概要
長野県の飯綱山に伝わる大天狗。信州(信濃国)の天狗の代表格である。
祈祷経文『天狗経』や能の演目の一つである歌謡曲「鞍馬天狗」では「飯綱三郎」「飯綱の三郎」の名で言及される。
『戸隠山顕光寺流記(戸隠山流記)』では「伊都奈三郎」、『飯縄講式』では「飯縄智羅天狗」という表記がなされる。
一般的には炎を背にし、利剣を持ち、白狐の上に乗る烏天狗めいた姿で描写される。
長野市永福寺蔵の銅造飯縄大明神像(応永13年、1406年)のように童子のような体型で作像されることもある。
「飯綱山」の名前の由来となった「飯綱」とは、「テングノムギメシ(天狗の麦飯)」と呼ばれる微生物の塊の別称。
長野県を含む本州中部地方で産出されるもので、伝説によると飢饉のさい、飯綱山の頂でとれたこの「飯綱」を飯綱三郎天狗は日本全国に配ってあげたという。
事実、微生物の塊であるが食中毒などの病気や体調不良になったという報告例は見られない。
テングノムギメシの産出地は複数存在するが、いずれも国立公園の中であるか、国の天然記念物に指定されており、現代の一般人には口にするどころか手にする機会もない。
きちんとした学術調査でも無い限り、採取が許可される事は無いだろう。
信仰
上記の伝承からも分るとおり、人間からみて善の側に立つ天狗の一人。飯綱山の「山の神」とされ、神仏習合説も折り重なり多くの信仰を集める尊格となった。
江戸時代に編まれた『飯縄山略縁起』では神世七代の一柱「大戸之道尊(オオトノヂノミコト)」であるとされ、本地は大日如来と記される。
伝承によれば、応神天皇の時代にオオトノヂの神を飯綱山に祀ったのが(西暦270年頃とされる)飯綱信仰の始まりであるという。
『飯縄山略縁起』では大日如来の化身である飯綱大明神は、火災防止のために不動明王に、衆生救済のために地蔵菩薩に、武門を擁護する者としては地蔵菩薩の軍神としての相である勝軍地蔵へと姿を変えると記される。
飯綱山は十六代天皇である応神天皇の時代(3世紀)から、五十四代目の仁明天皇の時代(9世紀)まではみだりに登ってはならないとされていたが、 嘉祥元年(848年)に学問行者という修行者が神仏に宣誓した上で登り、山頂においてこの神と「親しく尊容を拝し奉」ったという。
本地仏については大日如来を介さず、地蔵菩薩、不動明王のいずれか一尊とする信仰も存在する。
飯綱権現(飯綱大明神)信仰は飯綱山近辺以外にも広まっている。『戸隠山流記』では「伊都奈三郎」は自身をさして「日本第三の天狗」と呼び、「願わくば此の山の傍らに侍し、権現(戸隠権現、またはこれを構成する一柱である九頭龍権現)の慈風に当たりて三熱の苦を脱するを得ん」と言い、この山の鎮守として一緒に祀るように指示している。
神徳
飯綱権現のご利益について『飯縄山廻祭文(飯綱祭文)』は十三種を説く。
- 刀杖の難(武装した者からの害)を除く
- 師君の機(主君や師に出会うチャンス)を得る
- 妻子眷属(家族と親族)の和合
- 虚名口舌(虚言や嘘)の害を避け、誤らない
- 戦場における利徳
- 沙汰心論(物事の処理、その要となる議論)に勝つ
- 敵を滅ぼす
- 病患を除き、寿命を伸ばす
- 田畑や土地を手に入れる
- 火の不始末による火事や盗賊の難を免れる
- 七珍(珊瑚やシャコ貝の殻や各種宝石、金銀といった七種の宝)と万宝(よろずの財宝)を得る
- 福祐(幸運)に満たされ充足する
- 呪詛や悪霊の祟りに遭わない
高尾山薬王院の「五体合相」説
東京都の高尾山にある真言宗智山派大本山の一つ「薬王院」では不動明王のほか四人の神仏
(歓喜天、迦楼羅天、荼枳尼天、宇賀弁財天)が合体したのが飯綱権現とする教説がある。
この説においては飯綱権現の描写や性質が、それぞれ五人の神仏に対応するとされた。
神仏 | 対応する描写・性質 |
---|---|
不動明王 | 青黒い体、背負う炎、手に持つ利剣と羂索。髪の毛の巻毛、頭頂の蓮華 |
迦楼羅天 | クチバシと翼 |
歓喜天 | 富貴をもたらし病を除き、夫婦和合をもたらす |
荼枳尼天 | 飯綱権現が乗る白狐 |
宇賀弁財天 | 頭上の白蛇。白蛇は四肢に巻き付いている事もある |
元の神仏が持つ特徴に込められた意味合い(不動明王の利剣の「煩悩を切り払う」等)も含有する形になっている。
