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アンドレ・ザ・ジャイアントの編集履歴

2020-06-09 04:33:20 バージョン

アンドレ・ザ・ジャイアント

あんどれざじゃいあんと

アンドレ・ザ・ジャイアント(1946年5月19日~1993年1月27日)とは「世界8番目の不思議」「人間山脈」「一人民族大移動」の異名を持つ、元外国人プロレスラー。

概要と呼ぶには巨大すぎる!

本名:アンドレ・ルネ・ルシモフorロシモフ(André René Roussimoff)。フランス・グルノーブル出身(但し、フランス北中部のクロミエという町が出生地)。全盛期は身長が223cm、体重が236kgという文字通り超巨漢で鳴らした。

圧倒的な体格もさる事ながら、それに奢らない絶妙なプロレステクニックと、高い身体能力も持ち合わせていた。


ちなみに「東洋の巨人」と言われた、ジャイアント馬場より14cmもデカイ

ただし、この公式データには異論もあり、実際の身長はさらに高かったのではないか? とも囁かれている。

新日本プロレスレフェリーで、外国人レスラーの相談役でもあったミスター高橋氏の証言によれば、とある宿泊先のホテルで、アンドレの頭が天井の照明に当たって割ってしまった。状況を確認しに来たホテルのマネージャーは割れた照明を見上げて、「アレに当たったんですか? 2m40cmはありますよ」と、文字通りのびっくり仰天だったという。

アンドレは身体の成長が止まらない一種の病(巨人症)を患っていたと言われ、身長が公式記録より伸び続けていた可能性は十分にあり得る。


(因みに出生時の重さは13ポンド《5897g》とその巨人症の前兆が窺え、そこから10代までは平均的な身長であったものの10代を過ぎて間も無く、急激に成長。12歳の時には6ft2inch《約190㎝》、240.3lb《109㎏》を記録、15歳の時には身長は6ft7inch《2m》を越えたという。また『アンドレの家系は巨人の家系であり家族は全員2m以上の身長がある』という逸話もあるが、これは明らかな虚説であり、実際は隔世遺伝と推測されるホルモン異常が原因であったと伝えている。)


生き様と呼んだら人口の辻褄が合わない!

第二次世界大戦が終結して間もない1946年5月19日にブルガリア人の父ボリス・ルシモフとポーランド人の母マリアンヌ・ルシモフの三男として生まれた(兄妹は5人いる)。父親と母親は共に東欧からフランスに移住してきたスラブ系移民だったのである(前述の出生地クロミエもまた、スラブ系の文化遺産が多く残っている事でも知られている)。


元々はフランスでもいい所のお坊ちゃん(実家は広大な農場を所持していた農家であった)で、少年時代からサッカー、ボクシング、レスリング、クリケット等のスポーツに打ち込んでいた。因みに運動神経が優れており、体重が増加する頃の前まではバック転が出来たり、体重が増えてからも水泳ではクロールで速く泳ぐ事が出来たという。また、学生の頃から大柄で、中学校へはスクールバスに乗る事が困難だった為、父ボリスの友達である隣人からトラックに乗せてもらって登校したという。

学業でも優等生であったが、14歳で地元グルノーブルの中学校を卒業(日本とは異なり、フランスでは11歳から14歳までの4年間が中学校での就学年数《ひいては義務教育も14歳まで》である)した後、「農家出身の自分には高等教育は必要ではない」と思った為か高校へは進学せず、数年間実家の農場で働いたり、木工の見習いに励んだり、ベーラー(干し草や藁を梱包する為の農業機械)専用エンジンの製造工場で働いていたという。因みに彼の兄のジャック・ルシモフの証言によれば、アンドレは「一人で3人程の仕事が出来た」という。その後、単身でパリに移住してからは家具運送会社に勤務している所を「マット界の魔術師(日本での異名)」ことエドワード・カーペンティアにスカウトされ、プロレスの世界に入る。


(因みに漫画『プロレススーパースター列伝』等にある、プロレスの世界に入る前はとして斧を振るって仕事に勤しんでいた所をカーペンティアに『発見』され、そのままスカウトされたという話は有名だが、フィクションである。但し、カーペンティア自身が無名の頃のアンドレに目を掛けてサポートをしていたのは事実である。)


18歳の時にパリでデビューした、南アフリカでデビュー戦を行ったなどフランス時代の経歴についてはよく判っていない(因みに英文版Wikipediaによれば、地元パリのプロレスプロモーターであるオベール・ラゲアの元で夜は練習に打ち込み、日中は引っ越し業者として働いて生活費を稼いでいたといわれている。またフランス平和軍から召集令状を受け取ったものの、軍服に軍靴、ベッド等、大柄なアンドレに合うものが全く無かった上に塹壕に隠れる事も不可能と見做された為か、実際に徴集される事は無かった)。デビュー当時から来日直前までは「アンドレ・ザ・ブッチャー・ロシモフ」や「ジェアン・フェレ(『巨人フェレ《Géant Ferré/Giant Ferré》』という意味であり、後述の『ジャン・フェレ《Jean Ferré》』とは異なる)」、「モンスター・エッフェルタワー」と、幾つかの名義で活動していたが、後述の国際プロレスに来日した際には国際プロレスの社長であり、元プロレスラーの吉原功から「モンスター・ロシモフ」と命名され、この名前で国際プロレスのリングに上がっていた。


1970年にカナダ・モントリオールに移住し、現地ではジャン・フェレの名で活躍した。

この頃、国際プロレスに初来日を果たす(参戦)。また、「帝王」の異名を持ち、AWAの総帥であるバーン・ガニアと出会い、北米進出の切っ掛けを掴んだ他、そのガニアから更なる多くのレスリングテクニックを学び、後の「圧倒的な体格もさる事ながら、アームロック等のレスリングテクニックでも観客を惹きつける事が出来る巨人レスラー」としての基盤を固めてゆく事になる。


1973年に、ブッキング権がガニアからWWWF(現WWE)のプロモーター、ビンス・マクマホン・シニアに渡り、契約。同時にアンドレ・ザ・ジャイアントと改名する。

しかしWWWFとは専属契約をした訳ではなく、マクマホン・シニアのブッキングでNWA・AWAはもとより、世界中の様々な団体を定期的かつ短期参戦でサーキットして回る様になる(所謂「レンタル移籍」)。これは「いつでも会える怪物」は一般層のファンにはすぐに飽きられる、というマーケティング上の都合からの判断である。そのお陰か、この世界サーキットを行っていた10年間が彼の全盛期であり、アンドレは全米の有名選手達と闘った。また各プロレス協会から一定の契約料を得た為、1974年のギネスブックでは「年俸世界一《40万ドル》のプロレスラー」としてアンドレは掲載された。


尚、1974年当時は1ドル=300円であり、当時の日本円に換算すると1憶2000万円(現在の金額に換算すると推定で10億~12億円)をアンドレは稼いだ事になる。また、その当時野球(特にMLB)やサッカー等のスポーツでも億単位程の年俸を稼いだ選手は滅多にいなかったと言われている。


更にその同年、WWWFと提携していた新日本プロレスに本格参戦。新日本プロレス創設者であり、当時社長であったアントニオ猪木との抗争も始まった。1974年3月15日に岡山武道館で行われた猪木との初のシングルマッチでは、当時アンドレのマネージャーだったフランク・バロアがロープに飛んだ猪木の足を取ってダウンさせ、アンドレがジャイアント・プレスでフォール勝ちを収めた。以降の対戦では、猪木が掛けたキーロックをアンドレが軽々と持ち上げる、アンドレが掛けたカナディアン・バックブリーカーを猪木がロープを蹴って返しリバース・スープレックスで投げる、というムーブが見せ場として定着。

更に猪木がウィレム・ルスカ(柔道家で、ミュンヘン五輪柔道無差別級の金メダリスト)や当時の世界ヘビー級王者であるボクサーのモハメド・アリとの対戦で異種格闘技戦をスタートさせた1976年の10月7日には、蔵前国技館にて「格闘技世界一決定戦」と銘打たれた両者のシングルマッチが行われた(この時はアンドレの額が割れて流血が止まらなかった為、ドクターストップで猪木の勝利となった)。


因みにアンドレは1976年6月26日(アントニオ猪木とモハメド・アリの一戦が日本武道館で行われた日)にWWWF主催興行である「ショーダウン・アット・シェイ」(1972年から1980年までニューヨークのシェイ・スタジアムで行われたプロレスや異種格闘技のビッグマッチ)の一戦で世界ヘビー級ボクサーのチャック・ウェプナー(映画『ロッキー』の主人公・ロッキー・バルボアのモデルとなった人物)と異種格闘技戦対決を行い、1R3分15秒で場外に投げ落としてリングアウト勝利を収めている。


