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目次
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  • 1 『Российская империя。』
  • 1.1 ここではロシア帝国以前のこともさかのぼる。
  • 2 ロシア帝国以前の「ロシア帝国」
  • 2.1 モンゴル族関係
  • 2.1.1 ヴォルガ・ブルガール
  • 2.1.2 キプチャクハン国・ジョチ・ウルス
  • 3 ロシア関係
  • 3.1 ヴァイキング(英: Viking, 独: Wikinger)
  • 3.2 ヴァリャーグ(スエェーデンの方のヴァイキング)の歴史
  • 3.3 ヴァリャーグの歴史
  • 4 都市国家ノヴゴロド公国 862年 ― 1478年
  • 5 ロシア公国時代の興亡
  • 5.1 キエフ大公国 882年 - 1240年
  • 5.2 歴代大公
  • 5.3 キエフ大公国 (リューリク朝キエフ大公国公王家)
  • 6 「タタールの軛」(ロシアのキプチャク・ハンによる支配)
  • 7 キエフ公国解体
  • 8 ウラジーミル・スーズダリ大公国
  • 8.1 歴代大公 (リューリク朝ウラジーミル・スーズダリ大公国大公家)
  • 9 モスクワ大公国
  • 9.1 歴代大公 (リュリューク朝モスクワ大公国公王家)
  • 10 「第三のローマ」ロシア皇帝国
  • 10.1 帝都:モスクワ
  • 10.2 歴代ロシア皇帝(ツァーリ)(リューリク朝)
  • 10.3 簒奪時代
  • 10.4 臨時皇帝と簒奪皇帝たち
  • 10.5 外国人皇帝時代
  • 11 リューリュク朝の終焉、ロマノフ朝誕生
  • 11.1 歴代ロシア皇帝(ツァーリ)(ロマノフ朝)
  • 12 「ロシア帝国」の建国
  • 12.1.1 イヴァン 全ロシア・ローマ皇帝
  • 12.2 ピョートル大帝の時代 近代化
  • 12.3 ピョートル1世以降のロシア帝国
  • 12.3.1 エカチェリーナ大帝の時代 領土拡張
  • 12.3.2 アレクサンドル1世 ナポレオン撃退
  • 12.3.3 ニコライ1世 デカブリストの乱
  • 12.4 南下政策
  • 12.4.1 アレクサンドル3世爆殺
  • 13 ロシア帝国の衰退
  • 13.1 日露戦争勃発
  • 13.2 日露戦争に敗北
  • 13.3 帝政ロシアの南下政策失敗
  • 13.4 第一次世界大戦とロシア革命
  • 13.5 ニコライ2世
  • 13.6 2月革命
  • 14 「第1回ソビエト大会」
  • 14.1.1 露帝ニコライ2世退位
  • 15 新体制 ロシア共和国(臨時共和国)
  • 15.1 10月革命
  • 15.2 トロツキー政権
  • 15.3 「第2回ソビエト大会」
  • 15.4 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国建国
  • 15.5 ロシア内戦
  • 16 ニコライ2世と一族惨殺
  • 16.1 ロシア極東
  • 17 ソビエト社会主義共和国連邦の建国へ
  • 18 歴代ロシア帝国国歌
  • 18.1.1 Флаг и Гимн России(1791-1816)
  • 18.1.2 Флаг и Гимн России (1816-1833)
  • 18.1.3 Гимн Российской Империи(1833年- 1917年)
  • 19 Флаг и Гимн России (1914-1917)
  • 20 関連
  • ロシア帝国

    ろしあていこく

    かつてロシアに存在した絶対皇帝国 20世紀初頭には北半球と北京まで版図を広げていた(ソ連より広い) なおロシア貴族は「フランス語」が公用語だった1263年 - 1917年

    『Российская империя。』

    ロシアを始め、

    フィンランドリボニアリトアニアベラルーシウクライナポーランドカフカーズ中央アジアシベリア満州などのユーラシア大陸の北部を支配した国家

    第3のローマ」とも呼ばれ1917年の滅亡まで農奴が存在し「民族の牢獄ともばれる。

    20世紀初頭には北半球北京まで版図を広げていた、これはソ連より広い領土である。

    なおロシア貴族は「フランス語」が公用語だった1263年 - 1917年

    • 英語 表記:Russian Empire 読み方 英語:ラッシャン・エンパィヤ

    なおロシア貴族は(ピョートル以後)「フランス語」が公用語だった

    ここではロシア帝国以前のこともさかのぼる。

    ロシア人の文化は、東欧の森林地帯で独自の宗教・信仰と生活様式を持っていた東スラヴ人の文化に起源をもつ。 ロシア人の先祖は、近隣のフィン・ウゴル人や遊牧民、特にポントス・ステップ(黒海沿岸のステップ)のテュルク系民族から文化的影響を強く受けていた。

    スカンディナヴィアから来てキエフ・ルーシという国を建国に関わったとされるヴァイキング、ヴァリャーグ達も、ロシア人の文化的アイデンティティ(英語)の形成に重要な役割を果たした。キエフ・ルーシは988年にビザンツ帝国からキリスト教を受容したが、このことによりロシア文化はスラヴ文化とビザンツ帝国文化の融合した文化としてその後1000年発展を続けることとなった

    1453年コンスタンティノープルの陥落後、ロシアは世界最大の正教国家となり、ビザンツ帝国に次いで「第三のローマ」を自称した。

    一方でヨーロッパ文化の影響を強く受け、特にピョートル大帝の大改革の以後ロシア文化は西欧文化を背景として大きく発展した。20世紀共産主義イデオロギーがソビエト連邦とその最大・主導的構成国であったロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の文化を形作った。

