった。手が届く代物じゃない、もうしばらくは16bitで我慢……と、誰しもが思っていた。
J-3100ショック
さて国内メーカーもここまでNECに市場を牛耳られてただ手をこまねいていたわけではない。「宿敵(とも)」富士通がなにかゴソゴソやり始めているがとりあえずそっちの商品化はまだ先の話。
昭和62年、東芝がJ-3100シリーズを発表。中身はIBMの互換機に過ぎなかったが、重要なのは外見。それまで「パソコンは据え置きで使うもの」という固定観念をぶち破り、折りたたみ式可搬型、いわゆるラップトップコンピュータだったのである。
98によるホビーパソコンジェノサイド以来の世界的なセンセーションとなり、以降当時の西側各国で開発が始まる。
もちろんNECも負けてはいられない。東芝は10月発売予定。ならばNECのメンツにかけても年内発売するのだ。
しかし比較的コンパクトなUX/UV、CVでも大きめの百科事典程度のサイズに収めるのは無理がある。新しい統合型チップの開発が必要だが、それには間に合いそうもない。
そこで、とりあえず間に合う分だけ詰め込んでJ-3100の翌月に発売したのがPC-98LTである。「間に合う分だけ」なので、互換性に一部問題が残ったが、とりあえずNECの面目は保たれた。
以降、下2ケタ抜きの「PC-98」形式号は、採算よりも市場実験的、裏メニュー的な機体に割り当てられるようになった。
ラップトップ主力機の発売
間に合わせのPC-98LTから早くも年が替わって昭和63年3月には、早くもデスクトップ主力機完全互換のPC-9801LV/LSを発売。えっLT買った人はどうすりゃいいのって? 知るか文句は東芝に言えよ(マジでこの調子。なるほど任天堂には勝てなかったわけだ)。
しかし、東芝はまだなにかやっている。
昭和63年7月からPC-9821登場までのデスクトップ主力機
王者の称号「R」
「R」といえば、シビック? スカイライン? そんなスピード狂たちが反応しそうな称号だが、PC-9800でも玉座の機種に与えられる称号である。
昭和63年7月。それはもたらされた
新商品の形式はPC-9801RA。CPUは、80386DX。
一部のハイエンド機のための高嶺の花……と思われていた32bitCPUを、その上位とは言え普及型機種のラインに搭載してきたのである。それもXL2に搭載されていた初期版の仮想86が動かないバグつき386(なおDXと付かないが外部16bitのSXとは違いちゃんと32bitである)ではなく、386DXである。余談だがこのバグは別売りオプションの差し替えCPU(または他社製アップグレードCPU)への交換で解消される。
……が流石に普及機ラインとは言え、お値段は張った。U2の時と同様、RX(286)の1.5倍程度の値段に落としたとは言え、個人が買うにはまだ高い。
だが、それでも買えるかもしれないところに落としてきた功績は高い。まさに「R」に相応しい商品である。
更に翌年、買えるかもしれないを無理すれば買えるに変えるため、RAとRXの間に386SXを搭載してもう2万ほど削ったPC-9801RSを発売。
実際、OSの方は相変わらず16bitのMS-DOSだったのだが、286に存在したメモリアドレッシングの問題が一部改良され、アッパーメモリ空間が追加されたことがパフォーマンス向上に役立った。
ここで気づかれた方も多いだろう。そう、「R」は後々再び98の「玉座に座る者」の称号になる。
FM音源の標準化
しかし、早くも問題が生じてくる。廉価機だったCVやUX/UV、また98NOTEにも既にFM音源が標準搭載されているにもかかわらず、肝心のフラッグシップ機には搭載されていないという問題である。このため平成2年には早くも衣替え、PC-9801DA/DS/DXが発売される。
同時に、これまで「主力機は5インチFDD、小型・ホビー向けモデルは3.5インチFDD」としていた構成をやめて、Dシリーズ内に3.5インチFDD搭載モデルと5インチFDD搭載モデルを用意するようになった。この結果、当時のワープロ専用機に普及していたことに加え、98用ゲームソフトの供給の主体が3.5インチフロッピーディスクになっていたこともあって、3.5インチFDが一気に主流になる。
しかしこのDシリーズは、センセーショナルな初代RシリーズとFシリーズの間に挟まれてあまりいい印象が残っていない、簡単に言うとPC-9800の停滞の象徴みたいな機種になってしまった。
実際、Dシリーズは後々CS・USが発売されたことで「デカさ≒値段」となってしまい、さらにEPSON互換機が単なる隙間需要狙いから98のメインストリームに正面切って喧嘩を売ってくるようになった事もあって、お世辞にも大成功した商品とは言いがたかった。
