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戊辰戦争の編集履歴

2013-06-29 20:46:17 バージョン

戊辰戦争

ぼしんせんそう

慶応4年/明治元年(1868年)に日本で起こった内戦。江戸幕府が崩壊し、新政府による支配を拒んだ東北地方の諸藩と幕府脱走軍が、西日本の諸藩を中心とする新政府軍に鎮圧された。

概要

幕末期の日本で起こった内戦。「戊辰」という名称は戦争が起こった慶応4年・明治元年(1868年)が干支の「戊辰」に当たるため。


戦前

※詳しくは「幕末」の記事を参照。

開国後も朝廷や親藩・外様大名の干渉を排除して政権を独占しようとする江戸幕府だったが、長州藩(萩藩→山口藩)に対する戦争で、その実態が弱体である事を露呈する。1回目は尾張藩(名古屋藩)主の徳川慶恕(慶勝)と薩摩藩(鹿児島藩)士の西郷隆盛により家老の切腹で矛を収めたのに、穏健策に我慢できずに2回目の戦争を仕掛けたのだが、薩摩をはじめ協力を拒む藩が続出し、幕府軍は各地で負けて停戦する羽目になった。この間に将軍の徳川家茂が病死し、徳川慶喜が第15代将軍となったのだが、慶喜は水戸徳川家出身で血縁関係が薄かったうえに、在位中は一度も江戸に戻らず、幕閣からはあまり好まれていなかった。

これを機に、長州藩と薩摩藩は同盟を公然化して、朝廷の倒幕派公家の復権や、諸藩の倒幕派が勢いを増す。

そこで慶喜は幕府に見切りを付けて、自分を中心とした新たな政権を樹立しようとするが、反幕府派の諸藩は、慶喜中心ではなく諸藩の合議による政権を志向するものもまた多かった。特に、慶喜と幕府の軍事力を警戒する薩摩藩や長州藩を中心としたグループは、新政権を樹立する際に徳川将軍家の力を削いで、新政府の基盤に組み入れる事を考えていた。もちろん、幕府に癒着した会津藩桑名藩新撰組などは、それを許すわけもない。

こうした妥協できない対立があったのだが、各勢力も一枚岩ではなく、大半の藩は被害を避けて政変をやり過ごす事を第一に考えていた。


戦争

大政奉還

慶応3年10月(1867年11月)、徳川慶喜日本の統治権を明治天皇の支配する朝廷に返上する「大政奉還」を実行。将軍職を辞した慶喜は、自らが諸藩を率いる、新体制国家での再起を図ろうとした。

しかし、薩長や土佐藩・尾張藩・安芸藩(広島藩)の雄藩は12月(1868年1月)に御所を占拠し、明治天皇から「王政復古の大号令」が発せられ、朝廷と雄藩による新政府が発足。明治維新が始まった。

続いて小御所会議が開かれ、慶喜の地位や財産、権力の返上と剥奪が決定。これを受け慶喜は幕府軍を率いて大坂城に入り、各国公使に対外交渉権は幕府にあると主張。各国代表もこの事態に不介入と傍観を決めた。

薩摩藩はあらかじめ手を回していた反幕府派の浪人達に、江戸だけでなく関東一帯で騒動を起こさせて幕府を挑発し、幕府方の庄内藩(鶴岡藩)が薩摩藩邸を焼き討ち。これを知った大坂の幕府軍は薩長との交戦を主張し、慶喜は主戦論に押され、「上奏したい事がある」と称して、大軍を京都に向けて出発させた。


京都戦

慶応4年・明治元年1月(1868年2月)、鳥羽伏見で旧幕府軍1万と薩長の新政府軍4500による「鳥羽・伏見の戦い」が発生。戊辰戦争が勃発した。数だけでなく、直属軍では兵器でも勝る旧幕府軍だったが、威圧で事が済むと思っていたのか、脇道をがら空きにして漫然と街道を進むところを、戦意と戦略に勝る倒幕派軍に撃ち崩されて混乱。当初、大名や公家には無関係を装う意見もあったが、西園寺公望の進言により、倒幕派を全面的に支持する事になり、これを機に新政府の実権を藩士中心のグループが掌握する。さらに朝廷は仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍に任じ、岩倉具視の発案で「錦の御旗」を与えた。これにより新政府軍は天皇の軍=「官軍」となり、これに刃向かう慶喜と旧幕府軍は天皇の敵=「賊軍」「朝敵」となってしまった。