    ロシア帝国以前の「ロシア帝国」

    モンゴル族関係

    ヴォルガ・ブルガール

    600~700 - 1236バトゥのモンゴル軍に征服される

    • 名前からなんとなく推測できるかもしれないが、ブルガリア人の祖先の国らしい。
    • ヴォルガ・ブルガール人は自身について記録を残しておらず、大半の情報は同時代に存在したアラブ、ペルシア、インド、ルーシの史料や、考古学上の発見に頼っている。このためヴォルガ・ブルガールについての情報は限られた物になっている。
    • ハザール・カガン国(王国)

    635以降年 - 968年

    遊牧民国家のロシア人の先祖の国 キエフ大公国スヴャトスラフ大公に滅ぼされる

    ※ウルスはモンゴル語で国家に相当する言葉

    イェケ・モンゴル・ウルス(モンゴル帝国)

    ダイゲン・ウルス(元朝)

    キプチャクハン国・ジョチ・ウルス

    1240年ぐらい - 1502

    13世紀から18世紀にかけて、黒海北岸のドナウ川、クリミア半島方面から中央アジアのカザフ草原、バルハシ湖、アルタイ山脈に至る広大なステップ地帯を舞台に、チンギス・ハーンの長男ジョチの後裔が支配し興亡した遊牧政権(ウルス)。

    簡略するとカザフスタンからモスクワあたりを支配した国家であったらしい。キプチャク・ハン国は後年タタールの軛ロシアを支配)をする国ではある、後々モスクワ大公国に滅ぼされ併合されるが、このときにロシア人は「あちらから(アジア)の侵略支配できるのだから、我々が奴らを侵略支配できるはず」だと。(推測)ロシアがシベリア進出へ版図を広げるきっかけになった。

    ロシア関係

    東スラヴ人 ヴァリャーグ・スカンジナヴィア人・ルーシー人など俗に言うロシア人の事になる先祖の国、後年リューリク朝を立てる人々であるらしい、解釈が今も議論されている。

    ヴァイキング(英: Viking, 独: Wikinger)

    8世紀から、300 年以上に渡って西ヨーロッパ沿海部を侵略したスカンディナヴィアの武装船団(海賊)を指す言葉であったが、後の研究の進展により「その時代にスカンディナヴィア半島に住んでいた人々全体」を指す言葉に変容し、中世ヨーロッパの歴史に大きな影響を残した。

    ヴァイキングは海賊・交易・植民を繰り返す略奪経済を生業としていたのではなく、ノルウェーの考古学者であるヘイエルダールが述べたように、故地においては農民であり漁民であった。

    特に手工業に秀でており、職人としての技量は同時代においては世界最高のレベルであった。

    ヴァリャーグ(スエェーデンの方のヴァイキング)の歴史

    東スラヴ人による呼称でゲルマン人の一派を指す。一般的には、スウェーデン・ヴァイキングの事であると現代では解釈されている。ロシアでは15世紀までスウェーデン人をヴァリャーグと呼んでいた。

    ヴァリャーグの歴史

    8世紀頃にバルト海を掌握。ヴァリャーグ海とも呼称される。9世紀中頃、ルーシ族の族長リューリクがラドガを支配。彼らの一族は、ドニエプル川やヴォルガ川を下り、東ローマ帝国やイスラム帝国などとの交易網を築く。

    ヴァリャーグたちは、東スラヴ人の地を「ガルダリケ」と呼称した。彼らは、ポロツク、スモレンスク、チェルニゴフ、ペレヤスラヴリなどの都市を建設したと言われている

    • 860年、ヴァリャーグが東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスを攻撃するも撃退される。彼らはこの地をミクラガルドと呼んだ(ルーシ・ビザンツ戦争)。
    • 862年、スラヴ人の懇願を受け、リューリクがノヴゴロドを征服。ノヴゴロド公国(ホルムガルド)の成立と見なされる。
    • 882年、リューリクの子とされるイーゴリが同族のオレグの後見の元に、キエフ大公国を建設する。
    • 911年、オレグが東ローマ帝国とルーシ初の条約を結び、東欧の交易網を完成させる。
    • 924年、イーゴリ1世、キエフ大公として即位。以降、ルーシは、支配者がノルマン系からスラヴ系へと移行していく。しかしノルマン人をルーシに植民させる政策は、この後もしばらくは続けられた。
    • 980年、ノヴゴロド公ウラジーミル1世、ノルマン人を率いてキエフ大公国に帰還。キエフ大公に即位したウラジーミル1世は、親スカンディナヴィア政策を行う
    • 988年にキリスト教正教会)を国教に定めた事で、ルーシにおけるヴァリャーグ人時代は彼と共に終焉を迎える事となった。
    • ハザール・カガン国(王国) 635以降年 - 968年

    遊牧民国家のロシア人の先祖の国 キエフ大公国スヴャトスラフ大公に滅ぼされる

    • ルーシ・カガン国 830年 - (現在でもどうなったか解からないらしい・・。キエフに吸収されたのかなくなったのか・・。

    ビザンツ(東ローマ)と戦争と戦いまくったロシア人の祖先の国、後にリューリク朝キエフ・ルーシ(大公国)の前身となった国。

    なお「カガン」とは「モンゴル帝爵・(ハーン)」の古い呼び方らしい。

    都市国家ノヴゴロド公国 862年 ― 1478年

    初代 リューリク1世) ロシア君主の皇祖とされる伝説の公王ノヴゴロド公国の建国者がたてた国家。スラヴ人が自分たちを治める指導者を求めてヴァリャーギ(スカンジナヴィア人)にすがり、リューリクら三兄弟(リューリクの弟、シネウスとトルヴォル(英語))を得たと書かれている。

    九世紀半ばノルマン人の一派が首長ルーリック(Ryurik)に率いられてロシアに侵入し建てた国家。スラブ人が彼らをルス・ルーシ(Russ)と呼んだことから、ロシアの名称が生まれた。

    伝承が正しければ興亡が激しかったロシア公国のなかでリューリクが立てた年代862年から、モスクワ大国国大公イヴァン3世に征服される1478年まで存続していた国家である。(一番長命)