猪木の保持していたNWFヘビー級王座には、1974年12月15日にブラジル・サンパウロのコリンチャンス・スタジアム、1977年6月1日に名古屋の愛知県体育館にて、2度にわたって挑戦。猪木が坂口征二とのコンビで戴冠していたNWA北米タッグ王座にも、ロベルト・ソト、トニー・チャールズ、ザ・プロフェッショナル(ダグ・ギルバート)など、パートナーを代えて3回挑戦している。


また新日本参戦して間もない頃は、それと同時に愛着のあった国際プロレスにも特別参加した事がある(またこの時期に、ラッシャー木村が当時保持していたIWA世界ヘビー級王座決定戦《1979年7月》に挑戦している)。また、新日参戦時期には伝説のスタン・ハンセンとの「田園コロシアムの一騎打ち」を抜きにしては語れない。


因みに新日本プロレスに参戦していた頃は1981年12月10日に第2回MSGタッグ・リーグ戦の優勝決定戦で、同じくフランス出身のレスラーであり、主に「参謀役」として活躍したレネ・グレイをパートナーに大阪府立体育館にて猪木&藤波辰巳を破り、優勝。1982年4月1日には蔵前国技館にて第5回MSGシリーズの優勝決定戦でキラー・カーンを下し、制覇している(新日本のシングルのリーグ戦における外国人選手の優勝はこれが初めて)。


新日本プロレス参戦時のアンドレは、前述のジャイアント馬場をも凌ぐ巨体と圧倒的な強さから、専らヒールの扱いで、本人もそれを受け入れ、かつ意識してファンを遠ざけていた(※)が、一方で一種の“愛嬌”も持ち合わせており、登場時に花道以外での通路から出て来てファンを驚かせたり、試合中もしくは試合後に観客席に着席したり、後に“世界最大のマスクマン”、ジャイアント・マシーンをノリノリで演じている(話を持ちかけたミスター高橋氏は、プライドの高いアンドレ故に断られる事を覚悟していたが、アンドレがマスクを見るなり大喜びした上に早速被って『どうだい、ピーター(ミスター高橋の愛称)? 似合うかな?』とポーズを取る等、あまりのノリの良さに、逆に面食らったとか。因みにこの時のマスクはバイクのヘルメットから採寸を取った為にアンドレの頭とフィットしていなかったが、後にアンドレ本人の承諾を得てアンドレの頭部から採寸を取り、改めて作成したマスクを被ってリングに上がっている)。


(※)(また「日本人嫌い」というイメージが損なわれない様に新日本時代の中盤頃からはサイン等のファンサービスはほとんど行わず《プライベートでもファンがサインを求めに来ると『Get awey!!』『Get out!!』(どちらも『出て行け!!』)と、また試合中にファンがアンドレに応援すると喜ぶ処か逆に『Shut Up!!(黙れ!!)』と怒鳴ったり、マスコミの取材に応じる事も少なかった上に、挨拶の際に渡した名刺の枚数も数えられる程であったという。但し、元々は親日家であり、国際プロレス時代や初期の新日本時代には気さくにファンとの撮影に応じたり、新日本プロレスでの活動が終わりに差し掛かった頃、ミスター高橋にアンドレ自身のサインと手形、足形をプリントしたシャツをファンの為に販売する等のビジネスを持ち掛けたり《ミスター高橋によるとこのビジネスは実現はしておらず、原本となるアンドレのサインや手形足形の色紙はミスター高橋の自宅に仕舞いっ放しになっているとの事》、後述する全日本プロレス時代には馬場とタッグを組んだりする機会が多い為に自然とベビーフェイスに転じ、『アンドレコール』が起きれば笑顔で応じたり、コールの際にはファンに向けて二本指を立ててアピール、花束贈呈の際は受け取ると即座にブーケトスの様に後方の観客席に向けて花束を投げてプレゼントする等の計らいを見せる様になった。)


1984年、ビンス・マクマホン・ジュニアのWWF全米進出計画が始まるとベビーフェイス陣営の主要メンバーとしてサーキットに参加、以降は退団する1990年までWWF専属選手となった。またアメリカではアンドレは絶対的なベビーフェイスの存在であったが、1987年にヒールターンして長く抗争を続けていたボビー・ヒーナン率いる「ヒーナン・ファミリー」に加わり、第3回レッスルマニアでは嘗ての盟友だったハルク・ホーガンと初めてWWF(WWE)世界ヘビー級王座を賭け、激突した(但し、ホーガンがまだWWFに入って暫くはヒールであった頃にもアンドレは《前述のショーダウン・アット・シェイ(1980年8月9日)を含めて》アメリカ、日本等でもホーガンと数戦交えている)(※)。


因みにこの時のレッスルマニアでは9万3173人もの観客動員数を記録(後に2010年にカウボーイズ・スタジアムにて行われたNBAオールスターによる10万8713人という記録に更新されるまで、世界のインドア・スポーツのイベントにおける過去最高の観客動員数であった)。普段は滅多に自慢等をしないアンドレはこの観客動員数を関係者から聞いた時、「ローリング・ストーンズのコンサートを超えたな。」と口にしたという。


そして第3回レッスルマニア以降もホーガンとはスチールケージマッチ等で対戦したり、デビアスと前述の「メガ・バックス」コンビでホーガンとランディ・サベージがコンビを組んだ「メガ・パワーズ」のタッグ戦でも干戈を交えている。


(※)結果としては前半にホーガンをほぼ一方的に攻めるものの、後半から「ハルク・アップ」を見せたホーガンに逆襲され、ボディスラムで投げられた上にとどめのランニング・レッグドロップをまともに受けてアメリカでは史上初のピンフォールを奪われてしまったが、翌1988年2月5日の"The Main Event"でもホーガンと再戦。結果としてはまたしてもホーガンからランニング・レッグドロップからのピンフォール負け……、と思いきや当時「メガ・バックス」として組んでいた「ミリオンダラー・マン」ことテッド・デビアスと黒人ボディガードの「バージル」ことマイク・ジョーンズがレフェリーと口論に持ち込んでカウント妨害を働き、フォールを解いたホーガンがレフェリーに『カウントを取れ!!』と詰め寄っている隙にアンドレが逆襲。ヘッドバッドを加え、フロントネック・チャンスリードロップを仕掛けて逆にホーガンからピンフォールを奪い(因みに単に身体を覆い被せるだけの体固めでフォールを奪うのが大抵だが、この時のアンドレは本気でガッチリと体固めを仕掛け、ホーガンからフォールを奪いにかかっていた)、晴れてWWF世界ヘビー級王座に輝いた(※2)。


(※2)尚、この直後にアンドレはデビアスにベルトを売却しており(一応はこの時点でデビアスにWWF世界ヘビー級王座が移行されている扱いだが、当然正式には認められていない。但し、一方でアンドレのWWF世界ヘビー級王座は正式に認められている)、当時のWWF会長であるジャック・タニーがデビアスのWWF世界ヘビー級王座を無効として、防衛戦を一度も行われる事無くベルトを剥奪されている。また、デビアスは正式にはWWF⇒WWE世界ヘビー級王座には1度も輝いてはいないものの、当時「IRS」と名乗っていたマイク・ロトンドとの『マネー・インコーポレーテッド』コンビでWWE世界タッグ王座に3度輝いている)。


しかし、この頃から急増した体重を起因とする膝や腰の痛みに悩まされ始め、全盛期の動きの切れは徐々に失われて行った。加えてハルク・ホーガンの後継者として期待されているアルティメット・ウォリアーの売り出しとしてリングに上がっては連敗を重ねたり、「蛇嫌い」という設定が加えられてジェイク・”ザ・スネーク”ロバーツとの抗争を繰り広げる等が主となった(但しその間にも「ヒーナン・ファミリー」の一人である「南海の暴君」の異名を持つキング・ハク《元力士として、朝日山部屋に所属して『福ノ島』という四股名で大相撲の土俵に上がった事がある、トンガ出身のレスラー。大相撲時代の最高位は幕下27枚目だが、これからという時に朝日山親方《元前頭2枚目の二瀬山勝語》の死去を切っ掛けに起こった部屋騒動《トンガ人力士廃業騒動》を機に廃業している》とのコンビ「ザ・コロッサル・コネクション」で「ザ・デモリッション」(アックス《正体はビル・イーディー。日本では『流星仮面』の異名を持つ覆面レスラー『マスクド・スーパースター』として生涯の殆どのリングに上がった事で知られている人物。また、『スーパー・マシン』としてマシン軍団に入り、『ジャイアント・マシン』の頃のアンドレとタッグを組んでいた事でも有名》とスマッシュ《正体はバリー・ダーソウ。後に『リポマン』というヒールレスラーとしても一世を風靡した人物》)との試合(1989年12月13日)に勝利して、WWF世界タッグ王座を獲得している)。