「何故か」迷走する小型廉価機
平成3年に入って、さすがに既に生産を打ち切ったUX/UVの後継機を出さないわけには行かなくなってきた。
そこで、2月に98NOTE用のものからバッテリー管理周りを取っ払ったマザーボードを使ったPC-9801UR/UFを発売する。
が、ここに問題があった。PC-9800のソフト、特にゲームはFDD2基搭載を前提に開発されているため、FDD1基が前提の98NOTE用の基板を流用したことで互換性に支障が発生してしまった。しかも、こうした廉価機が必要とされるホビー用途でこれでは売れない……
「単にUX/UVのマイナーチェンジ機を発売すりゃよかっただけなのに、なんでそこで迷走するんだよ!?」
ストレートでアザーカーもいないのに自ら路肩に突っ込んだURはとても魅力的な価格であったにもかかわらず鳴かず飛ばずに終わった。
10月にはCVの後継機として、また小規模オフィス向けを狙って一体型のPC-9801CSを発売する。流石にAppleから訴えられるじゃねぇかって不a(げふんげふん モニタを10インチから13インチに拡大するために、ウェストのくびれたデザインに変更。そのかわりPC-9801世代では珍しい“アローデザイン”非採用モデルとなった。そして今度はこのデザインを逆にAppleにパクらr(げんふげふん
そして、このCSにはHDD内蔵・Windows3.0プリインストールモデルが用意された。
ここから明示されるとおり、この「C」もまたPC-9821へと受け継がれる形式号になる。
迫りくる影
この頃、アメリカでパソコンの普及台数が一気に増えているという情報が日本にも伝わってきた。かつてのホームコンピュータ(ホビーパソコン)ではない、IBM PC/ATやMacintosh、そしてその互換機が、である。
平成2年にIBMが発表したOS「DOS/V」により、漢字ROMの無いPC/ATでの日本語表示が実用化され、日本市場最大のハードルを突破した。PC/ATをDOS/V機と言うことがあるのはこの名残である。
平成4年1月、NECもH98シリーズにしか搭載してこなかったi486SXを搭載し、前面オプションスロットを装備したPC-9801FAを発売し、その時に備える。
だが、アメリカ勢は確実に日本再上陸の準備を整えつつあり、「黙っていても一強」でいられる時代は終わりを告げようとしていた。
最早こんなところでグダグダしている暇はない。URをさっさとカタログ落ちにしなければ防戦準備もままならない。
もう深く考える必要はないだろう、CSの基板をUR/UFのケースにブチ込めばいいんだよ、ということで7月、PC-9801USを発売する。結局、なんだったんだ……
PC-98GS
Windows3.0の登場に伴い、いわゆるマルチメディアパソコンの可能性を追求するため、1991年に発売された一種の実験機。当時としては高性能を誇ったものの発売価格が本体だけで70万円と高額に過ぎ、商品としては完全に失敗に終わったが、後にPC-9821への道筋をつけた。
PC-9821(初代)
PC-98GSの商品としての失敗の後、256色表示可能な手軽なマルチメディア機として、1992年に初代が発売された。通称「98MULTi」。初期の機種はCPUにi386SXを搭載、音源もステレオとなり、CD-ROMドライブを標準搭載していた。なおディスプレイは一体感のあるものが同梱されたが一体型ではない。
マルチメディア時代の到来
平成4年10月、Compaqが低価格PC/AT機をひっさげてついに上陸。後にいうコンパックショックである。日本で発売された安価なPC/AT互換機がPC-9800シリーズのシェアを脅かし始めた。後を追ってDELLやGatewayも次々と上陸し、平成5年10月には富士通がPC/AT機FMVを発表。PC-9800最後の戦いが始まろうとしていた。
Windows3.1の登場によるパソコンの本格的なマルチメディア時代の到来が確実になったことから、i486シリーズ搭載前提の高性能機PC-9821Ap・PC-9821As・PC-9821Aeの「98MATE」が発売され、同時に「98FELLOW」ことPC-9801BA・PC-9801BXも発売されたものの、時流はすでに多少安いところでPC-9801の出る幕ではなく、FA機として少数がラインアップにとどまるのみとなり、PC-9821のラインアップが拡充されていった。
はっきり言ってしまおう、本当にPC-9800の真価が発揮されたのはここからである。今までは、NEC自身もしょーもないこともやっても、マトモな相手はEPSONぐらいで、それ以外はさらに輪をかけて勝手に自爆してくれる相手ばかりだった。