    ロシア公国時代の興亡

    キエフ大公国 882年 - 1240年

    9世紀後半から1240年にかけてキエフを首都とした東欧の国家、正式な国号はルーシ(古東スラヴ語: Рѹсь)で、日本語名はその大公座の置かれたキエフに由来する。1240年、バトゥ率いるモンゴル帝国軍が南ルーシを制圧し、キエフ大公国は事実上崩壊した。

    首府:キエフ

    歴代大公

    1.  アスコルド(在位:892 - 882年) ジール(在位:862年 - 882年) 伝説的なキエフとノブゴロドの公王
    2.  オレグ(在位:882年 - 912年/922年) (10世紀初めルーシの一部または全部を支配・ノブゴロド公王キエフ大公国の建国者)

    キエフ大公国 (リューリク朝キエフ大公国公王家)

    1. イーゴリ1世(在位:913年/923年 - 945年)
    2. 摂政オリガ(皇后)(在位:945年 - 964年)
    3. スヴャトスラウ1世(在位:945年 - 973年?) ハザール王国を滅ぼし、キエフ・ルーシ(大公国)の最大版図を築く。
    4. ヤロポルク1世(在位:973年 - 978年)
    5. ウラジーミル1世(聖公)(在位:978年 - 1015年) ノヴゴロド公(在位:970年頃‐988年)
    6. スヴャトポルク1世(在位:1015年 - 1016年)1度目 トヴェリ公(在位:988-1019)
    7. ヤロスラウ1世(賢公)(在位:1017年) 1度目 キエフ大公以前にロストフ公、またノヴゴロド公を歴任
    8. スヴャトポルク1世(在位:1018年 - 1019年)2度目
    9. ヤロスラウ1世(賢公)(在位:1019年 - 1054年)2度目
    10. イジャスラウ1世(在位:1054年 - 1068年)1度目トヴェリ公(在位:1045-1052)、ノヴゴロド公(在位:1052-1054)
    11. フセスラウ(在位:1068年 - 1069年) キエフ大公(在位:1068年 - 1069年) ポロツク候(在位:1044年-1068年)
    12. イジャスラウ1世(在位:1069年 - 1073年)2度目
    13. スヴャトスラウ2世(在位:1073年 - 1075年)
    14. フセヴォロド1世(在位:1075年 - 1076年)1度目
    15. イジャスラウ1世(在位:1076年 - 1078年)3度目
    16. フセヴォロド1世(在位:1078年 - 1093年)2度目
    17. スヴャトポルク2世(在位:1093年 - 1113年)
    18. ウラジーミル2世モノマフ(在位:1113年 - 1125年) 父はフセヴォロド1世、母は東ローマ皇帝コンスタンティノス9世モノマコスの娘
    19. ムスチスラウ1世(在位:1125年 - 1132年)
    20. ヤロポルク2世(在位:1132年 - 1139年)キエフ公国建国者 1132年 - 1270年バトゥモンゴル軍敗れ滅亡
    21. ヴャチェスラウ1世(在位:1139年)
    22. フセヴォロド2世(在位:1139年 - 1146年) 1127年に、叔父のヤロスラフ公を追放しチェルニーヒウ公になる
    23. イーゴリ2世(在位:1146年)
    24. イジャスラウ2世(在位:1146年 - 1149年)
    25. ユーリー1世ドルゴルーキー(在位:1149年 - 1150年)モスクワ公国の建設者
    26. ヴャチェスラウ(在位:1150年)
    27. イジャスラウ2世(在位:1150年)2度目
    28. ユーリー1世ドルゴルーキー(在位:1150年)2度目
    29. イジャスラウ2世(在位:1150年 - 1154年)3度目
    30. ロスチスラウ1世(在位:1154年)
    31. イジャスラウ3世(在位:1154年 - 1155年)1度目
    32. ユーリー1世ドルゴルーキー(在位:1155年 - 1157年)3度目
    33. イジャスラウ3世(在位:1157年 - 1159年)2度目
    34. ムスチスラウ2世(在位:1159年) 1度目 ペレヤスラヴリ公(1154年)
    35. ロスチスラウ1世(在位:1159年 - 1161年) 2度目
    36. イジャスラウ3世(在位:1161年)3度目
    37. ロスチスラウ1世(在位:1161年 - 1167年)3度目
    38. ムスチスラウ2世(在位:1167年 - 1169年)2度目
    39. グレプ(在位:1169年 - 1171年)
    40. ウラジーミル・ムスチスラヴィチ(在位:1171年) ドロゴブージ公(在位1150年 - 1154年,1170年 - 1171年)、ウラジーミル公およびヴォルィーニ公(在位1154年 - 1157年)、スルツク(1162年)、トリポリェ公(在位1162年 - 1168年)、キエフ大公(在位1171年)
    41. ロマン・ロスチスラヴィチ(在位:1171年)  スモレンスク公(在位1160年‐1172年、1177年‐1180年)、キエフ大公(在位1171年‐1173年、1175年‐1177年)、ノヴゴロド公(在位1178年‐1179年)。
    42. フセヴォロド・ユーリエヴィチ(フセヴォロド3世)(在位:1171年 - 1173年)
    43. リューリク2世(在位:1173年 - 1174年)
    44. ヤロスラフ2世イジャスラヴィチ(在位:1174年 - 1175年, 1180年)
    45. ロマン・ロスチスラヴィチ(在位:1174年 - 1176年)2度目 ハールィチ・ヴォルィーニ大公国建国者 1199年 - 1349年ハールィチ公国ポーランド王国領となり、ヴォルィーニ公国リトアニア公国の支配下に置かれた。
    46. リューリク2世(在位:1180年 - 1181年)
    47. スヴャトスラウ3世(在位:1181年 - 1194年)
    48. リューリク2世(在位:1194年 - 1202年)
    49. イングヴァルド(在位:1202年)
    50. リューリク2世(在位:1204年)
    51. ロマン・ムスティスラーヴィチ(在位:1204年 - 1205年)
    52. リューリク2世(在位:1205年 - 1210年)
    53. フセヴォロド3世  ウラジーミル・スーズダリ大公国建国者 1157年 - 1363年モスクワ大公国に併合
    54. フセヴォロド4世(在位:1210年 - 1214年)
    55. ムスチスラウ3世(在位:1214年 - 1223年)
    56. ウラジーミル3世(ヤロスラフ2世フセヴォロドヴィチ)(在位:1223年 - 1235年)(-1247年)ウラジーミル大公(在位1238年-1246年)。 キエフ大公としてはウラジーミル3世(在位1236年 - 1238年,1246年)。 バトゥのモンゴル軍が、1237年から1238年にかけてリャザンウラジーミルトヴェリを次々と占領して北東ルーシを征服
    57. イジャスラウ4世(在位:1235年 - 1239年)
    58. ミハイル(在位:1239年)
    59. ロスチスラウ2世(在位:1239年)
    60. ダヌィーロ・ロマーノヴィチ(在位:1239年 - 1240年) ヴォルィーニ公(在位:1205年 - 1208年、1215年 - 1238年)、ハールィチ公(在位:1238年 - 1261年)、キエフ大公(在位:1239年 - 1240年)、ハールィチ・ヴォルィーニ大公(在位:1238年 - 1250年)、 初の全ルーシの王(在位:1253年 - 1264年) ※ヴラジーミル・スーズダリ大公国ヤロスラフ2世の代官による支配 ★バトゥのモンゴル軍が1239年から1240年にかけて南ルーシに転進し、キエフ・ルーシの都キエフを攻略モンゴル軍の征服は北西に遠く離れたノヴゴロドを除くほとんど全ルーシに及ぶ