そして体調不良のため1990年にWWFを退団するが、その直前にWWF、新日本、全日本の共同開催で行われた「日米レスリングサミット」でジャイアント馬場と出会い(因みにアンドレと馬場は過去に1980年にはハワイで、更には1982年にフロリダでもバトルロイヤルにて遭遇しており、特に後者は日本のマスコミから大々的に報道されている)、タッグを組んでWWF世界タッグ王座に返り咲いていた(※)ザ・デモリッションと対戦して勝利を挙げる(因みに試合後、アンドレは『馬場さんとタッグを組むのは楽しい』とコメントしている)。また、この日米レスリングサミットを機にアンドレは全日本プロレスに移籍。その後、更に増した身体の痛みにより試合を行う機会は減少したが、最後の主戦場とした全日本プロレスにおいては、主にジャイアント馬場とのタッグ「大巨人コンビ」で活躍。またその全日本では前述の田園コロシアムでの一戦等を交えたスタン・ハンセンと、国際プロレス以来の親友やライバルだったマイティ井上ラッシャー木村との再会を果たし、共に喜びを分かち合った。


(※)1990年4月1日の第4回レッスルマニアでザ・コロッサル・コネクションから奪回。この試合後、アンドレがリングロープに固定されて動けなくなり、キング・ハクが狙い撃ちにされて負けた事に憤慨したボビー・ヒーナンがアンドレを激しく非難。言い訳に一切耳を貸さず、一方的に捲し立てるヒーナンの態度に怒ったアンドレがヒーナンを叩きのめし、「ヒーナン・ファミリー」から脱退している(加えて仲間割れで襲ってきたキング・ハクもアンドレは返り討ちにしている)。その経緯もあってアンドレとザ・デモリッションには少なからず因縁がある。


1990年と1991年に世界最強タッグ決定リーグ戦には馬場と共に出場し、1990年はトップを走っていたもののドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンクの兄弟コンビ「ザ・ファンクス」との一戦の際に馬場が場外に転落した際、左大腿骨を亀裂骨折した為にリタイヤ。結果は同率3位に終わったものの、1991年には常時出場して準優勝を果たしている。しかしコンディションが更に悪化した為、1992年からは馬場やラッシャー木村のファミリー軍団に加わり、悪役商会との「明るく楽しいプロレス」が中心となった。しかし、10月21日に日本武道館で行われた全日本プロレス創立20周年記念試合(馬場&ハンセン&ドリー・ファンク・ジュニアvsジャンボ鶴田&アンドレ&テリー・ゴディ戦)では、アンドレvsハンセンの対決が再び実現。最早トップロープを跨ぐ事が出来なくなる程、アンドレの動きは全盛期とは程遠かったものの、ハンセンのウエスタン・ラリアットを喰らっても倒れず、ロープにもたれる程度に踏み留まってみせる等、最後の最後まで怪物ぶりを見せつけた。


全日本、ひいては日本での最後の試合は1992年12月4日日本武道館、馬場・アンドレ・ラッシャー木村のトリオで六人タッグマッチ(vs大熊元司永源遙渕正信)で、アンドレが大熊をロープを持ち支えてのヒップドロップでフォールした。奇しくもこの試合は、フォールされた大熊の最後の試合でもあった(大熊はこの試合から23日後の12月27日に、現役のまま急性腎不全の為に逝去)。


父親の葬儀へ出席するために帰国していた翌1993年1月27日、急性心不全(鬱血性心不全)の為にパリのホテルの自室で死去(享年46歳)。長年に渡る過度の飲酒(全盛期はビールだが、体重の増加を意識し始め、レスラー後期から晩年はワインを愛飲していた)と、後年に殆どトレーニングしなかった事が原因と言われている(因みに酒の場合は好んで飲んでいた他、前述の体重増加による膝と腰の痛みを紛らわせる為でもあったという)。無論、巨体ゆえの心臓への長年の負担も、命を縮める一因となったのは間違いない。


遺体はアンドレ自身の遺言に従い、荼毘に付された。埋葬が一般的な欧米人としては珍しい例であった。弁護士に渡した遺書には「死後48時間以内の火葬」が指示されていたが、パリにはアンドレの巨体を荼毘に付せる設備がなく、やむなくそのままアメリカに移送された(因みに荼毘に付された後、アンドレの遺骨は普通の骨壺には収まり切れず、大型の段ボール箱で漸く収まったと言われている)。またアンドレの遺灰(此方も何と重さは7.1㎏にもなったという)は、彼が晩年プライベートで多くの動物達と過ごす為に買い取った、ノースカロライナ州エラーブにある広大な牧場に散布された。


後に生前の功績を称え、WWE殿堂入りの第一号レスラーとなった。


ファイナルファイトシリーズの敵キャラのアンドレ(後のヒューゴー)のモデルでもある(※)。


(※)その他にもグラップラー刃牙安藤玲一(主人公・範馬刃牙の父親である範馬勇次郎の旧友である人物)、キン肉マンに出て来る怪獣アポロ・ザ・ジャイアントカラテ地獄変牙オーレ・ザ・ジャイアント(主人公・牙直人の師匠である大東徹源《こちらは極真空手の総帥である大山倍達がモデルである》と対決したプロレスラー。風貌がアンドレそのものである)がアンドレのモデルになったり、他にも三年奇面組(後にハイスクール!奇面組では一応高校プロレス同好会の部員に『アンドレ』なる人物が登場している)や1・2の三四郎浦安鉄筋家族といった漫画でもアンドレを取り上げられた事がある。


世界8番目の得意技

ジャイアント・プレス

一般的にいうところのボディプレスなのだが、アンドレの巨体が全体重をかけて相手を押し潰す様は圧巻の一言。ここぞという時の決め技として使用され、実質アンドレ最大のフィニッシュ・ホールドといえる。ジャンプして見舞う時と、両膝を付いて相手に倒れこむ時の2通りがある。但し自身への負担が大きく、1982年頃から使う頻度が大きく減った。


ヒップドロップ

ヒップドロップといえば繋ぎ技として扱われる事が多いが、プロレス界においても突出した巨躯を誇ったアンドレが放つそれは、充分にフィニッシュ・ホールドとして通用する破壊力を持っていた。この体勢からフォールを狙う場合も多い。相手がタフかどうかで飛ぶ高さを決めており、「高く飛んだ相手はタフさを認めたものだ」とアンドレは語っている。


ヒッププッシュ

相手をコーナーに追い詰めた後、相手やコーナーに背中を向ける形で覆い被さり、勢いを付けて相手に尻を突き当てる。コーナーとアンドレの巨体に挟まれる為、相手は逃げ場がなく、また受けるダメージも大きい。タッグマッチの際は、相手を2〜3人まとめてコーナーに追い詰め、この技を繰り出す事もある。またこの技を繰り出した後、相手をコーナーに押し付けたまま放屁して更に相手を苦しめる事もあったという。


フロント・ネックチャンスリー・ドロップ

相手の首を正面からロックし、後方へ反り投げる技。決して簡単な技ではなく、アンドレのレスリングセンスの高さが垣間見える。なお、第5回のMSGシリーズ優勝決定戦では、この技をフィニッシュに繰り出してキラー・カーンから、そして前述のWWF世界ヘビー級王座を賭けた一戦ではハルク・ホーガンからフォールを奪っている。


ハイアングル・ボディスラム

相手を高々と担ぎ上げ、勢いをつけてマットへ叩き付ける技。ずば抜けた長身から繰り出すため、ボディスラムとしては破格ともいえる威力を誇っていたが、体重が増加した1980年代中頃から使う頻度は減少していった。


エルボー・ドロップ

寝た状態の相手に向かって倒れこむ様に肘を落とす。体重が増加してからは使用頻度が減ったが、晩年の全日本プロレス登場時には馬場の十六文キックで倒れた相手に倒れ掛かるようにこの技を繰り出し、そのままフォールするのが大巨人コンビ定番のフィニッシュムーブだった。


カウンターキック

ジャイアント馬場の十六文キックに対抗して「十八文キック」と呼ばれていた。また、当時「ワールドプロレスリング」の実況であった古舘伊知郎は1983年頃から仏製対艦ミサイルのイメージからこの技を通称で「人間エグゾセミサイル」と呼んだ事もある(それまでは『ダイナマイトキック』とも呼んでいた)。


ネックハンギングツリー

相手の首を両手で捕らえ、その体勢から腕力で持ち上げる事で首を絞め上げる。その長身を生かしたリフトは驚異的な高さに達し、抜群の説得力を持つ技であった。


ツームストーン・パイルドライバー

来日前からの得意技であり、初期のフィニッシュ・ホールド。1972年に「密林王」の異名を持つターザン・タイラーとの試合で使用した際、タイラーの首の骨を折ってしまってからは封印している(尚、正確にはタイラーの怪我は頸椎損傷だが、それでも医師からは『もうプロレスを続けるのは無理だろう』と言われたほど深刻であったという。後にタイラーは翌1973年にリハビリ等の甲斐あって奇跡的に復活を果たすが、往年の実力は遂に戻せないほど影響は大きかったという)。しかしドリル・ア・ホール・パイルドライバー(特に相手のタイツを掴んだ状態で繰り出す『バディ・オースチン式』のもの)は、エキサイトした余りアントニオ猪木キラー・カーンに見舞った事がある。


