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サリエリ

さりえり

北部イタリアのヴェローナとロヴィーゴの中間にある小都市「レニャーゴ」生まれの作曲家。ヴィーンで宮廷楽長を務めていた。慈善・教育方面でも、多大な功績を残している。
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概要

アントーニオ・サリエーリ」( Antonio Salieri )

1750年8月18日生 - 1825年5月7日没


家族等

父親同姓同名アントーニオ・サリエーリであり、母親はアンナ・マリーア・スカッキ、この二人の間に生まれた10人の子供達の内、8番目に生を得た。


生涯

幼少期

教会オルガニストの職に就いていた長兄フランチェスコ・アントーニオから音楽の手ほどきを受け、続いてレニャーゴ大聖堂オルガニストであったジュゼッぺ・シモーニヴァイオリンとチェンバロ( 鍵盤楽器の一種であり、鍵盤を叩くと内部に張られた弦を爪がひっかき音を出すという仕組みの楽器 )を教わった。10歳のときから彼の音楽人生は花開いていたものの、両親を早い内に失い( 母は63年2月3日に亡くなり、父もサリエーリが七歳の時に既に商売が傾き、税金減免の嘆願書を提出するほど困窮し、いつ没したのかは文献からでも確かな情報が無い )、他の子供達と共に惨めな境遇に陥る。


波乱の境遇と人生を変える出会い

だが彼が15歳になった時、父の知人で名家のアルヴィーゼ・ジョヴァンニ・モチェニーゴがこの一家の惨状を知り、ヴェネツィアのモチェニーゴ家に引き取られた。音楽と演劇舞う美しいヴェネツィアでサリエーリは様々な音楽家に師事を仰ぎ、数奇な運命でヴィーン宮廷作曲家のフローリアン・レーオポルト・ガスマンと出会う。才能を見込んだガスマンは弟子兼アシスタントとしてサリエーリをヴィーンに招き入れる。


ヨーゼフ二世との謁見、歴史に名を残す貴族達や音楽、芸術家達に囲まれて

ガスマンは、親身かつ周到な音楽教育をサリエーリに施した。ある日、彼を神聖ローマ皇帝ヨーゼフ二世の待つ宮廷の室内楽演奏会に楽器奏者として招き入れた際、ヨーゼフ二世は兼ねてからサリエーリの事を聞かされていたため興味津々であり、彼としばらく談話したのち、難しい楽譜を初見で演奏させ、能力を試した。皇帝は上手くやり通したサリエーリに満足し、彼を演奏会に必ず連れて来る様ガスマンに命じた。その後皇帝詩人ピエートロ・メタスタージオとも出会い、後にサリエーリがオペラ作家、声楽教師として歩む技術の下地となる詩の朗読法を伝授された。さらに自らの作曲家としての在り様を変えることとなった偉大なクリストフ・ヴィリバルト・グルック( ドイツに生まれ、現在のオーストリアフランスで活躍した作曲家、この人物は特にオペラにて影響力があった )に出会う。サリエリは36歳年上のグルックを、亡くした父親のように慕い、その劇作理念に多大な影響を受けたのである。


ガスマンの死、そして宮廷作曲家への就任

当時の流行であったイタリア・オペラを中心とした作品群を次々に作り出し、成功失敗はあれど、順風万端とも言えるサリエーリの本格的な作家人生が始まった。が、1774年1月20日に恩師ガスマンが45歳で帰らぬ人となった。サリエリは師に恩返ししようとガスマンの遺族に経済的援助をし、二人の遺児に音楽教育を施した。その間、ガスマンの死で彼の兼任していた宮廷楽長と宮廷室内作曲家が空席となった事で一悶着があったが、ヨーゼフ二世は楽長の後任に、高齢のジュゼッペ・ボンノを選び、当時24にも満たぬサリエーリには何と、宮廷室内作曲家とイタリア・オペラ指揮者という極めて責任ある宮廷音楽家としてのポストが与えられた。


モーツァルトの敵視と、後の和解

サリエーリを語る上で、もはや良い意味でも悪い意味でも外す事の出来なくなってしまったモーツァルトが何時、サリエーリと面識を持ったのかは正確な時期は不明であるが、ヴィーン滞在中に受けた様々な人物からの罵倒と、あたかも自分の作家活動妨害を加えてるようにしか見えない皇帝の横槍、そして当時のイタリアびいきの風潮がモーツァルトの怒りを爆発させており、当時彼が書いた書簡にも呪詛に近い文章や、陰謀論までが頭を駆け巡ってしまっている様子がうかがえる。この非難が後に、後述する「サリエーリの陰謀論」として本当に持ち上がってしまった要因の一つでもある。