家族関係
『飯縄山廻祭文』では飯綱権現の家族関係について記され、彼が「三郎」である意味が明らかになる。このテキストによると彼は天竺(インド)から白狐に乗ってやって来て、修験道の霊地である山々に住まうことを選んだ王子たちの一人とされる。王子達と住まう山の名は以下の通り。
太郎王子:愛宕山
二郎王子:比良山
三郎王子:飯綱山
四郎王子:富士山
五郎王子:白山
六郎王子:熊野大峰山
七郎王子:羽黒山
八郎王子:大山
九郎王子:日光山
十郎王子:金峯山
『飯縄大明神縁起』『飯縄講式』によると、父王の名は「妙善月光」母后の名は「金毘羅夜叉」。量テキストにおいて王子たちは天狗の異称でもある「天狐」と記される。
『飯縄大明神縁起』では二人の間に十八人の王子があり、うち八人は出家し、十人が俗界に残ったという。
三十代目天皇欽明天王の時代に白狐に乗って日本に来て、甲斐国(現在の山梨県)の「白根嵩(白根山とも呼ばれ、日本で二番目に高い北岳のことか)」に登り、兄弟がそれぞれどの山に住むかを決めたという。
第一宮栄術天狐:丹波国愛宕嶽
第二宮栄意天狐:近江国平野嶽
第三宮智羅天狐:信濃国戸隠山飯縄嶽
第四宮尊足天狐:駿河国富士山
第五宮通達天狐:加賀国白山嶽
第六宮智結天狐:紀伊国熊野大峯
第七宮命師天狐:出羽国羽黒嶽
第八宮仁命天狐:伯耆国大山嶽
第九宮飛頂天狐:下野国日光山
第十宮道足天狐:大和国金峯山
ちなみに出家した八人は震旦(中国)の天台山に住むという。
山名を踏まえて「天狗経」から補うと
第一:愛宕山太郎坊(愛宕権現)
第二:比良山次郎坊
第三:飯綱三郎
第四:富士山陀羅尼坊
第五:該当者なし
第六:熊野大峯菊丈坊
第七:羽黒山金光坊
第八:伯耆大山清光坊
第九:日光山東光坊
第十:該当者なし
となる。
「飯綱の法」
鎌倉時代前期の人物で後堀河天皇と同時代人とされる信濃国萩野の地頭・伊藤忠綱(伊藤兵部太夫)は、天福元年(1233年)に飯綱山に登り、「天狗の麦飯」のみを食べ物として修行を重ね、十数年の末に特別な力に目覚め、独自の忍法を編み出したという。
この忍術流派は「伊藤流」と呼ばれ、全国に広がり、やがて訪れた戦国時代において重宝されたという。
忠綱は自分の肝を他人のそれと入れ替え、室町幕府第4代将軍足利義持の時代まで生き延びたという。
忠綱の息子である次郎太夫盛縄も飯綱山に登って修行を行い、管狐を使役する呪法「飯綱の法」を編み出したと伝えられる。
彼は「千日太夫」を名乗り、この称号は子孫へと継承されていった。
「千日太夫」は飯綱山を中心に行われる修験道「飯綱修験」の頭の称号でもある。
「飯綱の法」は戦国時代において忍者が用いるほか、武将、武士たちもこれを求めたという。
まるで伝奇小説めいた話だが、実際のところは修験道の神秘的なイメージや、飯綱権現が戦国武将の間でも篤く信仰された事、飯綱系の忍者が武将たちに重用された事、忍者が持つ余人には理解しがたい諜報任務などからの伝聞が合わさって形成された伝説であると考えられる。
「飯綱の法」は少なくとも室町時代末期頃~江戸時代初期頃には否定的な見方が確認される。この時代に書かれたとみられる『足利季世記』では細川右京太夫政元(細川政元)が使うこの術を「魔法」と呼び、見る人はその毛がよだつ様であったと記す。
江戸時代後期の書でも、例えば『茅窓漫録』(茅原虚斎・著、天保4年=1834年・刊)では「世に伊豆那(飯縄)の術とて、人の目を幻惑する邪法悪魔あり」という書き方をしている。
歴史上の人物からの信仰
室町時代には足利義満、細川政元から、戦国時代には上杉謙信や武田信玄といった人々から信仰された。
義満は幼少期に体があまり成長しなかったのが後に解消された事と征夷大将軍着任の感謝のしるしとして当時の千日太夫に本地仏の像として延命地蔵菩薩像を寄進し、謙信は兜の全面に飯綱権現の小像をパーツとして嵌め込んでいる。
戦国時代を勝ち抜き江戸幕府の主となった徳川家によっても、上述の薬王院が保護され、飯縄権現堂等の施設造営において多大な援助がなされた。
「太平の世」と呼ばれる江戸時代においては軍神としての需要は弱まり、特に火災防止祈願の神仏として信仰を集めるようになる。