しかしここからはそうはいかない、相手は新たなるB-29、PC-9800は背水の陣である。
だが、元々の特別な色を持たず素性が良いPC-9800だったからこそ(そして、幸運にも初代PC-9821を開発してあったからこそ)、ここからの“本土決戦”に善戦して見せることになるのだ。
9821のシリーズ化
まずPC-9821のバリエーションとして追加されたのが、初代のコンパクト性を求める声に答えて、CPUをi486SXにパワーアップした「98MULTi」シリーズのPC-9821Ceである。その後「PC-9821Cシリーズ」として後半期まで展開していく。一方、メインストリームのフルサイズデスクトップ機では若干の迷走があった。フラグシップの通称「AーMATE」に加え、廉価機のPC-9821Bp・PC-9821Bs・PC-9821Beの通称「BーMATE」を追加するが、実際には廉価化のためPC-9801のマザーボードにGPUとステレオ音源のみを追加したため、他のPC-9821とフルネイティブの互換性がなく、混乱を招くことになった。そこで、Pentium・IntelDX4世代になって、PC-9821Xn・PC-9821Xp・PC-9821Xs・PC-9821Xeの通称「X-MATE」に全面的に切り替えられた。これらはPC-9821の規格を統一した一方、PC-9801の標準だったPC-9801-26Kサウンドボード互換のサウンド機能が省かれ、MS-DOS用ゲームの一部はサウンドボードを搭載しなければサウンドが再生されない状況となった。
VALUSTAR
一方、この頃MacのParformaに端を発する、実用ソフトをバンドルした「オールインワン」商品構成の時流にあわせ、「X-MATE」をベースにした、PC-9821Vxx(xはCPUクロックの上2ケタ、MMX後は3ケタ)の形式号を持つ「VALUSTAR」シリーズが登場する。1996年、Pentium IIの前身であるPentiumProの発表後、大手メーカーのほとんどがプロユース向けのフラグシップ機に搭載する中、実売¥298,000のPC-9821Ra20を発表し市場に最後のセンセーションを放った。以降、P6アーキテクチャ(PentiumPro~Pentium III、および同世代のCerelon)のPC-9821フラグシップは通称「RーMATE」となる。一方、タワー筐体の高級機PC-9821St15・PC-9821St20も登場し、こちらは「98PRO」となった。
PC-9801BX4
平成7年、PC-9801BX3の後継機として投入された、PC-9801としては最後の機体だが、実質のところ高解像度表示用のGPUを取り外しただけで、中身は完全にPC-9821そのものという機体であり、そのネタマシン振りに人気があるのか、ネット上のオークションなどではやたら高値で取引されている。
終焉へ
しかし、NECはこの時、なぜか突然やる気を無くし始める。かつては「98の敗北は日本の敗北」とまで言ったはずなのに……
たしかにこの時期になると、PC-9800とPC/AT互換機の差異は、サウスブリッジがPC/AT互換機標準かPC-9800用カスタムチップかと、ROM周り程度になりつつはあった。しかし、少なくとも市場では、PC-9800はまだ戦えていたように見えるのだが……
(「シリーズ終焉」の節に続く)
シリーズ終焉
PC98-NXシリーズ登場
それは平成9年のことだった……
突然、NECはPC98-NXシリーズ、という新シリーズのパソコンを発売し、PC-9800シリーズからの移行、PC-9800シリーズのクローズを発表したのだ。
このPC98-NXは、それまでのPC-9800とは異なる、Microsoftが提唱するPC98という標準仕様に沿ったものだ、と、発表から発売後の数年間、NECは主張し続けたが、誰がどう見たってPC/AT互換機である。
とは言うものの、PC-9800のファンもそろそろか、と覚悟はしていたものだった。PC-9800はサウスブリッジにシリーズ専用のカスタムチップを使用する。これはNECが独自に用意しなければならず、現状ではNECでしか使用しない分、調達価格の下落が見込めないからだ。一方で、ライバル機に対抗する必要性から発売価格は高くできず、その分、NECは利益が薄くなり、商品によっては逆ザヤという状況になっていることは、いくらPC-9800のファンでも、否定できなかったのである。
嗚呼、勘違い
このNECが計画した「PC98-NXシリーズへの移行による収益体制の強化」は、当初こそ目的を達成した。