ヘッドバット

「ジャイアント・ヘッドバット」とも呼ばれる頭突き。アンドレが放つ頭突きは、長身を生かして相手の脳天付近を狙うものであり、しばしば「二階からのヘッドバット」と称された。また、ジャンプすることでさらに落差を付けるバージョン、倒れている相手に対して頭から倒れ掛かるバージョンもあり、その場合は「ジャイアント・スクワッシュ」という技名で呼ばれた。

因みに当て損ねなのか、わざとなのかは不明だが、ヘッドバットを繰り出した際、やられた側ではなく、仕掛けたアンドレの方が痛がる事もあり、その場面が「アメトーーク」でもアンドレを紹介する際に放映された事がある(アメトーークの時はジャイアント・マシーンに扮してアントニオ猪木と一戦を交えた時が映し出されている。因みにこの時、痛がるジャイアント・マシーンを見て猪木が必死に笑いを堪えている所も映し出されていた。加えて前述の田園コロシアムの一戦でもハンセンにヘッドバットを見舞った後、アンドレが痛がる場面はしっかりと『ワールドプロレスリング』で放映されている)。


ベアハッグ

長い両腕を利用して、相手の胴を強烈に絞め上げる技。お気に入りの技だったらしく、試合で度々使用していた。またその巨体ゆえ膝を付いた体勢で繰り出す事もあった。


ショルダー・ブロック

ショルダー・タックル。相手をコーナーに追い詰め、勢いよくダッシュして繰り出すか、またはヒッププッシュ同様、両手でセカンドロープを持って相手の逃げ場を封鎖して、肩口を相手のボディに突き当てる技。後者は体重が増加してから使用し始めた(タッグマッチの際には寺院の梵鐘を撞木で突き鳴らす感じで相方に腰を持ってもらい、引いて反動を付けて繰り出すこともあった)。ちなみに古舘伊知郎はこの技を別名で「人間圧殺刑」と呼んだことがある。


ジャイアント・ボンバー

ラリアット。ジャイアント・マシーン変身時、フィニッシュとして繰り出していた。坂口征二からフォールを奪い、若手のレスラーを失神させた事もある。また、田園コロシアムでの一戦では、マネージャーのアーノルド・スコーランから手渡されたサポーターの装着を許可しないミスター高橋に対して怒り、彼をロープに降った際にこの技を繰り出し、文字通りの病院送りにして反則負けになった。


クロー

ショルダークローやストマッククローなど、巨大な手で体の一部を鷲掴みにしていた。


ストンピング

所謂「踏み付け」。大抵のレスラーは蹴る様な踏み付けを仕掛ける事が多いが、アンドレの場合は片足、もしくは両足で相手の腹部か背中に乗る事が多く、主に体格が大柄の相手(ゴリラ・モンスーンハルク・ホーガンキラー・カーンオットー・ワンツマスクド・スーパースター高野拳磁等)に仕掛けている。それでも見ている方にしてみれば、ずば抜けた体格のアンドレが相手の上に乗っている様は、まさに「拷問」そのものである。


アトミック・ドロップ

スタン・ハンセンやバグジー・マグロー等の巨漢を軽々とリフトアップしたこともある。落差がある事から一撃必殺の技ともなった。


ダブルアーム・フェイスバスター

アントニオ猪木戦で披露した技で現在でいうペディグリーに近い技。屈んだ相手の両手首を掴んで背中方向へ引っ張り上げ、体重を乗せて顔面から叩きつける。


弓矢固め

全盛期、特に新日本プロレスに参戦して間もない頃に使用した得意技で、アントニオ猪木等のレスラーを苦しめた事もある。かなり高等なテクニックを要する為、アンドレが非常に手強い事を印象付けた技とも云える。


アルゼンチン・バックブリーカー

国際プロレス時代にマイティ井上からギブアップを奪った事がある。


各種関節技

ヘッドロック、アームロック、レッグロック、トゥホールド等の関節技。特にアントニオ猪木戦で多く仕掛けているが、田園コロシアムでの一戦ではスタン・ハンセンのウェスタン・ラリアット封じの為にアームロックを仕掛けている場面が多く見られる。


ジャイアントネルソン

見出し画面に掲載されている技がまさにそれ。座っている状態の相手の両腕を掴み、それを相手の首に巻き付けて締め上げる技。その際、片膝を相手の背中に当てて威力を増大させ、且つ逃げられない様にしている。新崎人生の「極楽固め」に似ているが、向こうの場合は相手が俯せの状態でキャメルクラッチの要領で仕掛けている辺りが相違点(加えて技の名前に『ネルソン』とあるが、通常のネルソンホールドは両肩、若しくは片方の肩関節と首関節を固め、抑え付けて痛め付けるのに対して此方は抑え付け、締め上げている所に大きな違いがある)。1974年の蔵前国技館で行われた「格闘技世界一決定戦」(見出し画面はこの時の一場面をモチーフにしている)で坂口征二をこの技で大いに苦しめた他、アントニオ猪木にも度々仕掛けている。

またこの「格闘技世界一決定戦」で解説を務めたプロレスラーの遠藤幸吉が、この技の命名者でもある。


また技ではないが、トップロープとセカンドロープの間に両腕を絡める独自のムーブを持っている。明らかにアンドレ自身が故意に腕を絡めているのだが「アンドレの巨体によってロープがたわむハプニングで腕が絡まってしまった」と見るのが礼儀。両腕が塞がれているためアンドレは身動きが取れず、対戦相手がアンドレに向かっていくが逆にカウンターキックを見舞われてしまうのが一連の流れ。因みに、相手にカウンターキックを放った後、いとも簡単に両腕をロープから外す。タッグマッチではこれで身動きが取れない間にパートナーがフォールを奪われる、という流れになる。(※)


(※)2020年現在では、生前のアンドレに匹敵する体格を持つWWEの大型選手グレート・カリ(『ジャイアント・シン』として日本のリングに上がった事もある)、ビッグ・ショーも、試合でこのロープに絡まるムーブを度々披露している。ちなみに元新日本プロレスのレフェリーであったミスター高橋は試しにそれを実践してみた事があるが、ロープが固く腕に巻きついて腕が折れそうになり、とてもではないが出来なかったという。このムーブはアンドレ並の巨体を持った者のみに可能なものだった。


人間エピソード山脈

  • その巨体ゆえに投げ技をかけられる事はほとんど無かったが、ハルク・ホーガンスタン・ハンセンハーリー・レイスローラン・ボックエル・カネックブラックジャック・マリガンブッチャー・バション(『狂犬』の異名を持つマッドドッグ・バションの実弟)、ジャイアント・キマラ(初代の方で、主に『カマラ』のリングネームで知られている)、アルティメット・ウォリアー等のレスラーによってボディスラムで投げられている(マリガンは日本では報じられることはなかったが、1982年9月18日、WWFのフィラデルフィア大会における6人タッグマッチでアンドレを投げている)。日本人で成功したのはアントニオ猪木、長州力ストロング小林(後に『ストロング金剛』としてもタレントで活躍)の3人のみである。アンドレをボディスラムで投げる事がレスラーのステイタスだった時期もあった。尚、ブルーザー・ブロディもオーストラリアで投げたというが、これは非公式記録となっている。カール・ゴッチはモンスター・ロシモフ時代のアンドレをジャーマン・スープレックスで投げ切っており、これがスープレックス技でアンドレを投げた唯一の記録とされている(※)。なお、アンドレ自身は「俺は気心の知れた奴にしかボディスラムを許さなかった」とハンセンへ語っていたといい、ハーリー・レイスは投げる時にアンドレが自分に「早くしろ」と囁いたと坂口憲二に語っていた。新間寿の回想によると、猪木に投げられた時は「私はそこにはアンドレの思いやりがあったと思っている」との事 。これらの証言から踏ん張った状態のアンドレを本当に投げることのできたレスラーがどれだけ居たのかは不明。(※)因みに一本背負い気味の投げ技をも含めると、前述の田園コロシアムの一戦でハンセンに、1975年のテネシー州チャタヌーガで行われた試合でビッグ・バッド・ジョンに投げられた事になる。