実際のところ

長年を経て、両者とも作曲家として円熟した際( この時期のサリエーリは宮廷楽長に就任していた )、プラハの聖ヴィートゥス大聖堂の重要な祝賀行事の数々でサリエーリは自分の該当作を一切使わず、中にはモーツァルトの作品を多数使用しており、むしろサリエーリはモーツァルトを高く評価していたと思われる。ある人の推測では二人はイタリア歌劇場から作品を求められず、新作オペラ発表の道を同時に閉ざされた時期に、共感関係のようなものが生まれたのでは無いのかという見方も存在する。当時、サリエーリ41歳、モーツァルト35歳、人間的・音楽的にも成長した彼らの間に敵と言う感情はもはやなかったように思え、ヴィーン劇場に彼を招待した時の模様を妻コンスタンツェに伝える手紙には以前の敵対心や憎悪でなく、ただただ自分の作品を感嘆の言葉で祝福してくれたサリエーリへの賛辞と感謝と親愛の心がこもっていた。しかし1791年12月5日午前0時55分……モーツァルトは他界してしまった。


モーツァルトの他界後

サリエリは葬儀に参列し、1793年1月2日、スヴィーテン男爵の依頼によりモーツァルトの遺作レクイエム』を初演。そしてサリエーリはモーツァルトの遺児達にも献身的であり、レクイエムについての感想は、もはや言葉では言い表せないとまで語ったという。


教育者、慈善家としての活動

サリエーリの活動は利他的な事柄が多く、ヴィーン音楽界における教育が後の世に多大な影響を及ぼしているとされ、ベートーヴェンシューベルトなどの個人教育が良い例であるが、サリエーリには、ピクシブ百科事典ですら枚挙しきれないほど弟子( 作曲者、声楽者など )が存在しする。またそれだけに留まらず、楽友協会の歌唱学校( 後のヴィーン音楽大学の前身 )設立に力を注いだ。70歳を目の前にしたサリエーリは、弟子達の作る新しい時代の変化に戸惑いと寂しさを感じてもいたが、それでも、歌の才能に恵まれた者や作曲家の卵達の後押しをし、推薦状や能力証明書も多数記述した。彼はヴィーンで働き貧困にあえぐ音楽家達の現状にも心痛めており、宮廷楽長としての地位と信用を使い彼らの提出する救済嘆願書を事実として証明し、苦しみを代弁し、救済措置がとられるように尽力したのである。


モーツァルト毒殺疑惑

1820年代のヴィーンであるスキャンダルが発生、「パクリ疑惑」とかの有名な「モーツァルト毒殺疑惑」であり、実際のところ、この陰謀論にも類似した疑惑ロッシーニをはじめとするイタリア・オペラ支持派とドイツ国粋主義者との対立が激化が原因と見られ、神聖ローマ帝国宮廷楽長を長年独占して来たイタリア人、特にサリエリが標的にされたといわれることが多いが、この説は何ひとつ立証されてはいないいわば陰謀論のようなものであり、彼もこれには堪えたらしく、弟子であったイグナーツ・モシェレスにわざわざ自らの無実を訴えたところ、かえって彼の疑念を呼び、日記に「モーツァルトを毒殺したに違いない」と書かれてしまったというエピソードがあるほどこのスキャンダルは根強く残ることとなった。


現代における扱い

この人物、特に作品はその死とともに忘れ去られていたが、かのスキャンダルの件により思い出された面があり、ロシア詩人および作家アレクサンドル・プーシキンが劇詩「モーツァルトとサリエーリ」を1830年10月26日に創作する。彼は外交官から前述のスキャンダルを聞き、事実と信じながら作家の創造性を生かして、「凡庸な作曲家の天才への嫉妬」というテーマ鮮明に打ち出した。さらにこの劇詩が引き金となって、様々な創作がなされ、これを基にロシアの作曲家ニコライ・リムスキー=コルサコフが1898年にオペラ化、1979年にはイギリスの劇作家ピーター・シェーファーにより戯曲が書かれ、それを基に1984年9月19日には映画アマデウスが公開された。フィクションと位置付けてはあるが、この映画が彼の現代における悪いイメージを確立させてしまった面もあった。


再評価

このように悪名が立ってしまったが、人物や作品に対しての再評価の動きが微弱ではあるが見受けられる。生誕250年に当たる2000年には彼の故郷レニャーゴで国際研究シンポジウムが開催され、連動する形で当地のサリエーリ劇場にて「アントーニオ・サリエーリ・フェスティヴァル」が催された。ヴィーンでも同年2月27日に宮廷礼拝堂で「サリエーリのミサ曲(ニ長調)」が演奏され、5月18日には《イエス・キリストの受難》の批判校訂版による全曲世界初録音が行われる等、記念年に相応しい企画が各地で催され、2009年からは上記のレニャーゴでサリエリ・オペラ音楽祭が毎年開催されている。


関連タグ

イタリア イタリア人

クラシック 歌劇 オペラ

  • 比屋定真帆…上述の映画の影響を思いっきり受けており、( 牧瀬紅莉栖をアマデウスとして )自身を『Salieri』としている。
  • アントニオ・サリエリ(Fate)…『Fate/GrandOrder』にて登場するサーヴァント。だが上記の暗殺伝説そして映画などを信じた多くの人物が存在した為、「アントニオ・サリエリとはこういう人物である」という想像を押し付けられ、元来の穏やかで理知的な性格を歪曲され、生前とは異なる姿、「灰色の男」伝説を根拠とした復讐者として召喚された「無辜の怪物」であり、その当人さえ、「自身は史実のサリエリとは別存在」と断じている。

外部リンク

アントニオ・サリエリ - Wikipedia

アマデウス (映画) - Wikipedia

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