だが、その代償としてNECはパソコン市場における支配力を失った。
どういうことか。
今までユーザーは、PC-9800というNECにしか作れない商品だからこそ、多少の不満があってもPC-9800を買い支えてくれたのだ。
しかし、中身がPC/AT互換機そのものなら、NEC製に拘る意味は一気に薄くなり、「オンリーワン」という補正抜きで、他社と比較されることになる。ましてやパソコンのヘビーユーザーなら、PC/AT互換機であれば世界中のメーカーのパーツやアプリケーションと組み替えるすることで、安価で高性能で自分に必要な仕様にすることができる。
しかも、前述のようにPC/AT互換機ではないと主張し続けた上、まだUSB機器も普及していない状況で無理やりレガシーインターフェイス(の一部)を排除した初期のPC98-NXは、案の定様々なトラブルを抱えることになり、このことからも今までPC-9800を買い支えてくれたユーザーの不満、不信感を募らせることになった。
結果、NECは一時的に収益力を改善したものの、市場における支配力を自ら手放すことになったのである。
PC-9800もしばらくは生産が続けられたが、その内容は平成10年までに発売されたPC-9821の基板を元に、小改良の上でCPUを高速化、メモリ、HDDを増量しただけに過ぎない商品になっていった。もはや「世界を席巻したPC/AT互換機相手に、孤軍ながらも善戦したPC-9800」の姿はどこにもなかった。
ただ、Windows2000はPC-9800版も発売された(パッケージ版は同梱)。その後、平成15年に新規発売をクローズ。栄光の「国民機」は、ファンに別れを惜しまれながらその歴史に幕を閉じた。
PC-9800から移行をためらったユーザーの例として、独自配置のキーボードに慣れた人々が挙げられる。PC-9800の場合、漢字変換の面倒さをPC-9800キーボードの使いやすさで補っている面が存在していた。ただPC/ATのWindowsでもATOKが出たり、逆に各種ソフトの最新版がPC-9800で出なかったりして、こうしたユーザーも次第に減っていった。
Macintoshへ乗り換えたものも、極少数ではあるが存在した。当時、MacはPower Macintosh 7600/200及び7300/180という、全盛期のPC-9800を思わせる機体が屋台骨を勤めていた。
最悪のタイミング
しかし、ここで疑問を感じるもいるだろう。
「自社規格を捨ててのPC/AT互換機への移行は、『宿敵(とも)』富士通も同じだったはず。そんなに失敗じゃないのではないか」
これは、タイミングの問題である。
富士通は、もともと自社規格のFM-TOWNSが大きくなかった上、早々にFMVに移行していた。この為、Web黎明期からブロードバンドが黎明期から普及期へと移行するという、市場が一番盛り上がる時期に、時間をかけてPC/AT互換機メーカーとして自社ブランドを再構築する事ができたのである。
一方、NECは最悪のタイミングで移行を発表してしまった。発表とほぼ同時期にアジア通貨危機が発生し、これにより第一次ITバブルは崩壊しようとしていたのである。この為、NECは循環的に拡大と縮小を繰り返す市場において、拡大期から縮小期に移行するタイミングで移行してしまったことで、PC-9800ブランドの放棄がそのままNECのブランド力の低下に直結してしまったのである。
繰り返された過ち
この後、NECはオフィス向けソリューションも、ユーザーに対しメインフレームのACOSからx86ソリューションへの乗り換えを促していくようになる。
だが、21世紀に入ると、ダウンサイジング構想により一時期はレガシーソリューションとされたメインフレームの再評価が始まる。
この当時、パソコン用モダンOSとして、Windows2000が既に発売、WindowsXp と MacOS Xが発売間近だったが、これらのOSでも、メインフレームに比べると信頼性、確実性に劣っており、なにより高い処理能力を集中して必要とする場面があることを考えた際、メインフレームはダウンサイジングに反しないということになるのだ。
これに色めき立ったのが、当時PC事業を捨てていたIBMだった。メインフレーム再評価の流れは緩急あれど止むことはなく、危機に瀕していたIBMは一転、復活を果たす。
日本ではどうか。NECの「宿敵(とも)」富士通は、うまく立ち回った。かつてNECのACOSと双璧を成したFACOMの商品名は終了していたものの、その系譜は次世代のGSシリーズ、GS Prime、GS21と確実に継承、そして更に発展させた。結果、絶対性能ではIBMに及ばなかったものの、それなりの出荷数を確保し、国産メインフレームの健在ぶりを充分にアピールした。