  • ベースボール・マガジン社発行の『プロレス異人伝 来日外国人レスラー・グラフィティ』の「外国人係は見ていた」の項にてインタビューを受けたタイガー服部によると、アンドレは前述のヒッププッシュを繰り出す際(また、リングインの際)によく屁を放っていたそうで、その臭いはリング内の選手やレフェリーはおろか、リング外にいるカメラマンや若手選手、リング最前列から10番目くらいの観客にまで届いたという。キラー・カーンもアンドレの屁をヒッププッシュの際に受けた事があり、「形容し難い臭いだった」と述べている。またWWFで抗争していたジェイク・ロバーツもある試合で倒れている所をアンドレに顔の上に座られて屁をぶちかまされた事があり、「ジャイアントのおならは異様な時間を持つんだ。少なくとも30分は臭いが消えなかったよ」とコメントしている。これについては、朝日新聞2015年(平成27年)5月2日土曜日 beランキング、記憶に残る昭和の外国人レスラーの人気アンケートでアンドレは5位に入り、プロレス取材歴が半世紀におよぶ門馬忠雄が外国人レスラーの最高峰に推しているが「彼には異界から来た者のオーラがありました。驚いたのは来日するたび、身長も体重もでかくなっていたことです。 年の体重は280(キロ)を超えていたでしょう。ワインをケースごと飲み干し」というエピソードと共に「ゆで卵は一度に20個も食べるので、出す方も怪物じみていて、おならは鼻がひん曲がるほど臭かった」と語る(一方で度々桃のジュースを10ℓ飲む事もあったそうで、妙に仄かな甘い香りも混ざっていたとも言われている)。記事は「時には試合中でも暴音とともに放たれた悪臭は、リングサイドをも阿鼻叫喚の地獄に一変させる、狂気の最臭兵器となった」と締めくくっている。

  • キラー・カーンによれば、引退した後にスタン・ハンセンやハルク・ホーガンと話した際、双方がアンドレは彼らをうまく持ち上げてくれたと証言し、アンドレには感謝しており、「あれほどのレスラーはもう出てこないだろう」と発言していた、とされる。キラー・カーン自身は「相手の良い所を出させてあげて試合を盛り上げる。一流中の一流」とコメントしている。

  • マネージャーを務めたアーノルド・スコーランによるとかなりのアイデアマンで、日本で大巨人伝説がマンネリ化し始めて来た頃、レスラー以外の人間を襲撃するというアイデアを自ら猪木に提案した。その際に襲撃されたのは気心の知れたレフェリーのミスター高橋やリングアナウンサーの田中秀和ら新日プロのスタッフであり、決してファンや一般人には手を出さなかった(但し、エキサイトするあまり、花束贈呈の女性をリングから引き摺り下ろしたり、マネージャーの若松からを借りてブンブン振り回しながら花道を進み、その鞭があわや一人の観客に直撃しかけた《実際は頭上を掠めた程度で済んだ所が『ワールドプロレスリング』内で映し出された》事もある)。

  • マイティ井上とは海外遠征を含む、若手時代から親友の間柄であった。本名については、井上が見たアンドレのパスポートには「アンドレ・レネ・ロシモフ」と書かれていたというが「アンドレの本名は『ジャン・フェレ』だ」と雑誌インタビューでは答えている(この名前はカナダに渡った頃のリングネームであり、本名ではない)。また井上はレスラーとしてのキャリアが初期の頃はフランス語は話せなかったものの、何故かアンドレの話す事だけは理解が出来、それが為にアンドレとは生涯に渡っての親友、ひいては全日本プロレス時代の良き話し相手になった。アンドレが新日本と提携していたWWFに転戦した後も親交は続き、国際へ特別参加した際も、井上は「WWFは大丈夫なのか? 怒られるだろ? ギャラも高いだろ?」と問い正したが、アンドレは「マクマホン・シニアの許可はもらった。ギャラは幾らでもいい」と答え、国際への特別参戦が実現した。井上と国際の吉原功社長がモントリオールを訪れた際には、日本での恩返しとして、アンドレが井上と吉原の食事代を負担したという。

  • またマイティ井上は、アンドレは生涯独身を貫いたと言われているが、実際にはアンドレに内縁の妻がいた事、娘も一人いた事を明言している(フランスでは結婚手続きが煩雑であるが故に正式に結婚をせず、内縁で通したとの事)。因みに、娘の名前は「ロビン・クリステンセン・ロシモフ」と言い、1979年に生まれた。彼女はアンドレの没後、アンドレの遺言で遺産の相続人となった他、アンドレの伝記映画「André the Giant: Closer the Heaven」の制作にあたってアドバイザーの一人として参加している。

  • 尚、アンドレはロビンが生まれた頃は世界中を飛び回っていた為、娘の事を知る機会があまり無かった上に、ロビンもまた父アンドレの顔を殆ど知らなかった模様で、ロビンが10歳の時にアンドレが晩年の自宅であるノースカロライナ州エラーブの牧場に招待するも、ロビンは実の父親と一緒に過ごす事に喜ぶ所か逆に「よく知らない巨人と遊ぶのは嫌だ」と頑なに拒否した為、結局は父親の牧場に行く事は無かったという(但し、親子で一緒に映っている写真は何点か現存している)。

  • 国際プロレス時代の縁から若松市政(後の将軍KYワカマツ)がジャイアント・マシーンのマネージャーに起用された。アンドレは若松に恩義を感じており、若松がニューヨークを訪問した際、高級レストランに招待し、更には「WWFでマネージャーとして登場するつもりはないか?」と勧誘した。

  • 現役時代からカーリーヘアのを着用し、リングに上がっていた。これはより一層巨大感を表現させるために着用していたという。ただし後年はカーリーヘアーの鬘を外し、地毛のパーマヘアーで闘っている(これについては1984年のWWFでの髪切りタッグマッチ《アンドレ&S・D・ジョーンズvsビッグ・ジョン・スタッドケン・パテラ》でスタッドとパテラが早々に徹底した反則技やルール無視の攻撃等を繰り出してアンドレを失神に追い込み、スタッドとパテラ、そしてリング下に控えていたマネージャーのボビー・ヒーナンが加わり、彼等が無残にもアンドレのカーリーへアーの鬘を切り刻んだ為に、一切鬘の装着をやめたと言われている)。

  • 前述の「日本人嫌い」のイメージの為にアンドレは日本人ファンを遠ざけていたというが、これは「スターがファンに近付き過ぎてはいけない」というアンドレ自身の哲学からファンサービスを好まなかったとミスター高橋は後年語っている。

  • レスラー、プロレス記者、団体バス運転手など、アンドレには日本人の友人知人が多くいたが、黒人に対しては嫌悪感を隠さなかったと言われる。バッドニュース・アレン(アレン・コージ)がアンドレの差別発言に激怒し、ホテルの屋上にアンドレを呼び出し「謝らなければここから突き落としてやる」と言って謝罪させたという逸話がある(試合後のある日、ホテルに帰るバスの中で映画の「ロッキー」を見ていた最中、アンドレが差別的な発言をしていたのをアレンが注意するも、アンドレが未だに差別発言を止めなかった事にとうとうアレンが立腹したのが原因と、ミスター高橋のブログに記載されている)。しかし、黒人レスラーのアーニー・ラッド(『黒い毒グモ』《日本での異名》や『The Big Cat』の異名で活躍した、身長206㎝のレスラー)とは親友同士で、両者は北米各地で抗争を展開出来る気心の知れた仲だった。同じくMSWA、WCCW、WWFなど各団体で抗争を繰り広げたカマラ(前述の初代ジャイアント・キマラ)もアンドレの事を称えている(カマラのWWF入りはアンドレの仲介によるものだったという)。また、アイスマン・キング・パーソンズS・D・ジョーンズジャンクヤード・ドッグトニー・アトラスなど、WWFや南部エリアでアンドレのタッグ・パートナーを務めた黒人選手は数多い。ロッキー・ジョンソンの息子のザ・ロック(俳優としては本名の『ドウェイン・ジョンソン』として活躍している)も、子供の頃にアンドレに可愛がってもらっていたという(ロックの自著『The Rock Says』には、アンドレに抱き上げられた少年時代のロックの写真が掲載されている)。

  • 前述の通り「ジャイアント・マシーン」としてマシン軍団に加入していた頃、タッグではスーパー・マシーン(マスクド・スーパースター)と共に組む事が多かった。因みにジャイアント・マシーンの正体は公然の秘密となっている(無論バレバレである)が、相方のスーパー・マシーンについてはWWFオフィシャル発表では「北海道生まれの日本人」という事にされていた。それに伴ってアンドレもWWFのプロモーション用のインタビューではスーパー・マシーンに合わせて珍妙な日本語(新日本プロレスでのマネージャーである若松市政《将軍KYワカマツ》の事を片言で『ワカマツサン』と呼ぶ等)を話したり、御辞儀をしたり等をしていた。(※)因みにジャイアント・マシーンとスーパー・マシーンは1985年8月に開幕した『チャレンジ・スピリット'85』のみに終わったが、当時既に新日本との業務提携を解消していた筈のWWFでもマシーン軍団は注目され、WWFでは更にビッグ・マシーン(正体はブラックジャック・マリガン)を加えた覆面ユニットとして1986年下半期のWWFにも登場。更には単発的ながらもハルク・マシーンハルク・ホーガン)、クラッシャー・マシーンクラッシャー・リソワスキー)、アニマル・マシーンジョージ・スティール)、パイパー・マシーン(”ラウディ”・ロディ・パイパー。但しパイパーのみ皆と同じ覆面こそ被っているものの、コスチュームはトレードマークの青のショートタイツである。《他は全員、黒のワンショルダータイツと同じく黒のロングタイツという出で立ちである》)とマシン軍団に加入しており、これらWWFに於いてのマシーン軍団のマネージャーをキャプテン・ルー・アルバーノが担当した。