    「タタールの軛」(ロシアキプチャク・ハンによる支配)

    モンゴル帝国のバトゥの西方遠征によって、1240年にキエフ公国が滅ぼされてから、1480年に独立を回復するまでの約240年続いた、1480年、モスクワ大公国のイヴァン3世がジョチウルスのモンゴル軍団を撃退してタタールのくびきは終わりを告げる。

    キエフ公国解体

    1394年にリトアニア大公国は、キエフ公王職を廃止した。

    これに伴い、キエフには公に代わるリトアニアの代官が置かれた。1440年、現地の封建貴族からの圧力によりキエフ公位が復活されたが、1470年になると再び廃された。

    キエフにはヴォエヴォダ(県知事)のM・ホショトフトが送られた。

    キエフの住民は二度に亙りその受け入れを拒んだが、1471年、ヴォエヴォダの軍勢によって攻められたキエフは陥落しキエフ公国は完全に解体された。

    その後リトアニア大公国によるキエフ県に置き換えられた。

    ウラジーミル・スーズダリ大公国

    現在のスーズダリ・モスクワなどを含む地域で、当時の辺境地であった北東ルーシに位置した。1157年 - 1363年モスクワ大公国に併合される

    首府:ウラジーミル

    歴代大公 (リューリク朝ウラジーミル・スーズダリ大公国大公家)

    1. フセヴォロド3世(-1212年) ウラジーミル大公。短期的にはキエフ大公にも就いた。
    2. ユーリー2世(-1216年)
    3. コンスタンチン(-1218年) ノヴゴロド公 1205-1208 1216年弟のユーリー2世とヤロスラフ(後のヤロスラフ2世)の軍を破り、ウラジーミル大公になる。
    4. ユーリー2世(-1238年)
    5. ヤロスラフ2世フセヴォロドヴィチ(ウラジーミル3世)(-1247年)ウラジーミル大公(在位1238年-1246年)。キエフ大公としてはウラジーミル3世(在位1236年 - 1238年,1246年)。
    6. スヴャトスラフ(-1249年)
    7. アンドレイ(-1252年)
    8. アレクサンドル・ネフスキー(-1263年) ノヴゴロド公国の公をえてウラジーミル大公(在位:1252年-1263年)
    9. ヤロスラフ3世(-1271年) トヴェリ公(1247年 - 1271年)兄の死後ウラジーミル大公(在位:1263年-1271年)
    10. ヴァシーリー・ヤロスラヴィチ(-1277年) コストロマー公を経てウラジーミル大公
    11. ドミトリー・アレクサンドロヴィチ(-1294年) ペレヤスラヴリ公一時期ノヴゴロド公に就任した後、ウラジーミル大公(1276(或いは1277)年-1281年、1283年-1285年)。
    12. アンドレイ・アレクサンドロヴィチ(-1304年) ゴロジェッツおよびコストロマ公。1294年以降ウラジーミル大公。
    13. ミハイル・ヤロスラヴィチ(-1318年) トヴェリ公(1285年 - 1318年)、従兄弟アンドレイ・アレクサンドロヴィチの死後ウラジーミル大公(在位:1304年-1318年)ユーリー3世に処刑される
    14. ユーリー3世(-1325年) ウラジミール公(1317から)モスクワ大公(在位1303〜1325)アレクサンドル・ミハイロヴィチの兄がモスクワのユーリー3世をウズベク・ハンの前で殺害。
    15. アレクサンドル・ミハイロヴィチ(-1327年) ウラジーミル大公(1326年-1327年)、トヴェリ大公(1326年-1327年、1337年-1339年)ノヴゴロド公国 1136年 - 1478年モスクワ大公国に併合
    16. イヴァン1世(-1340年) モスクワ大公(在位:1325年 - 1340年)、ウラジーミル大公(在位:1328年 - 1340年)。
    17. セミョン(-1353年) モスクワ大公(在位:1340年 - 1353年)、ウラジーミル大公
    18. イヴァン2世(-1359年) モスクワ大公
    19. ミハイル・アレクサンドロヴィチ(1370)一時的にウラジーミル大公になった。モスクワと争ったトヴェリ公としては、実質最後の公。 トヴェリ大公(1368年 - 1399年)
    20. ドミトリイ・ドンスコイ(1359年-1389年) モスクワ大公
    21. ヴァシーリー1世(1389年-1425年) モスクワ大公
    22. ヴァシーリー2世(1425年-1462年) モスクワ大公
    23. イヴァン3世(大帝)(1462年-1505年)モスクワ大公 ルーシ北東部を「タタールのくびき」から解放
    24. ヴァシーリー3世(1505年-1533年) モスクワ大公
    25. イヴァン4世(雷帝)(1533年-1547年) モスクワ大公 初代ロシア皇帝(ツァーリ)キプチャク・ハン国を蹂躙・併合