一方のNECは、ACOS事業は残ってはいたものの、営業サイドも積極的にx86ソリューションへの乗り換えを推進しているほどで、先細りの状況だった。表面上はACOS事業自体は続けると言っているものの、その実、2020年代後半までに事業をクローズしたい以降だと言う。
そして、NECは、ここでかつてのN5200と同じ過ちを犯した。
それは、「大企業向けオフィスソリューションと個人向けソリューションは可分」という考え方である。
いかに大規模でも、大元がPC/AT互換機ベースであるx86ソリューションであれば、別にNECである必要はない。
となれば、バブル崩壊後コストカットに苦しむ大企業こそ、率先してNECから離れていった。もともと、個人向け・法人向け中小規模ソリューションと異なり、ACOSでのNECのサービス体勢は、現場レベルでは褒められたものとは言いがたかった。「どの会社を買っても同じ」なら、NEC以外に流出してしまうのは当然だったのである。
さらに、日本全体で電子マネー時代が登場するが、顧客が絶対の安全・確実性を欲する日本では、こうした金銭を電子情報でやり取りする情報を管理するには、メインフレームがどうしても不可欠だった。当然、それらの需要には長期の商品展開とサポートを公言している、富士通やIBMが供給することとなり、NECは莫大な売上機会を逃すことになった。
かつてのN5200と同じ過ちを犯したわけだが、もし、PC-9800が健在なら、ACOSの分も背負ってくれただろう。
同じx86ソリューションでも、PC-9800という「オンリーワン」であれば、シェア逸走は避けられないにしても、NECのブランド力低下は最小限で済むからである。SV-98シリーズや98PROシリーズが順当に発展していれば、背負うことができたはずである。
だが、これまで幾度もNECを助けてくれたPC-9800はもうどこにもいない。
NEC自身の手で、引導を渡し、介錯までしてしまった。
NEC栄枯盛衰
本項の本題と少し外れるが、この後のNECについて話をする。
家庭用ゲーム機からの撤退
家庭用ゲーム機市場は、1990年代初頭には任天堂が絶対王者として君臨し、その下でセガとNECが二番手争いをしていると言うイメージだった。
だが、平成7年、この構図が激変する。
任天堂がまさかの首位陥落、そしてかわりに玉座に座ったのは、新規参入したばかりのソニーのプレイステーションだった。
王者プレステに対し、セガは苦しみながらも新世代機サターンで食い下がり、市場は2強の様相を呈してきていた。この状況下、任天堂は新世代機の投入が遅れて3番手にまで下がったが、それまでの伝説級の実績の積み重ねがあったことから、存在感を失うことはなかった。
しかし、NECは実績があるとは言っても任天堂とは比べ物にならないほど小さく、新世代機PC-FXは早々に破綻、さらに平成9年に、開発パートナーのハドソンが北海道拓殖銀行破綻の煽りを受けて資金調達力を失ってしまう。
結局、NECの家庭用ゲーム機部門は、撤退の道しか残されていなかった。
家電販売からの撤退
実はバブル崩壊後、NECは家電の開発能力をほとんど放棄しており、この頃のNECホームエレクトロニクスブランドの家電は三洋電機のOEMだった。しかし、アジア通貨危機からのハイテクバブル崩壊の逆風を乗り切り、勝ち組の3Sと呼ばれたサンヨーだったが、実は粉飾決算を繰り返しており、隠している負債が膨大となり、この頃から自転車操業化、開発能力を急速に失いつつあった。その結果、サンヨーの家電は市場で戦えるものではなくなっていった。この煽りを受けて、NECの家電事業も縮小を余儀なくされた。
さらに、NECホームエレクトロニクスの事業だった家庭用ゲーム機もこの頃既に撤退。
平成7年、NEC本体は家電販売分野のクローズを決定、翌年にNECホームエレクトロニクスは精算会社となった。
切り売りを繰り返した果てに
先の通り、ACOSの縮小、PC-9800の終焉により、市場の支配力を失っていたNECに残された道は多くなく、どれを選んでもNECの縮小は避けられない中、選ばれたのはかつてNECの2大花形部門の一方であった、情報処理事業の切り売りによる延命であった。もう一方の通信機器事業は、ブロードバンドWebの拡大と、日進月歩する携帯電話市場により、この状況下でもそれなりに好調であり、こちらを生き残らせることを選んだのである。
特に携帯電話では、この時点では「宿敵」富士通と鍔迫りあっており、お互いの新たな戦場になるかと思われた。
