経歴
ポジションは捕手。高校は中京大中京高校に入り、國學院大學に進学。大学の1年後輩に同僚となる聖澤諒がいる。
2006年大学生・社会人ドラフトで東北楽天ゴールデンイーグルスに入団。同期入団に永井怜(大学生・社会人1位)、渡辺直人(大学生・社会人5位)、田中将大(高校生1位)らがいる。
楽天時代
正捕手不在のチーム事情の中、投手とコミュニケーションを取る姿勢を野村克也監督から評価を受け、ルーキーイヤーから一軍に定着。一時は不振で二軍落ちを経験するも、プロ入り4年目の2010年からは若手育成を重視するマーティ・ブラウン監督の意向もあり、正捕手に定着。
この2010年は規定打席数に到達して打率.315をマーク(パ・リーグの捕手では2005年の城島健司、当時福岡ソフトバンクホークス以来)。また球団史上初となるゴールデングラブ賞を受賞。
2011年から選手会長に就任。この年は攻守に精彩を欠いて不本意な成績に終わった(打率は.223。失策11はパ・リーグの捕手では最多)が、田中将大とともに最優秀バッテリー賞を受賞している。
2012年は5月に骨折で1ヶ月離脱し、復帰後もルーキーの岡島豪郎と兼用され、91試合の出場にとどまった。同年オフの12月6日に阪神タイガースの新井貴浩の後を継ぎ、第8代日本プロ野球選手会長に就任した。
2013年は開幕から攻守ともに好調で、Kスタ宮城に2013年に初めて設置されたEウィングへの初ホームランも放った。また、岡島が外野で起用される一方、この年獅子奮迅の活躍を見せた田中将大の女房役として時に打撃で、時に守備でリードで開幕24連勝の偉業、そして球団初の日本一の原動力となった。
この活躍ぶりが認められ、ベストナイン、自身2度目のゴールデングラブ賞を受賞した。
以後もチームの主力としてチームを支えたが、2019年は腰痛の影響も相まって守攻双方で精細を欠くようになったことや後輩の捕手陣が台頭していったことなどにより出場試合を大きく減らし、シーズン終了後に大幅減俸を提示され退団、出場機会を求め東京ヤクルトスワローズ移籍を決断した。
ヤクルト時代
翌2020年シーズンは春先に指を骨折して厳しい船出となるも、COVID-19の影響で開幕が遅れたこともあり、開幕時にはどうにか完治して一軍入りを果たす。しかし、シーズン中に試合中に負った怪我の影響で登録抹消となり、同年9月末の千葉ロッテマリーンズとの二軍戦まで治療に専念。10月3日には再び一軍に合流するも、これらの怪我の影響もあってこれまで以上に安打数が減少するなど、不本意な成績となった。
2021年は、開幕こそ二軍であったが、3月末に一軍登録される。出場数は昨年より更に減少したが、ベンチにおける声出しなどの雰囲気作り、他選手へのアドバイスなどを行い、チームに好影響をもたらした。現役最終年の2022年はコーチ業を兼任。引退後もバッテリーコーチ→ヘッドコーチとして支えている。
エピソード
- 楽天時代、野村克也が監督を務めていたころはたびたび説教を食らっていたため、ニコニコ動画や2ちゃんねる界隈ではよく嶋説教と言われていた(ちなみに完全になくなったわけではなく、星野仙一にもたまに説教されている。またパワプロの実況プレイ動画などで嶋がやらかすとこの言葉が出てくる)。別の言い方をすれば野村元監督のツンデレによくあっていた。
- 楽天時代の2011年、3月11日に発生した東日本大震災の影響でチームも大変な状況におかれた中、4月2日に行われた慈善試合にて「見せましょう、野球の底力を。見せましょう、野球選手の底力を。見せましょう、野球ファンの底力を。」とスピーチし、注目を集めた(スピーチ全文はこちら)。ヤクルトで現役引退する際のセレモニーでは、日本シリーズ連覇に向け「底力」を引用、「見せましょう、ヤクルトスワローズの底力を!」という一言で締めた。
- 引退セレモニーでは、かつてのバッテリー田中将大がサプライズで登場し、花束を贈呈した。
- 東日本大震災の被災者を訪問時、逆に被災者に勇気付けられたことから「誰かのために闘う人間は強い」という格言も残しており、2023年の3月11日に行われたWBC第5回大会第一次ラウンド第三戦のチェコ共和国戦前に侍ジャパンが行った声出し円陣で甲斐拓也にも引用されている。
- この試合で先発を務めたのは、東日本大震災で父と祖父母を失った佐々木朗希であった。