  • 因みに新日本プロレスにいた頃、ディック・マードックがマシーン軍団に入ったアンドレを見て「俺もマシーン軍団に混ぜてくれないか?」と頼んだという。

  • またWWFの放送内でマシーン軍団を統べる若松の名前が言及されており、前述の通り若松自身もアンドレからWWF行きを誘われたが、若松はテレビ朝日との契約がある事と、国際プロレス時代から世話になっている吉原功永里高平(テレビ朝日の運動部長であり、新日本プロレスの専務も務めた人物)への恩義から断っている。

  • 更にこのマシーン軍団に思い入れがあった為か、アンドレはヒールターンする際にジャイアント・マシーンの頃同様に黒(後年は青の)ワンショルダー・タイツ(シングレット)を着用していた(但し、この頃になると身体を支える装具を常時付けていた為、それを隠す為にワンショルダー・タイツにしたとも言われており、それによってリング内での行動に制限がかかったという)。

  • 1984年12月19日、ハワイNBCアリーナにおける興行の第8試合で、レフェリーを務めたことがある。シバ・アフィ、ラーズ・アンダーソン組vsマーク・ルーイン、ケビン・サリバン組の試合を裁くも、敗れたルーイン組が判定への不服からアンドレに食って掛かり、乱闘寸前になったという。それ以前の1978年にも、NWAのリッキー・スティムボートvsリック・フレアー、WWWFのダスティ・ローデスvsスーパースター・ビリー・グラハム等の試合でスペシャル・レフェリーを担当した(また1987年にはWWFに加入したばかりのハーリー・レイス《当時、元NWA世界王者の肩書を抹消した代わりにその名残として『プロレスリングの王』の『キング・ハーリー・レイス』と名乗っていた》vsジャンクヤード・ドッグのレフェリーも担当している。但し、この時アンドレはレイスと共にヒーナン・ファミリーにも入っていた為、かなりレイスに有利な裁き方をしていた)。

  • スタン・ハンセンはアンドレを先輩として尊敬し続け、両者は新日本プロレスを去った後、全日本プロレスでほぼ10年ぶりの同行を喜び、試合後はよく二人で会食に出かけた。その際、よく話題になったのが田園コロシアムの一戦で、御互いに相手を称え飽きる事なく語り合ったという。

  • WWFに参戦したキラー・カーンとアンドレが対戦した際、アンドレが自身の過失で試合中に自分の足を痛めてしまい、それに気付いたカーンは機転を利かせてトップロープからニー・ドロップを見舞った(※)。後日カーンは通訳を連れてアンドレの入院先へ見舞いに出向き、前述した試合の件について謝罪。しかしそれを聞いたアンドレは大声で笑いのけ、「気にするな、あれはアクシデント。君の機転が無かったら試合が台無しになっていたところだったよ」と逆に励ましの言葉をかけたという。更にアンドレは「それよりも、あの試合は『キラー・カーンがアンドレ・ザ・ジャイアントの足をニー・ドロップで骨折させた』という事にしよう。俺が退院したら、君との試合は盛り上がること間違いなしだ」と言い、格好のストーリーラインまで提案している。このアングルは新日本プロレスに凱旋帰国したカーンの株を急上昇させ、彼を瞬く間にメインイベンターへ昇格させた原動力となった。この頃の新日本プロレスは全日本プロレスとの外国人選手引き抜き合戦の挙句、スター選手を失ったのと同時に猪木とタイガーマスクが怪我で休場と痛手を被った時期でもあるが、代わってメインに上った「あのアンドレの足を骨折させた大型日本人レスラー」とアンドレとの対戦は興行を大いに盛り上げた。また、その事もあってアンドレとカーンは生涯に渡って親友同士の付き合いでもあった。(※)WWFにおいては、アンドレがベビーフェイスかつメインイベンターであり、カーンはヒールであった。試合中アンドレの足が異常である事に気が付いたカーンは、そのことを観客へ見抜かれる前に、アンドレの過失ではなく憎まれ役の自分(カーン)がアンドレの足を痛めつけた事にした方がベターと考え、咄嗟にトップロープへ上り、致命傷を与えない範囲でアンドレにニー・ドロップを放った。

  • また、そのキラー・カーンが飲食店(※)を開いている事をプロレス関係者から聞いたアンドレは「御忍びで訪れるから、小沢(将志。キラー・カーンの本名)には黙っておいてくれ」と言っていたものの、それから間も無くしてアンドレが他界した為、御忍びでの来店は実現しなかった。(※)東京都新宿区中井の『スナック カンちゃん』の事。嘗てシンガーソングライターの尾崎豊が常連客として、この店のカレーライスを非常に気に入っていた事で知られていた。その後西新宿六丁目に店を移し、ちゃんこ料理を主とした「ちゃんこ居酒屋 カンちゃん」に名を変えて現在も経営している。更には足立区綾瀬にも店を構えたが2012年に閉店。2015年9月、歌舞伎町に「歌謡居酒屋 カンちゃん」を開店。こちらは2016年8月27日に閉店したが、同年9月14日に新宿区百人町で「居酒屋カンちゃん」を新規にオープン。店主のカーン自身、巨躯にもかかわらず店内ではホールスタッフとして現在も接客している。

  • 2017年にプロレスデビューしたアンドレザ・ジャイアントパンダは、アンドレに因んで名付けられた(たまに『アンドレ・ザ・ジャイアントパンダ』と表記される事もあるが、誤りである)。

  • 現在、WWEの大型レスラーにして重鎮の一人でもあるビッグ・ショーはアンドレを非常に尊敬しており、キャリアの初期の頃には嘗て所属していたWCWで「アンドレ・ザ・ジャイアントの息子」の「ザ・ジャイアント」としてリングに上がっていた。

  • 若い頃は悪戯好きで、友人や知り合いの車を素手で持ち上げて移動させた事があったそうで、車の向きを変えたり、街灯とビルの隙間の狭い空間に置いた事もあったという(因みに背広姿の若い頃のアンドレが車のボンネットに凭れ掛かっている様な写真が出回っているが、実際は両手を後ろに回して車の前面を持ち上げている)。

  • 14歳で親元を離れて5年後、19歳になったアンドレは一度グルノーブルの実家に帰郷したものの、先端巨大症の為に2.1メートルにまで成長し、昔のアンドレとは似ても似つかない状態になっていた為に両親は実の息子アンドレが分からなかったという。因みに両親は息子が「ジェアン・フェレ」の名前で活躍していた時、テレビではそれが息子のアンドレである事を知らずに視聴していたとの事。因みにアンドレ自身も自分の息子という事を両親に分かって貰えないのを悟っていた模様で、父ボリス・ロシモフに父親の持っている車であるロールス・ロイスについての質問を投げかけて見た所、漸くボリスは自分の息子アンドレである事を判明したという。

  • 国際プロレス時代に先端巨大症である事が判明するも、アンドレはそれに伴う痛みをリング上で表現させるのに好都合という事で形成外科手術を拒否している。その為に長生きが出来なかったものの、晩年、マイティ井上等の親しいレスラーや友人に時々「十分にこの人生を楽しんだ。俺はいつ死んでも良い」と零したという。

  • 晩年はテレビショッピングのQVCをかなり利用して買い物を楽しんでいたと言われている。これは街中で大きな身体を周りから見られるのを嫌ったが故の行動との事。また、会食の際は、常に率先して相手全員の支払いを済ませるのを身上としており、奢られるのをかなり嫌ったという(その為、映画で共演したアーノルド・シュワルツェネッガーが先に支払いを済ませた事に立腹して彼にお仕置きを加えている。後述)。

  • 2008年9月30日に放映されたNHKの番組「私のこだわり人物伝 愛しの悪役レスラーたち・昭和裏街道ブルース 第三回『”人間山脈” アンドレ・ザ・ジャイアント』」において取材を受けたフレンチ・バーナード(フロリダで活躍していたレフェリーで、ボブ・バックランドVSアントニオ猪木のWWFヘビー級選手権試合も裁いた事がある。また後述するアンドレvs前田日明の不穏試合の時のレフェリーとしても有名である一方、アンドレの生涯に渡っての親友の一人でもあった)は、アンドレは人の顔を見ただけでその人の名前と誕生日、兄弟の数を言い当てる事が出来るという、まるで何処かの異世界の人物の様な能力を持っていたと語っている。尚、バーナードはアンドレの最期を看取った後、アンドレが晩年過ごしていたノースカロライナ州エラーブの牧場を現在も管理している。

