概要
かつて英雄テセウスが乗った船は後世までアテネで保存されていたのだが、その保存の過程で傷んだ部分を随時交換して修復したことで、後の時代のテセウスの船にはテセウスが乗っていた当時の部品は残っていなかった。
この伝説に由来するパラドクスで、ある物体を構成する全ての部品が置き換えられた時、それが同一性を保持しているかという問題を扱う。
古い機械などをレストアした結果、純正の部品がほとんど残らなくなるのであれば、それは精巧なレプリカを造り直すのと何が違うのかという話になってくるわけである。
例えば第二次世界大戦で焼失した名古屋城は、戦後に鉄筋コンクリートで再建されたが、詳細な設計図が残されているため木造に戻すことも可能であるとされている。しかし、それで本当に戦前の名古屋城が帰ってきたことになるのかという批判が実際に挙がっている。
あるいは鉄道博物館には「弁慶号」という固有名詞の付いた蒸気機関車が保存されているが、同車は度重なる改造や荒廃に加えて共食い整備を行った形跡まで確認されており、本当にこの個体を「弁慶号」と呼んで良いものかという疑問が呈されたこともある。
もっとも鉄道の場合、「改造」の名目で老朽車両を丸ごと入れ替えてきた近江鉄道のような例もあり、「所有者が『同一』と言えば同一」とする風潮が強い。このあたりは業界ごとの慣習的なものに左右されてくる面も大きい。
発展して「人間の細胞は早い部位は一日、遅い部位でも一年以内に全て入れ替わるが、果たして去年の自分と現在の自分は同一存在であろうか、そうであるならその定義は何か?」といった思考実験が行われることもある。
これについては、「ヘラクレイトスの川」という別の名で呼ばれることもある。
川は流れ続けているため、常に違う水がそこにあるといった意味で、場合によっては同一性を争うのではなく、むしろ変わりゆくことを前提とした「諸行無常」のような結論が導き出されることもある。
他にも、メンバーの加入、卒業等変動の多いアイドルグループ、人の寿命以上の長い歴史を持つ会社や企業、入団退団の多いプロスポーツチームといったものにもこの理論が引き合いに出される場合がある。とにかく2人以上で構成される「集団」「組織」は引き合いに出されることが多い。
逆に少しずつ継ぎ足して作るタイプの「秘伝のタレ」の類は、同じ理屈で一定期間で過去に作った分を消費しきっていると考えられるからこそ、衛生的に問題が無いとされている。
そもそもそのような製法を成立させる品質管理能力に事の本質があるので、作る側も本気で製造当初の成分を保持しているとは考えていないとの指摘もある。
漫画
2017年から2019年にモーニングにて連載された東元俊哉の青年漫画。
2020年冬にTBS系列の日曜劇場枠にてドラマ化された。主演は竹内涼真。竹内としては同枠では初出演となる。主題歌は、Uruの「あなたがいることで」。概ね原作準拠だが、黒幕に共犯者がいる点等差異が生じている。
あらすじ
1989年(平成元年)6月24日に北海道・音臼村の音臼小学校で児童16人、職員5人の犠牲者を出した無差別毒殺事件。自宅から凶器の青酸カリが発見されたため容疑者として逮捕された駐在所警察官・佐野文吾は一貫して否認したものの、最高裁でも死刑判決が下り収監中である。
佐野文吾の息子の田村心は、死刑判決を受けながらも、なお無罪を主張する父親の冤罪を信じて、事件についての調査を行う。
登場人物
- 田村心(演:竹内涼真)
28年前に北海道の小学校で発生した無差別毒殺事件において逮捕された警察官である佐野文吾の息子。
死刑判決を受けながらも、なお無罪を主張する父親の冤罪を信じて、事件についての調査を行う。
- 田村由紀(演:上野樹里)
心の妻。心の過去を知りながらもそれを受け入れて結婚。心との間に第一子となる長女「未来」を授かっていた。心を事件から解放するために事件の真相を調べようとしたものの、出産の際に母体が出産に耐えきれずこの世を去ってしまった。
- 佐野文吾(演:鈴木亮平)
28年前に北海道の小学校で発生した無差別毒殺事件の容疑者として逮捕された元警察官。
死刑判決を受けて収監中の身であるが、一貫して無罪を主張している。
- 田村和子(演:榮倉奈々)
文吾の妻、心の母。文吾が逮捕された後は記者による執拗な取材、悪質な嫌がらせを受けながらも子供たちを育て上げた。その一方で、夫の無実の証明は完全に諦めており、「私たちは人様の前で笑顔や涙を見せられるような人間じゃない」「父親は最初からいないと思いなさい」と言い聞かせていた。
関連タグ
EF81…保存対象ではなかったため大きな問題にはならなかったが、90号機は廃車までの間に新造時の部品を全て失ったことで知られる。同一目的で使用されながらそのような状態に至るのは、鉄道車両でも流石に稀。
鹿矛囲桐斗…詳細はネタバレのため本タグに譲るが、彼自身がこのパラドックスの体現者といえる。