    モスクワ大公国

    • モスクワ大公国は14世紀から15世紀にかけて、タタールや周辺のルーシ諸国と戦って勢力を拡大し、イヴァン3世のとき、初めて「ツァーリ」(大君主)の称号を名乗った。
    • 1480年にイヴァン3世はタタールの支配から独立し、1547年には、その孫イヴァン4世が「全ルーシのツァーリ」を自称し、モスクワ大公国の君主が全ルーシの君主であるという宣言が行われた。
    • この称号は国内的な自称にとどまり、ヨーロッパ諸国との外交関係では、モスクワの君主は長らく「王」でもなく、単なる「モスクワ国の大公」として扱われている。
    • イヴァン4世の死後、リューリク朝が絶え、国は荒れ、内戦に陥った(大動乱)。その混乱でヨーロッパへの進出が停滞したモスクワは、そのために国際的な地位は低いままに甘んじたることになる。
    • 首府 モスクワ

    歴代大公 (リュリューク朝モスクワ大公国公王家)

    1. ダニール・アレクサンドロヴィチ(1263年-1303年)
    2. ユーリー3世(1303年-1325年)
    3. イヴァン1世(1325年-1340年)
    4. セミョーン(1340年-1353年)
    5. イヴァン2世(1353年-1359年)
    6. ドミトリイ・ドンスコイ(1359年-1389年)
    7. ヴァシーリー1世(1389年-1425年)
    8. ヴァシーリー2世(1425年-1462年)
    9. イヴァン3世(大帝)(1462年-1505年)ルーシ北東部を「タタールのくびき」から解放
    10. ヴァシーリー3世(1505年-1533年)
    11. イヴァン4世(雷帝)(1533年-1547年) 初代ロシア皇帝(ツァーリ) キプチャク・ハン国を蹂躙・併合

    「第三のローマ」ロシア皇帝国

    歴代ロシア皇帝(ツァーリ)(リューリク朝)

    1. イヴァン4世(雷帝)(1533年-1547年) 初代ロシア皇帝(ツァーリ) キプチャク・ハン国を蹂躙・併合
    2. シメオン・ベクブラトヴィチ1574–1576
    3. イヴァン4世(復位)1576–1584
    4. フョードル1世1584–1598
    5. ボリス・ゴドゥノフ1598–1605
    6. フョードル2世1605 リューリク王家の末帝

    簒奪時代

    • 偽ドミトリー1世1605–1606 僭称者 反乱者の一人に見つかり殺された。1606年5月17日遺体は赤の広場で見せしめにされた上で焼却され、焼け残った遺灰は大砲に詰められポーランドに向けて発射された。

    臨時皇帝と簒奪皇帝たち

    • ヴァシーリー4世1606–1610 シュイスキー家出身 1611年、ポーランドのヴワディスワフ王子を新ツァーリとして推戴するため、ワルシャワへ派遣された使節団(団長はフィラレート)に加わった際、捕虜となって抑留され、翌年ワルシャワ郊外で死んだ。
    • 偽ピョートル1606–1607 1607年10月に処刑された。
    • 偽ドミトリー2世1608–1610
    • 偽ドミトリー3世1612 僭称者。「プスコフの悪党」 逮捕されてモスクワに引き渡され処刑された。

    外国人皇帝時代

    • ウラジスラフ1610-1634 ヴァーサ家ポーランド(在位:1632年 - 1648年)。ジグムント3世の長男、母は王妃アンナ・フォン・エスターライヒ。リトアニア大公(1632年 - 1648年) 全ロシアのツァーリ(1610年 - 1634年、称号のみ) スウェーデン王(1632年 - 1648年、称号のみ) オポーレ公(1645年 - 1648年)
    • カール・フィリップ1611-1617 僭称者 セーデルマンランド公 スウェーデン王カール9世と、その2番目の妻ホルシュタイン=ゴットルプ公女クリスティーナとの間の2番目の王子。グスタフ2世アドルフの弟。

    リューリュク朝の終焉、ロマノフ朝誕生

    1613年、リューリク朝の外戚であったミハイル・ロマノフが、元老院からツァーリに任じられ、ロマノフ朝を開いた。

    帝都:モスクワ

    歴代ロシア皇帝(ツァーリ)(ロマノフ朝)

    1. ミハイル・ロマノフ
    2. アレクセイ
    3. フョードル3世
    4. イヴァン5世
    5. ピョートル1世(大帝)「ロシア帝国建国」 帝都:ペトログラードロシア皇帝(インペラートル
    6. エカチェリーナ1世
    7. ピョートル2世
    8. アンナ
    9. イヴァン6世
    10. エリザヴェータ
    11. ピョートル3世ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家
    12. エカチェリーナ2世
    13. パーヴェル1世
    14. アレクサンドル1世
    15. ニコライ1世
    16. アレクサンドル2世
    17. アレクサンドル3世
    18. ニコライ2世 (帝政崩壊)

    ミハイル・アレクサンドロヴィチ(即位拒否)

    「ロシア帝国」の建国

    17世紀末、ロマノフ朝のピョートル1世がツァーリに即位し、西欧化政策を実施するに及んで、ようやくロシアはヨーロッパ諸国の外交関係の中で対等な国とみなされるようになった。ピョートルが西欧で用いられていたローマ帝国の皇帝の称号である「インペラートル」(皇帝)をロシア君主の称号として採用し、「ロシア帝国」を正式な国号にした。

