概要
慶応義塾大学とアメリカのハドソン大学(MBA)卒業後、そのままアメリカで銀行に勤務したのち、1984年に家業のトヨタに転職。
いわゆる社長息子でありながら、父の意向で平社員として入社。履歴書もしっかり提出したという。
常務取締役、専務取締役、副社長を経て、2009年に社長に就任。
前年に発生したリーマンショックによる71年ぶりの赤字転落を筆頭に、2011年の東日本大震災(工場を含む系列会社が多数被災した)や海外でのプリウスの死亡事故といった諸問題に対応し、トヨタの復興を主導した。
結果として業績のV字回復の立役者となった他、TNGAのような技術革新を経てトヨタの姿を大きく変えることとなった。
一方で、大の車好きとしても知られており、開発のために自らレースに出走するなど社長としては異色の経歴を持っている(後述)。
2023年4月1日付で社長を佐藤恒治に交代し、自身は代表取締役会長に就任した。
車好き
「ガソリン臭くて、燃費が悪くて、音がいっぱいでるクルマが好き」と公言するほど、単なる移動手段としてではない、運転を楽しむツールとしての車を愛しており、スポーツカーの復権とモータースポーツ活動の振興に貢献した。
2012年の86発売をはじめ、スープラの復活、GRヤリスとGRカローラの発売、モータースポーツ部門を集約したTOYOTA_GAZOO_Racingの発足、WRCへの復帰等は、章男が社長でなかったら成しえなかったと言われる。
前社長時代にはスポーツカーの扱いに極めて消極的で、2007年にMR-Sを販売終了して以降しばらくはスポーツカー自体をラインナップしていなかったことを踏まえると、変化の大きさが分かりやすい。
スポーツカーの開発に事務的に関わるだけでは飽き足らず、自らハンドルを握ってテストドライバーを務め、更にはニュルブルクリンク24時間レースや国内ラリーにも選手として出走している。
これは技術者としてではなく事務方として会社を牽引する立場であったことも一因としてあり、「自分でハンドルを握らなければ分からない」という認識から2020年には発売前のGRヤリスを、翌21年には史上初となる水素燃料エンジン車のカローラスポーツを駆り、スーパー耐久の24時間レースを走った。
モータースポーツ選手としては「MORIZO」を名乗り、2023年発売のGRカローラにはその名を冠した限定車「MORIZO Edition」が設定された。
運転の師匠にあたる人物はトヨタのマスターテストドライバーの成瀬弘。「運転のこともわからない人に車のことをああだこうだと言われたくない」「自分達のように命をかけて車を作っている人間がいることを忘れないでほしい」「その気があるなら運転を教える」と言われたのがきっかけ。豊田は成瀬に弟子入りして評価の仕方を学んでおり、現在の豊田の考え方は元を辿ると成瀬の教えに行き着くのだそう。また、初代86の開発に関わったエンジニアの多田哲哉も豊田を「テストドライバーとしては相当なレベル」と評している。
自動車会社の社長の中には金融屋や事務方上がりだったり、雇われ社長で免許すら持っていない(=運転手を雇って車を運転させるだけで、自らハンドルを握ることがまったくない。成瀬の言葉を借りるなら「運転のこともわからない人」)社長が珍しくない中で、テストドライバーとして開発に直接関わることができる豊田は極めて異例の人材である。レーシングドライバーとしてのライセンスも持っているが、豊田はあくまでも自身はマスターテストドライバーであると言っている。
車両開発においては「ルーティンでマイナーチェンジするくらいならやめてしまえ(=モデルチェンジをするなら意味を持たせろ、挑戦しろという意向)」と技術陣に投げかけるほど厳しい側面もあったが、「社長ほど車を知らないんです」と若手を萎縮させてしまったこともあり、それ以降は強く口出しすることはなくなった。(4代目プリウスに至っては「ダサい」と言い切ったものの開発陣の意志を尊重して企画を通したほど。)
ニューモデル・モデルチェンジの企画会議では彼の意見でその後の方針が決まることもよくあり、海外専売予定だったが国内併売した結果大ヒットしたヤリスクロスや、「セダンじゃないクラウンを作ろうよ」と言ってS30型クラウン(クラウンクロスオーバー)を企画させた後に「セダンも作らないか?」と曰い、開発担当の中嶋裕樹プレジデント(現・副社長)を大いに困惑させた。