老中を出している淀藩に受け入れを拒まれながら、敗北状態で大坂に退いた旧幕府軍はまだ戦力が残っていたが、慶喜は自分が「逆賊」となることを恐れ、松平容保を強引に連れて軍艦・開陽丸に乗って江戸へ敗走。残された旧幕府軍は総大将の逃走を受け戦意を喪失し、彼らも江戸へ陸路や海路で落ち延びた。


東海道・東山道戦~江戸制圧

江戸に帰り着いた慶喜は徳川家存続を図るため、徹底抗戦を主張する小栗上野介大鳥圭介を罷免し、大久保一翁を会計総裁、勝海舟を陸軍総裁に任じて、朝廷への恭順姿勢として上野寛永寺に篭った。登城停止になった容保は会津へ戻った。

一方西日本の諸藩を戦わずに味方とした新政府は有栖川宮熾仁親王を大総督宮とした東征軍を組織し、東海道東山道北陸道の三方向から東日本の江戸へ向け進軍。この際、「銃を持たない兵士は出すな」「名門なだけで無能な指揮官を出すな」と諸藩へ指令している。

勝は新政府軍の江戸総攻撃を避けるため、新政府軍との交渉を開始。山岡鉄舟を事前交渉の使者として駿府の西郷の下に向かわせ会談を取り付けた。熾仁親王の元婚約者の和宮、薩摩藩島津家出身の篤姫、寛永寺の輪王寺宮公現法親王(後の北白川宮能久親王)なども徳川家の助命と存続の嘆願を新政府側に伝えた。西郷と関係の深い英国公使のハリー・パークス横浜居留地が戦火に巻き込まれることを恐れ、新政府に総攻撃の中止を求めた。

この時勝は、最悪交渉決裂となった際は、江戸市民を退避させ、官軍を江戸に誘き寄せたら大量の火薬で江戸市中を焼き尽くす「焦土作戦」も準備し、また欧米艦隊による艦砲射撃の要請も考えていたという(本人談)。

総攻撃直前の3月、江戸の薩摩藩邸で勝と西郷が会談し、旧幕府軍の武装解除と徳川家存続が約束され、江戸総攻撃が中止。江戸が戦火に巻き込まれることは回避され、江戸無血開城となった。


しかし、徳川家の旗本や御家人が結成した彰義隊に、新政府軍に(多分に感情的な)反感を持つ武士が集まり、新政府軍への殺傷が相次いだため、西郷に代わって大村益次郎が江戸に赴任し、5月寛永寺に篭る彰義隊を新政府軍が攻撃し、元々戦略も勝算もなかった彰義隊をあっさりと壊滅させた。

この間に、榎本武揚は江戸湾の軍艦8隻を率いて北へ逃亡し、大鳥ら陸軍脱走部隊が関東各地へ散らばって新政府軍と戦う。

近藤勇が率いる新撰組の生き残りは、新たな兵を加えて甲陽鎮撫隊として甲府へ向かうも、乾(板垣)退助の軍勢に敗北、これを機に隊は分裂状態となった。


また、各地の倒幕派(庶民や神主など様々)も、倒幕派の公家を奉じて参戦しているが、小戦力であるためあまり知られていない。赤報隊の相良総三は東山道を進軍したが、道中の諸藩とトラブルを起こした事が元となり、偽官軍と見なされ、総三は捕縛され処刑された。


北陸・東北戦

新政府軍は京都守護職を務め攘夷派志士を摘発した松平容保の会津藩と、江戸で薩摩藩邸を攻撃して開戦の契機を作った庄内藩を処罰するため、1月に東北各藩に会津・庄内討伐を命じた。これに対し仙台藩や米沢藩を中心に東北・北越の諸藩は閏4月(6月)に「奥羽越列藩同盟」を結成し赦免を求めるが、新政府から派遣された世良修造を仙台藩や福島藩の保守派藩士が謀殺し、なし崩しに反新政府軍事同盟に移行。輪王寺宮を「東武皇帝」に即位させる計画もあったという。