    18世紀初めから第一次世界大戦中のロシア革命によって打倒されるまで存在した帝国である。

    ロシアを始め、フィンランドリボニアリトアニアベラルーシウクライナポーランドカフカーズ、中央アジア、シベリア、満州などの広いユーラシア大陸の北部を支配していた。

    1721年に、スウェーデンとの大北方戦争に勝利したロマノフ朝ツァーリピョートル1世が、元老院から皇帝の称号を贈られ、国体を「帝国」と宣言し、対外的な国号を「ロシア帝国」と称したのに始まる。

    ロシア帝国の源流はモスクワ大公国にある。

    モスクワ大公国は14世紀から15世紀にかけて、タタールや周辺のルーシ諸国と戦って勢力を拡大し、イヴァン3世のとき、初めて王の称号を名乗った。1480年にイヴァン3世はタタールの支配から独立した。

    イヴァン 全ロシア・ローマ皇帝

    1547年にはその孫イヴァン4世が「全ルーシのツァーリ」を自称し、モスクワ大公国の君主が全ルーシの君主であるという宣言が行われた。しかしこの称号は国内的な自称にとどまり、ヨーロッパ諸国との外交関係では、モスクワの君主は長らく「王」でもなく、単なる「モスクワ国の大公」として扱われている。

    イヴァン4世の死後、リューリク朝が絶え、国は荒れ、内戦に陥った。

    その混乱でヨーロッパへの進出が停滞したモスクワは、そのために国際的な地位は低いままに甘んじた。1613年、リューリク朝の外戚であったミハイル・ロマノフが、元老院からツァーリに任じられ、ロマノフ朝を開いた。

    ピョートル大帝の時代 近代化

    17世紀末、ロマノフ朝のピョートル1世がツァーリに即位し、西欧化政策を実施するに及んで、ようやくロシアはヨーロッパ諸国の外交関係の中で対等な国とみなされるようになった。ピョートルが西欧で用いられていたローマ帝国の皇帝の称号である皇帝をロシア君主の称号として採用し、「ロシア帝国」を正式な国号にした。

    ロシアの動乱時代はコサックの助力を得て、終息し、1617年にミハイル・ロマノフによってロマノフ朝が開基した。17世紀の終わりに、ピョートル大帝が即位すると、彼の強い指導力のもとロシアは旧弊を打破し、近代国家としての装いを急速に調えはじめる。

    最初オスマン帝国と争い、アゾフ海に進出、さらにスウェーデンバルト帝国大北方戦争を戦い、バルト海沿岸を獲得、そこを「西欧への窓」と位置付け、首都サンクトペテルブルクを建設し、そこを帝都とした。

    ピョートル1世以降のロシア帝国

    ピョートル大帝以後は、貴族同士の争いが熾烈となり、国政は停滞したが、エカチェリーナ2世の登場で、啓蒙主義に基づいた近代化がはかられた。一方で農奴の反乱「プガチョフの乱」は徹底的に鎮圧した。

    エカチェリーナ大帝の時代 領土拡張

    エカチェリーナ2世は領土拡大に熱心で、いわゆる「ポーランド分割」をオーストリア帝国プロイセン王国とともに行い、ポーランド東部を獲得した。

    南方でも、オスマン帝国との戦争などにより領土を黒海沿岸やクリミア半島まで広げただけではなく、サファヴィー朝との境のコーカサス地方にも侵略、これを併合したこのことは現在まで続くチェチェン紛争の原因となる。

    ロシア帝国は西方のアメリカ独立戦争にも干渉し、加えてアラスカ、千島にも進出し、アダム・ラクスマンと大黒屋光太夫とともに日本の江戸幕府に使わし交易を求めた。

    これは日本との北方領土を巡る外交戦争の始まりでもあった。

    アレクサンドル1世 ナポレオン撃退

    19世紀に移ると、アレクサンドル1世フランス革命に際して対仏大同盟に参加。

    1812年のナポレオン1世ロシア遠征に際してはこれを撃退し、1814年のウィーン会議後には神聖同盟を提唱し、自由主義運動の封じ込めを各国と連携して行った。

    ニコライ1世 デカブリストの乱

    次のニコライ1世のころにはデカブリストの乱が起きた。

    国内の不満をそらすために、対外戦争に乗り出し、ギリシア独立戦争エジプト・トルコ戦争に干渉し、「汎スラブ主義」の大義のもと「南下政策」を推し進めた。しかし、聖地管理権をめぐってオスマン帝国との間で起こしたクリミア戦争では英仏の参戦により敗北し、「南下政策」は頓挫する。クリミア戦争の敗北でロシアの後進性を痛感したアレクサンドル2世は1861年に「農奴解放令」を発布し、近代化の筋道をつけた。

    南下政策

    解放された農奴たちは農村で小作農となり、あるいは都市に流入して労働者となった。

    ロシアも産業革命が進むきっかけとなる。その一方清朝との間ではアイグン条約、北京条約を締結、極東での南下政策を推進した。さらに、ロシアの知識人の間には社会主義社会を志向するナロードニキ運動が始まった。

    アレクサンドル3世爆殺

    しかし、この運動は広い支持を農民から得られなかったことから、ニヒリズムに運動の内容が変質し、ついには1881年、テロでアレクサンドル2世が暗殺されることになった。アレクサンドル2世亡き後、後を継いだアレクサンドル3世は無政府主義運動を徹底的に弾圧した。

    ロシア帝国の衰退

    ニコライ2世の治世ではヴィッテ財務大臣によるフランス外資の導入による、重工業化が行われた。さらにシベリア鉄道の敷設も行われた。外交面では中央アジアを舞台にイギリスとグレート・ゲームを演じ、中央アジア進出が手詰まりに陥ると極東での「南下政策」を展開した。