だが、スマートフォンの時代に入ると、情報処理事業を切り売りしてしまったNECには、スマートフォンに参入する力が残っていなかった。結局、NECは、早々と携帯電話市場からも姿を消す結果になった。富士通も2010年代中はなんとか頑張ったものの、最終的に売却し、結局両者ともいなくなった。
残された通信機器事業も、最後の物理接続の交換器(PBX)のユーザーであるNTTが、PBXの設備更新をせず、新しい交換方式を模索し始めており、盤石ではなかった。一方、LAN通信機器に関しては、個人ユースでも法人ユースでも、高い信頼性とサポート体制から評価が高く、一定のシェアを握っていたが、かつてのような絶対な支配力はなく、CISCOやPLANNEXとの戦いにさらされていくことになる。
「98の敗北は日本の敗北」
あの頃、海外の人は見たことも聞いたこともないようなハイテク機器が日本には山ほどあった。サイバーパンクの日本像は、決して冗談ではなかったのである。
携帯電話機産業は当時世界最先端の機能により、割と盤石と思われ、この分野が復活の足がかりになる、かと思われた。
しかし再び同じ構図で発生したiPhoneという黒船襲来、Androidという白村江の戦い。時折しもリーマンショック下の不況へと落ちていく最中、結局、この分野ではガラケーの事実上の終焉とともに、国内の端末製造各社は皆あの時のNECと同じ境遇に陥り、姿を消した。そして黒物家電もアジア勢の後塵を拝していく。
そしてこのガラケー時代のために、未来を担う若年層もがデジタル機器音痴になってしまった。
2020年、そこにはハンコを押すために出社し、ワクチン券の数字を読み取るためにダンボール細工をこしらえるアナログな姿があった。
かつて日本のイメージリーダーとして、自動車や鉄道、アニメ漫画ゲームに匹敵する存在であった半導体・情報産業は、今や影も形もない。日本人はもはや日本の電気産業に期待しておらず、むしろかつては格下ぐらいに思っていた台湾企業に期待している状況である。
かつてアメリカと互角以上に戦い、
世界を手中に収め、
日本人に自信を与えてくれた姿は
もうどこにもなかった。
そこにいたのは、自ら底なし沼へと沈んでいく残滓だったのである。
「98の敗北は日本の敗北である」。
まさにそのとおりになったのである。
PC-9800の更にその後
互換機は産業用向けに各社にて販売されたが、それもRomwin社から98BASEシリーズが細々と発売され続けているのか、すでに販売終了となっているのかもわからない状況である。
その他
ビープ音
PC-9800シリーズの特徴が「ピポッ」という起動時のビープ音だが、16bit機では「ピーッポーッ」という間延びした音だったのに対して、PC-9801RA以降の386機からは「ピポッ」というスタッカートの利いた音になった。ただし、これ以降の機種でも「AーMATE」まで搭載されていたV30互換モードに変更すると16bit時代の音になった。また、Pentium(P5)搭載機のCPUをAMDのK6に換装すると、さらに速い音になったりする。
余談
- 2017年にリリースされた声優ユニット・イヤホンズの楽曲『サンキトウセン!』の歌詞の中に『キュッパチ』というワードが取り入れられており、これ以外にも『DOS/V』『ペケロク』『リンゴ』など、初見では絶対理解不能な分かる人にしか分からないオタク用語が散りばめられている。
- 1998年に「Windows95」の後継OS「Windows98」が登場、MicrosoftはWindows98に対応可能なパソコンの性能を「PC98」規格として発表したため、世界的には「PC98」と言うとマイクロソフト版の意味になっている。
- 日本における標準機種となったため、各メーカーから互換機が発売されている。ただし、著作権等の関係や技術力の差などにより完全な動作を保証できず、NEC側も互換機対策として通称エプソンチェックというコピープロテクトを導入している。
- 2023年のオリジナルアニメ『16bitセンセーション ANOTHER LAYER』にありとあらゆるPC-98が登場している。PC-98をこよなく愛する超天才プログラマー六田守による魔改造(おびただしい数のPC-98の連動)でPC-98専用自作AI搭載のスーパーコンピュータ化するなどしている。また、本編だけでなくOP・EDにも登場するなどしている。なお、最終話にて、主人公の秋里コノハが最後のタイムトラベルを終わらせて2023年に帰還した際に映った秋葉原のビル広告に『超光速次世代PC PC98ZXシリーズ it's the standard.』という広告が設置されているなどしている。