しかし、元々寄せ集めの勢力のうえに、小藩は大藩に逆らえずに同盟に加えられた所が多く、軍事力も戦意も一部を除いて低かった。寄せ集めでも中心となる勢力が強いのならまだしも、仙台藩は知行地を持つ家臣が多過ぎて軍勢の統率がろくに取れず、会津藩も精鋭が既に大勢戦死しているうえに領民との関係が弱く、新政府に逆らう気のない秋田藩や弘前藩はすぐに新政府軍へ寝返った。北越方面では河井継之助率いる長岡藩がガトリング砲で抗戦の末に一時は新政府軍を押し返すも敗北。白河城は少数の新政府軍に大軍が無様に敗れた挙句、奪回に連続で失敗して屍を晒し、そのまま北上されて二本松藩まで占領される。平藩や周囲の小藩も次々に落城し、仙台藩へ直接攻撃が及んだ。

ついに新政府軍は会津藩境を突破し、兵力をほとんどすべて前線へ張り付けていた会津藩の防衛は崩壊。会津藩は若松城で籠城を続け、山本八重白虎隊斎藤一なども戦うも、激戦の末会津は壊滅状態となり、9月に降伏。その間に米沢藩や仙台藩は降伏し、優勢に戦いを進めていた庄内藩も情勢の悪化に伴い降伏した。


北海道戦

10月、北海道函館にいた榎本は大鳥や土方歳三とともに、旧幕府海軍を中心に独立国家「蝦夷共和国」を計画。欧米各国に国家承認を働きかけるも、各国共に内戦と見なして中立とした。

新政府軍との攻防が続き、明治2年(1869年)に新政府軍が総攻撃のため上陸し、榎本軍は五稜郭で篭城するも、土方は戦死し、5月に降伏。

函館の攻防の終結をもって、戊辰戦争は終結した。


戦後

慶応4年7月に新政府は江戸は「東京」と改名。9月に元号を「明治」と決定。10月に明治天皇が江戸城に入城。明治2年には政府が東京へ移り(東京奠都)、近代国家に向けて新時代が幕開けした。徳川宗家は徳川家達が継承し、静岡へ移るが、領地の減少に伴い家臣の多くが東京に残った。


戦勝した側には功績に応じて新政府から褒賞が与えられたが、江戸時代とは違い、領地の加増ではなく新政府からの支給となった。大名や公家は一部を除いて閣僚から退き、倒幕派の元藩士が政治の中心となる。幕臣のうち技術や政治能力を持つ者も新政府に登用され、新たな中央政府の基盤を支えた。

敗戦した側は、領地を削られ、責任者とされた一部の家老は切腹させられるが、大名は一人も処刑されず、領地を完全に取り上げられた大名も一人しかいないという、関ヶ原の戦いに比べてもかなり甘い処分に落ち着いた。会津藩や仙台藩は大幅な減封を受けているが、庄内藩は領民との結束が強い事と、反幕府派の弾圧に関わっていない事もあるのか、あまり厳しい処分を受けなかった。藩士の子孫は特別な弾圧を受ける事はなく、原敬新渡戸稲造のような政界での有力者も出している。


結局は、大名は廃藩置県により領地(と藩の借金)から切り離され、公家とともに華族となる。武士も士族とはなったが、新政府に職を得られなかった武士の大半は、なすすべもなく没落するか、新たな生計の道を見出すしかなかった。旧勢力とそれに伴う既得権を切り捨てた新政府は文明開化による富国強兵を目指し、置いて行かれた守旧派の公家や、戦勝した側の藩で没落した元藩士達が不満を抱え、士族の反乱(西南戦争など)や自由民権運動へと発展するが、それらの結果は「明治時代」という新たな時代の事である。


関連イラスト

鳥羽街道の幕府軍(慶応四年正月)尊王攘夷


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日本史

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