    日露戦争勃発

    極東方面では清朝の満洲に進出し、遼東半島を足がかりに朝鮮半島への進出を企図したが、ロシアの南下を防ぐべくイギリスと日英同盟を結んだ日本と衝突。1904年に日露戦争が勃発した。ロシア帝国は国力において圧倒的に優勢だったが、満州を舞台に行われた陸戦では奉天会戦の敗北で日本軍の奉天進出を許し、海上でも極東に派遣されたバルチック艦隊が日本海海戦で完全壊滅したため、制海権を握ることは出来なかった。

    日露戦争に敗北

    日露戦争さなかの1905年の1月22日の「血の日曜日事件」をきっかけに労働者のゼネストが頻発し、ロシア帝国の体制の根幹をなしてきた「皇帝専制主義/ツァーリズム」も著しく動揺した。一方、日本側も経済的に戦争継続が困難になったため、両国が手詰まりに陥ったことを反映して翌1905年にはアメリカ合衆国の仲介でポーツマス条約が結ばれ、満州の利権を諦め、南樺太を日本に割譲することで戦争は終わった。

    帝政ロシアの南下政策失敗

    日露戦争の敗北により、事実上、極東での「南下政策」は失敗した。日露戦争後、極東を諦めてバルカン半島に外交政策を転じたロシアはイギリス、フランスと三国協商を結び、ドイツ帝国と対立する。汎スラヴ主義を掲げ、オーストリア・ハンガリー帝国と対峙するセルビアを支援することで、バルカン半島における影響力を維持しようとした。

    第一次世界大戦とロシア革命

    1914年にサラエヴォ事件が発生し第一次世界大戦が勃発すると、イギリス・フランスと共に三国協商を形成していたロシア帝国は連合国側に参戦した。序盤にドイツへと侵攻するが、ロシア軍の動員力の遅さを見越したドイツ軍の智将ルーデンドルフにより仕掛けられたタンネンベルクの戦いで、ロシア軍は完敗した。

    1917年のブルシーロフ攻勢など局地的勝利を収めつつも、決定的勝利は得られず、いたずらに戦死者の数は増えるばかりであった。

    ニコライ2世

    ニコライ二世は前線を視察して、兵士の士気を維持しようと努めたが、宮廷では怪僧グレゴリー・ラスプーチンが治世を牛耳るなど政治の腐敗が続き、長引く戦争による疲弊によって、国民は政府に不満をつのらせていった。

    2月革命

    1917年の3月8日の「国際婦人デー」において、首都ペトログラードのヴィボルク地区の婦人たちが、「パンをよこせ」というデモを展開したことから、10日にはロシア全土でストライキが発生。「戦争反対」「専制君主制打倒」の声が高まりゼネストが起きた。当局は11日には軍と警察による鎮圧を試み、流血をともないながらもひとまずは鎮圧にこぎつけた。

    12日にはヴォイニ連隊からデモ隊鎮圧に反対する兵士の反乱が発生し、他の連隊にもその動きが波及し、6万人に及ぶ、離脱者が続出した。彼らは労働者と合流し、3000人に政治犯の釈放を行った。

    「第1回ソビエト大会」

    首都ペトログラードにて革命の渦中になか、メンシェヴィキのチヘイゼが議長を務める「第1回ソビエト大会(執行委員は15人。うちボリシェヴィキは2人)」が開会された。

    国会でもこの混乱を受けて臨時会が開かれ、ゲオルギー・リヴォフ首相の就任が画策された。13日には労働者と一層多くの兵士が革命側に合流したため、事実上ロシア政府軍は統制が取れなくなった。

    露帝ニコライ2世退位

    第1次世界大戦の陣頭指揮のためにペトログラード南西のプスコフにニコライ2世は首都での革命的騒擾に対して、軍を派遣し、事態の沈静を図ったが、それが悉く失敗に終わり、回復が不可能であるとわかると、皇帝位を退くことを決定した。

    皇嗣のアレクセイ皇太子は病弱で、皇弟ミハイル大公も即位を拒否。ここに304年続いたロマノフ朝は終焉した。

    「皇帝退位」の報はすぐに、首都に伝えられ、新体制の建設がはじまった。臨時政府がその日の内に成立。リヴォフが首相に就任し、ソビエト副議長で社会革命党のアレクサンドル・ケレンスキーが司法相に就任した。

    新体制 ロシア共和国(臨時共和国)

    10月革命

    • 2月革命以後発足した体制は、臨時政府と労働者と兵士からなる「ソビエト」が並び立つ2重政府体制であった。
    • この年の4月にスウェーデンからペトログラードに戻ったレーニンは「ソビエト権力の樹立」を目標とする「四月テーゼ」を発表した。これがボリシェヴィキ(後のソ連共産党)の方針となる。
    • 多数派のメンシェヴィキと社会革命党は臨時政府との妥協と連立を目標とし、ボリシェヴィキを弾圧するようになった。
    • この年7月のデモでレフ・トロツキーは逮捕され、レーニンはフィンランドに亡命を余儀なくされた。
    • 9月にはケレンスキーが最高司令官に任命したラーヴル・コルニーロフ将軍が反乱を起こしたことで、メンシェヴィキの求心力が低下し、ボリシェヴィキが勢力を盛り返してきた。

    トロツキー政権

    • トロツキーは釈放後には早速ソヴィエト議長となり、10月25日には「軍事革命委員会」を設立した。
    • レーニンも秘密裏に帰国し、23日には武装蜂起を高々と主張したのであった。
    • このようなボリシェヴィキの動きに臨時政府は手をこまねいていたわけではなく、弾圧に乗り出した。11月6日にはボリシェヴィキの印刷所を閉鎖した。
    • これにボリシェヴィキの「ソビエト軍事革命委員会」は憤激し、武装闘争によって政権獲得を決定した。労働者を主体とする「赤衛隊」が首都の電話局や省庁などを占拠し、さらにクロンシュタットの水兵たちが、防護巡洋艦「アヴローラ」から臨時政府のある「冬宮」たいし砲撃で威嚇した