しかしこうした意向が開発陣の意識改革にも繋がっていたようで、前述のクラウンの提案に悪ノリした中嶋プレジデントが更に2モデル(クラウンスポーツ・クラウンエステート)を持ち込んで再提案した際には社長の方が困惑する羽目になった。
また、メーカーの垣根を超えた交流にも熱心で、他社製であっても良い車を素直に評価している。
東京モーターショーや東京オートサロンなどのイベントでは直接会場を見て回り、度々その姿がニュースになる。
スポーツマン
自身が大学時代にホッケー部に所属していたり(日本代表選手として選出されるほどの実力)、渡米中にゴルフに熱中していたこともあり、モータースポーツ以外のスポーツ振興にも力を入れている。現在でも株式会社名古屋グランパスエイトの取締役を務めている他、開催前から揉めに揉めた東京五輪ではCMを取り下げた代わりに、後述の「トヨタイムズ」で出場予定のトヨタ所属アスリートの紹介特集を編成させた。
また名古屋市長・河村たかしがトヨタ所属で女子ソフトボール五輪代表・後藤希友の金メダルをかじった問題では「豊田章男」として市長宛の抗議文を送るなど、スポーツマンに寄り添う姿勢が随所に見られる。
エピソード
- 数多くのクルマ好きとしてのエピソードも含め、それまでの「利益追求・スポーツカー軽視」だったトヨタならではのネガティブイメージを払拭したことから、社長就任時と退任時でのトヨタの印象を激変させた張本人。トヨタアンチの中でも「トヨタは今でも嫌いだけど豊田章男個人は好き」という声があるほど。
- 車を運転している姿ばかり注目されるが、販売部門での改善活動を主導し、カリフォルニアのGM合弁会社・NUMMIの副社長を歴任した。
- 彼が有氏と共に中古車販売におけるシステムの刷新(展示スペースに並べて販売する方式から、展示前に車両をデジカメで撮影してデータベース化)したことにより中古車販売を1.7倍に伸ばすことに成功。当時は「ネットワーク上で全国の中古車を展示・販売する」スタイルは売れないと社内でも囁かれていたが、現代のインターネット中古車販売を見れば先見の明があったと言えよう。
- このシステムは「GAZOO(GAZO=画像の誤字、後にGA=画 + ZOO=動物園の意味が込められた)」と名付けられ、現在のTOYOTA GAZOO Racingのきっかけにもなっている。
- 初めての愛車はTE71型カローラ(セダンGT)。ポルシェ911やフェアレディZに乗っていたこともある。
- MORIZOというドライバー名は、2005年の愛知万博のマスコットキャラクターであったモリゾーに由来する。当然ながらトヨタがパビリオンを出展していた。別名義を用いたのは、初期のGAZOOチームがトヨタ公式のプロジェクトではなく、豊田姓を名乗れなかったためとされる。ちなみに公式のマスコットとして「モリゾウくん」があり、サプライズでモリゾウくんの被り物を取ると本人登場、という演出をしたこともある。
- GAZOO Racing黎明期に参戦していたニュルブルクリンク24時間レースではピットをシェアしていたアストンマーチンCEOウルリッヒ・ベッツと意気投合。V12ザカートと自車のLFAをシェアして参戦するもV12ザカートが大破。メカニックの賢明な修復によりLFAとのランデブーフィニッシュを飾った。(このことが[iQ]をベースとした「アストンマーチン・シグネット」を生み出す契機となった。)
- サーキット走行やラリーだけでなくドリフト走行も得意(コーチングをしたのはWRC王者にもなったトミ・マキネン)。300馬力オーバーのWRカーを軽々と振り回す様は還暦を既に越えているおじいちゃんとは思えない程。
- サプライズやエンターテイメント的な演出が好きで、重大情報を唐突に発表することが多い。
- 2019年には独自のメディアとしてトヨタイムズを立ち上げた。これは章男のオールドメディア嫌いが理由と見られ、実際に日本メディアのネガティブ偏重を批判したこともある。トヨタイムズ発足後は既存メディアの取材に殆ど応じていない。
- 日本において、自動車メーカー幹部が自らモータースポーツに参戦することは極めて稀であり、社長職では他には本田宗一郎(本田技研工業創業者)しか例がない。
- 日本の自動車の維持費が高いことに度々苦言を呈している。