  • WWWF、ひいてはWWFに参戦し始めた1973年から1986年の13年間は一度もフォール負けをした事が無い(ヒールターンした1987年に、前述の第3回レッスルマニアでハルク・ホーガンから受けたピンフォールが生涯初のフォール負けである。その他だとアルティメット・ウォリアーもアンドレからフォールを奪っている)が、ギブアップ負けは国際プロレス時代にラッシャー木村から逆海老固めで(詳細な時期は不明だが、前述の1979年7月のIWA世界ヘビー級王者決定戦と思われる)、1986年6月17日の愛知県体育館におけるIWGPチャンピオン・シリーズの公式戦にて、アントニオ猪木に大巨人狩り腕固めでギブアップ負けを喫している(因みにアメリカではギブアップ負けは一度も喫していない。また、本来ならばラッシャー木村のギブアップ勝ちこそがプロレス史上初のアンドレからのギブアップ勝利なのだが、新日本プロレスでは国際プロレスでの記録を認めていない模様で、猪木のギブアップ勝利を史上初のアンドレからのギブアップ勝利と認めている)。

  • ミスター高橋によると、アンドレは手品が得意で……、

ある居酒屋でのこと。彼が大ジョッキのビールを20杯ほど空にした時だった。

アンドレ「ピーター、千円札持ってるかい?」


~中略~


そのお札を丸めて灰皿に置きなんとマッチを擦って火をつけたのである。驚く私を横目に、半分ほど燃えたお札に息を吹きかけ指でつまみ出した。そしてゆっくり広げると、摩訶不思議。なんと千円札が1万円札に変わっていたのだ。


高橋「ええ~、マジかよ?」 アンドレ「フォッフォッフォッ」


(ミスター高橋著「悪役レスラーのやさしい素顔」p18より引用)


  • 因みに高橋はその後その1万円札を元の千円札に戻らぬ内に使ってしまったとか。またアンドレも「良かったな、ピーター。10倍になって返って来たぞ」と言ってそのまま高橋に渡したという。

  • 計算が得意で新日本プロレスでの試合後のある日、職員が複雑な会計に悪戦苦闘しているのを見るや否や、手伝ってすぐに算出したという。

  • 趣味はトランプ遊びもしくはトランプ占いで、前者はディック・マードック等の親しいレスラーと控室や移動バス内で一緒に暇潰し、もしくは御祝儀を賭けて「ジン・ラミー」(同じ数値の札や同じスートで連続した数値の札を作って得点を競い合う事を目的とした、二人用カードゲーム)を繰り広げたり(タイガー服部による証言)、後者は控室にて黙々と占い、縁起の良い札が出ればニヤリとほくそ笑む所が度々見掛けられたという(ミスター高橋による証言)。

  • アンドレはそのインパクトの強さから、ファッションアイコンにもなっている。グラフィティ・ストリートデザイナーのシェパード・フェアリーによる世界的なデザインブランド「OBEY(オベイ)」で、アンドレの顔を大胆にフィーチャーした「OBEY GIANT」が最も有名。「OBEY GIANT」はポスターやステッカーになって全世界に発信されており、1980年代末から1990年代にかけて、スケーターを中心に爆発的な人気を集めている。現在でも数限りないファッションアイテムが登場する等、根強い人気を誇っている。

  • 2016年5月19日、日本全国の地図を検索できるサイト「MapFan」が公式Twitterアカウントでアンドレと誕生日が同じである俳優の神木隆之介の誕生日を祝うツイートを投稿したが……、

「#今日の誕生日

本日は神木隆之介さんのお誕生日です。

フランス・グルノーブル出身のプロレスラーで、223センチ236キロ。

WWF殿堂(現WWE殿堂)の殿堂入りの第一号です。


と、神木隆之介のプロフィールではなく、アンドレのプロフィールを記載したままのツイートを誤って投稿するという珍事件が起こったのである。これについてネットユーザーは、


神木隆之介wwwwww

クソワロタ

私の知ってる神木隆之介くんと違う!

てっきり知らない間に神木くんがWWE殿堂入りしていたのかと

神木隆之介がスタン・ハンセンと戦ったとは


と、大受け。思わぬ形で多くの人に笑いを届ける事になってしまったが、その中にはタレントの「こじるり」こと小島瑠璃子もこの誤爆投稿をリツイートしてしまった為、一気に広範囲に拡散。尚、この投稿から50分後にMapFanは、


「【お詫び】

神木隆之介さんをご紹介する際のプロフィールが、誤ってアンドレ・ザ・ジャイアントさんのものになっておりました。心よりお詫び申し上げます。


と謝罪の投稿。実は神木の直前にそのアンドレの誕生日を祝うツイートを投稿しており、続けて神木に関するツイートを投稿するも、担当の社員がアンドレのプロフィール部分を消すのを怠り、そのままにしてしまったのが原因との事(因みにこの誤爆投稿を担当した社員は、上司から『これ、何?』と指摘された事もツイートしている)。


前田日明とのシュートマッチ

1986年4月29日に三重県津市の津市体育館で行われた、第一次UWFの崩壊後新日本プロレスに復帰した前田との間で行われた「ガチンコ」試合(ビッグ・ファイター・シリーズ第15戦)。

試合開始からアンドレは全くプロレスに付き合わず、前田がタックルに来ると巨体を被せて押し潰そうとした。その様子に異変を感じた前田は試合途中から距離をとっての打撃に終始。この時点で前田はアンドレのセコンドに付いていた「将軍KYワカマツ」こと若松市政に「若松さん、(アンドレに止めるよう)言って下さいよ」と言っていたといわれている。前田は自著『パワー・オブ・ドリーム』(角川文庫)で当時の状況を記しており、それによれば前田がセコンドに付いていた星野勘太郎に「本当にやりますよ。いいんですか」と尋ねたところ(因みにその時の動画でも『やっちゃっていいんですか?』と星野に尋ねた所がしっかりと映されている)、それに対して星野は困惑した様子で「俺に訊くなよ」と答えたという。

異様な膠着状態が続く中、観客からブーイングが起こり始め、リングサイドには試合に関係のない猪木が現れる。リング中央から動かないアンドレに対し、前田は膝頭に危険な蹴りを連発。最終的にアンドレはリングに寝転がったまま起き上がらなくなり、戦意喪失とみなされ試合終了(26分35秒、無効試合の裁定が下された。この時のレフェリーは前述のフレンチ・バーナードであったが、控えていたミスター高橋がリングに上がり、没収試合として止めた)。困惑した前田がセコンドに対し事情の説明を求めるという不可解な結末に終わった。前述の前田の自著には、アンドレはマット上に寝転んだ後に制するかのように両手を広げながら「It is not my business!!(俺が仕組んだ事じゃない!!)」と言ったという記述がある。

シュートマッチ強行への経緯については諸説あり、当時の関係者の証言も断片的なものに留まり、また当事者のアンドレが故人となった現在では真相は不明。当時マッチメイクを担当していたミスター高橋も自著の中で、特に新日サイドから指示されたことはなく、試合後もアンドレは何も答えてくれず、困惑するしかなかったと当時の胸中を明かしている。この試合について見解を表明しているのは当事者の一人である前田と、新日サイド側では現時点に於いての唯一の証言者であるミスター高橋のみと非常に少ない。前田は「新日サイドによる組織的な『潰し』」という説を唱えており、対して高橋は「UWFスタイル、特にキック攻撃を嫌悪していたアンドレが個人的感情から起こした行動」としている。アンドレも晩年、この試合について「前田はキックが好きだと聞いていた。だから好きなだけ蹴らせてやっただけさ」という旨の発言を残しており、何らかの思惑があった事を示唆している。

なお、この試合の様子はテレビ収録大会にもかかわらず、後日、全国ネットで放映された録画中継で、この試合のみが何の説明さえもなく放送されなかったことから『内容が危険であるという理由で放送されなかった』のではないかとファンの間で噂されていた。しかし、テレビ朝日の関係者によれば当時のスタッフから「試合が成立しておらず、つまらない」という声があり(セメントと分かっていなかった?)、放映するコンテンツとして品質不足と判断された為だという。この試合はお蔵入りの状態が続き、一部のプロレスマニアによる裏ビデオの流出物が出回るのみであったが、近年になってDVD化されるなど漸く“封印”が解かれた。

その一方で、この試合の翌日に発行された東京スポーツは、試合の一部始終を詳報。1面トップかつ写真入りで「大巨人、ナゾの試合拒否」等の見出しを付け、この試合が如何に「異常事態」なのかを捉えた報道として大きく扱った。