    「第2回ソビエト大会」

    • この日のうちに「第2回ソビエト大会」が開かれ、ソビエト政権の樹立が宣言された。翌日には冬宮は陥落し、ケレンスキーら閣僚の身柄が拘束された。
    • 前日から続く「ソビエト大会」にもこの知らせはもたらされるが、レーニンは「平和に対する布告」「土地に対する布告」を上程し採択。盛会裏に大会は終了した。

    ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国建国

    • 1917年11月に憲法制定議会の選挙が行われたが、社会革命党など反対派が多数を占め、ボリシェヴィキは少数派に留まったため、ボリシェヴィキは1918年1月の憲法制定議会開催の2日目に議会を武力で解散させ、以後、議会を開くことはなかった。
    • 1918年1月23日から、第3回労働者・兵士ソビエト大会が同月31日まで開催された。この大会では勤労搾取人民の権利が宣言されるとともに、新国家が「社会主義の建設を目的とする労働者、兵士、農民のソビエト共和国である」ことが確認された。
    • 土地社会化基本法案が採択。さらにヨシフ・スターリンによってロシア共和国は「諸民族のソヴィエト共和国連邦である」ことが報告された。
    • 開催から3日後の26日には農民ソビエト大会も合流し、参加者は1587名にのぼり、うち、ボリシェヴィキと社会革命党左派が大半を占めていた。この大会のよって世界初の社会主義国家ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の成立が宣言されたのである。

    ロシア内戦

    • ボルシェヴィキ革命の成功に警戒した列強の各国により「チェコ兵の救出」を名目としたシベリア出兵が行われ、それに連動する形で主に旧帝政軍を構成していた将校・貴族・自由主義者などを中心に組織された白軍との間で、ロシア内戦(1917年-1922年)が勃発した。
    • ボルシェビキ政府は赤衛隊を発展させた赤軍を創設し、白軍や干渉軍からソビエトの防衛を行った。レフ・トロツキー、ミハイル・トハチェフスキーなど優秀な将校により軍の規律を維持させる一方、恐怖政治を敷き秘密警察チェーカーにより赤色テロを行い、白軍の一派と見なした帝政時代の貴族・地主・軍人・コサック兵 を裁判なしで即座に大量に殺害した。

    ニコライ2世と一族惨殺

    退位後、監禁されていたニコライ2世とその家族も、1918年7月17日に、レーニンの命令を受けたチェーカーの処刑隊により、裁判なしに全員銃殺された。

    • また、革命派の中のメンシェヴィキや社会革命党などの他派をソヴィエトから完全に追放・逮捕し、裁判なしに殺害するとともに、反対するペトログラードの労働者や、自由選挙の保障、言論・出版の自由、政治犯の釈放、個人財産の所有権などを要求したクロンシュタットの水兵も容赦なく武力鎮圧して大量に銃殺した。
    • 戦時共産主義を標榜したボルシェヴィキ政府は内戦時に、全ての企業の国有化を行い、企業家や地主の大部分を殺害・追放した。
    • 農民も余剰をすべて徴発されたため、食糧を隠したり蜂起したりして抵抗したが、政府は彼らを「暴徒」とみなして弾圧し、女子供、老人をふくむ村民全員を銃殺することもあった。
    • これらの弾圧により、「労働者、兵士、農民の政府」が、帝政以上に暴力的に労働者や農民を抑圧する体制であることが明らかとなった。
    • ロシア正教に対しても弾圧を行い、教会破壊・教会財産没収だけでなく、ロシア正教聖職者数万人を殺害した。

    ロシア極東

    • 極東では、日本軍がイルクーツクにまで進出し、日本軍を恐れたボリシェビキは緩衝国家として極東共和国を建国した。
    • シベリア出兵に続き、ヨーロッパでも1919年2月にイギリスやフランスの支援を受けた新生ポーランドとの間にポーランド・ソビエト戦争が勃発した。
    • 相次ぐ革命への干渉に対し、ボリシェビキも外交攻勢をかけ、1919年3月には第三インターナショナル(コミンテルン)を結成して各国の共産党を糾合し
    • ボリシェビキ(ロシア共産党のちのソ連共産党)は世界革命を目指し3月中にはハンガリーにまで革命が波及し、ハンガリー・ソビエト共和国が建国されたが、既に1月にはローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトらによるスパルタクス団の蜂起が失敗しており、持ち直すことなくボリシェビキが期待をかけていたドイツ革命が失敗に終わると、革命ロシアの国際的孤立は解決されないまま緩衝戦争の和平が結ばれた。
    • この内戦に勝利することより、ボリシェビキはウクライナやカフカスの帝政派やアナーキストを平定し、同時に他派の存在を許さぬ、一党独裁体制を確立した。
    • 内戦により残されたのは荒廃した国土と破綻した経済であった。工業生産は大戦前の7分の1、穀物生産は5分の1へと激減した。1920~21年には500万人が餓死しており、この死者はレーニンの計画的な飢餓による市場経済廃絶の犠牲者とする見方がある。

    ソビエト社会主義共和国連邦の建国へ

    • ロシア内戦が終わった1922年、第1回全連邦ソビエト大会が開催され、12月30日にソビエト社会主義共和国連邦の樹立が宣言された。しかし、その僅か1年1ヶ月後の1924年1月、ウラジーミル・レーニンが死去した。

    歴代ロシア帝国国歌

    Флаг и Гимн России(1791-1816)

    Флаг и Гимн России (1816-1833)

    Гимн Российской Империи(1833年- 1917年)

    神よツァーリを護り給え Боже, царя храни(1833 -1917年)

    作詞 ヴァシーリー・アンドレーエヴィチ・ジュコーフスキー

    作曲 アレクセイ・フョードロヴィチ・リヴォフ

    採用時期 1833年

    採用終了 1917年

    Флаг и Гимн России (1914-1917)

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