  • この試合の黒幕はアンドレの単独行動説の他、アントニオ猪木もしくは坂口征二が蔭でアンドレに指示を送っていたという説があるものの、猪木、坂口共に現在に至ってノーコメントを貫いており、未だに真相は不明である。

  • ミスター高橋によると、実はこの試合は本来前田の負け試合(アンドレのカウンターキックによるフォール負けという内容)であり、試合前にミスター高橋は前田にその了承を取り、前田も了解していたという。只、前述の全体重を掛けて潰しにかかる等、異様な攻め方を見せるアンドレに前田は危機感を感じ、距離を取っての蹴り技(膝に目掛けてのキック等)を嫌が上でも取らざるを得なくなったという。

  • なお、この試合の前まではアンドレと前田は非常に仲が良好で、後年、前田は「ホテルのバーで1人でポツンと飲んでいるアンドレに会った時、ボーイに『同じワインを(アンドレに)一本つけてあげてくれ』と言ったら、アンドレは俺に三本ワインを返して来たんだよ。人の礼には、三倍の礼で返す人だった」と述べており、シングル初対決の1983年5月の時も「他の外人選手はニールキックやスープレックスは嫌だと相手してくれなかったのに、アンドレだけは『蹴りでも何でも、俺には遠慮するな』と言ってくれて、真っ向から勝負を受けてくれたんだよ。そういう意味ではプロ中のプロだった」と語るほど、前田はアンドレに好意的な印象を持っており、未だにこの時の試合でのアンドレの行動は信じられなかったという。

  • この試合以降、アンドレと前田は顔を合わさなかったが、それから1ヶ月後の5月30日に広島県立体育館での大会で前田とアンドレはセミファイナル前のタッグマッチで再び顔を合わせることになった(前田日明&藤原喜明vsアンドレ・ザ・ジャイアント&ジミー・スヌーカ)。不穏試合自体テレビ中継は全くされなかったものの、週刊プロレスや週刊ゴング誌上が大きく記事で取り上げられていた為にその経緯を把握し、且つ前田とアンドレとの絡みを期待しているファンが非常に多く、会場内もかなり緊張が走っていたという。だが、終始前田がスヌーカと、対するアンドレも藤原と絡むといったすれ違いの試合内容となり(結果は藤原とスヌーカの場外乱戦によるリングアウト引き分け)、会場全体からもアンドレと前田の両者の絡みが見られずガッカリといった溜め息で溢れた。

  • 因みにシュートマッチに自信のあったディック・マードックは前田のファイトスタイルに疑問を感じた模様で、新日本プロレスに再び参戦した前田に対して、「お前、プロレスがやりたいのか喧嘩がやりたいのか、はっきりしろ」と言った事もあったという。山本小鉄も、前田とアンドレのシュートマッチについて「もし新日本が本気で前田を潰そうとしていたらアンドレではなくマードックを送り込んでますよ(仮にアンドレのセメントが新日本側の差し金であった場合、裏返せば『新日本側はアンドレが前田を懲らしめる程度に戦う』のを望んでいたという解釈になる)」と語っていたという。

俳優としての活動

アメリカではその巨体から怪物的なキャラクターとして映画、ドラマに度々出演していた。


映画「Casse-tête chinois pour le judoka(フランスの映画。日本では未公開だが題名は『7つの顔を持つ柔道家』という意味)」(格闘家役)1967年

テレビドラマ「600万ドルの男」(ビッグフット役)1976年

テレビドラマ「アメリカン・ヒーロー」(ザ・モンスター役)1982年

映画「キング・オブ・デストロイヤー/コナンPART2(Conan the Destroyer)」(邪神ダゴス役)1984年

映画「プリンセス・ブライド・ストーリー」(フェジック役)1987年

映画「マミー・マーケット(原題はTrading Mam)」(サーカスの一団員役。生涯最後の出演)1994年


  • この内、「コナン」の主役を務めた、若い頃のアーノルド・シュワルツェネッガーウィルト・チェンバレン(216㎝の長身を誇った、NBAの伝説のバスケットボール選手。彼はこの映画では女王タラミスの腹心の部下であるボンバータを演じた)と共に会食した際、アーノルドが密かに全員分の会計を済ませたのを知るや、率先して支払う事を常に心掛けていたアンドレは感謝するどころか怒りだし、報復として188㎝の長身のアーノルドを軽々と持ち上げ、アーノルドの車の屋根に乗せたという。

アンドレの酒豪伝説

後述する様にアンドレは酒豪として知られ、特にビールやワインの消費量については様々な伝説が残されている。


  • ミスター・ヒトの著書『クマと闘ったヒト』では、車で800km移動する間に缶ビールを118本飲み、到着後更に5ガロン(約19リットル)のワインを飲み干したと記載されている。

  • マイティ井上は、札幌遠征時に「二人で一度に瓶ビールを136本空けた事がある」と証言している。その際は「汗とアルコールとオーデコロンが一緒になった様な臭いになった」という。

  • アニマル浜口によれば、アンドレ(当時は『モンスター・ロシモフ』)が来日した際は、移動のために利用する列車や選手バスに大量のビールを積み込んでいたという。アンドレ(ロシモフ)がビールを飲む際もリポビタンDを飲む感覚で飲んでいたという。

  • キラー・カーンと坂口征二によれば、1975年に新日本プロレスがブラジル遠征を行った際、ロサンゼルス経由サンパウロ行きの飛行機の機内にあったビールを全部アンドレが飲み干してしまい、他の乗客からクレームがついたという。新間寿の証言によると、この時ビールは200~300本用意されてあったという。

  • ラッシャー木村の息子である木村宏は、国際参戦時のアンドレ(ロシモフ)が、ラッシャーと2人でビールを50ケース(大瓶・中瓶で換算すると約1000本)空けたと証言している。

  • 1980年4月の札幌巡業ではサッポロビール園で看板(閉店)になるまで大ジョッキ89杯を空けたが、アンドレはそれに飽き足らず、そこから更にすすき野で朝まで飲み明かした、とミスター高橋は前述のNHKの「こだわり人物伝」のMCである、ノンフィクション作家の森達也に証言している(因みにミスター高橋もこの時、大ジョッキのビールを19杯飲んだもののかなり酔っ払ってしまい、ホテルのベッドでダウンしている所をアンドレに『もう一度飲みに行こう』と誘われ、必死に拒否した事も明かしている)。

  • CBSスポーツ(アメリカ3大ネットワーク放送局である『CBS』のスポーツ中継部門)の取材を受けたテッド・デビアスは1970年代のテキサスでのアマリロのツアー中にアンドレと共にとあるバーに入った時の事をこう話している。

「俺とアンドレが座っているテーブルにウェイターがやって来て、注文をしたんだよ。その際、アンドレはウェイターに『ゴミ箱はあるか?』って聞いたんだ。ウェイターは『はい、たくさんありますよ』って答えたんだけど、アンドレは、『ゴミ箱を空にして、そこにビールと氷を注いでくれ』って言ったんだ。店員は俺を見て、『冗談ですよね?』と言ったんだけど、結局注文通りにしてくれたよ。ゴミ箱に2~3ケース分のビールを流し込んでね。」


  • この他、「タンパの空港で50分でビール108本を空けた」(ハルク・ホーガンによる証言)、「ペンシルベニア州リーディングのホテルのバーでビール327本を空け、流石のアンドレも気絶した」(WWEの伝説の女子プロレスラー・ファビュラス・ムーラによる証言)等、消費量に関する伝説は枚挙に遑がない。ただこれらの伝説がどこまで本当なのかは不明。

  • 馬場とは巨人同士でウマが合ったと言い、選手バスでは隣同士に座り二人で冗談を言い合いながらワインを飲んでいたという。そのため、全日本の選手バスにはアンドレ用のワイン冷蔵庫が用意されていた。

  • ワインは白ワインが好みだったというが、結局は赤・白の別や銘柄に関係なく「水の様に飲み干してしまう」状態だったらしく、ハルク・ホーガンによれば「アンドレの誕生日の際に、移動バスにワイン1ダースをプレゼントとして用意したら、出発から2時間半で全部空けてしまった」という。また木村宏によれば、熟成されたものよりも、若いワインを好んでいた 。

  • 一時アメリカでフランス料理のレストランを経営していたが、その目的は副業というよりは自分が消費する分の食材や酒を卸価格で仕入れる為(卸価格だと通常よりも安価で酒類等の購入が出来るとの事)とされる。

  • 元々多かった酒量は晩年更に増え、ワインを手放せない状態だったと言われる。晩年は歩行すらままならない状態だった模様で、移動にバギーバイクを使用していた(歩行時は主に杖を使用が主であった。また全日本プロレスでの最後の試合である6人タッグマッチでも、若手レスラーの肩を借りて入場している場面が映し出されている)。

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