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天満大自在天神

てんまんだいじざいてんじん

天満大自在天神とは死後祀られた菅原道真の神としての号である。
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概要

平安時代の貴族菅原道真は、死後に神(人物神)として祀られた。

陰謀にハメられ太宰府に左遷された彼が、無実を訴えて天に祭文をあげた際に、天界から帰ってきたのが「天満大自在天神」の号を含む祭文であったという。
天に祭文をあげた場は現在の福岡県筑紫野市の「天拝山」と伝わる。この山の名称そのものが道真が幾度となく天を拝するために登った山であることにちなむ。

太宰府天満宮の前身である道真の墓廟「天原山庿院安楽寺」の設立者も、道真から「天満大自在天神」の号を託宣で示されたとされる。
この他の呼称として「日本太政威徳天」「大聖威徳天」「実道権現」がある。一般的には「天神」と呼ばれ、福岡県福岡市中央区の一等地の地名にもなっている。

彼の死後、生前に讒言によって道真を失脚させ、事実上の流刑に追いやった藤原時平が若くして急死、また都を落雷や流行病が相次いで襲い、更には御所清涼殿(天皇が政務を執る宮殿)建屋に雷が直撃し、大納言らが死亡するという出来事が立て続けに起こった。これらは道真の祟りと解釈された。

災いが相次いだ京では少女と少年に神託が下ったとされ、太宰府天満宮創建から28年後、北野の地に彼の魂を鎮めるため北野天満宮が建てられた。この二つの天満宮は天神信仰の総本山的な位置を占めている。

神徳

怨霊として畏れられる一方、文武両道かつ多芸ぶりを発揮する才人であったこともあり、道真が得意とした学問や詩作といった分野の神とみなされるようになった。
伝承では雷雨を操ることから一種の天候神の性質を帯びた彼は、雨を求める農業関係者からも信仰されることになり、農耕の神とも見なされる。
石榴天神のエピソードで顕著な、火をもたらし、なおかつ火を消す水を操る側面からか、天神としての道真は水難と火難を退けるともされる。京都市上京区の「水火天満宮」はこの恩恵を求めて道真を祀ったものである。

生前のエピソードや後世に付加された逸話や説話は、そのシーンを再現した絵や像としても作成され、天神・道真が持つ諸相とも認識される。

エピソードの舞台となった場所にその特徴となる語句をつけた「○○天神」と呼ばれる神社が建てられることもある。

神使はスズメ目アトリ科ウソ属)。生前の道真が太宰府で神事を行っていると、真冬だというのに突如現われた蜂の大群が乱入し神事の参列者を悩ませた。そのときウソの群れがやってきて蜂を食い尽くしたという。これは天満宮、天神社で行われる「鷽替え神事」のもとになった。この神事では木製の「木うそ」が用いられる。

○○天神

以下のそれぞれの「○○天神」は絵巻物の一場面として描かれることもある。独立した像や絵として作成されるのは主に束帯天神、縄敷天神、騎牛天神、渡唐天神である。

  • 束帯天神
朝廷の公事の際に官人が着用する正装「束帯」をまとった菅原道真。天神像の基本形とも言え、最も一般的である。
他の人物神系の神像(加藤清正応神天皇八幡神など)とデザインが被ることもあるが、像のどこかに梅の花のマークがある場合天神像と判断できる。

生前のエピソード

  • 露天神


大阪府大阪市北区曽根崎二丁目の露天神社に伝わる伝承で、神社名を物語る説のひとつ。太宰府に飛ばされる途中、道真が都を想い、一首「露とちる 涙に袖は朽ちにけり 都のことを思い出づれば 」と詠んで涙を流したという。

  • 綱敷天神
太宰府に流される途中のエピソード。敷物すらないため、舫い綱(船を岸に繋いでおくための綱)をぐるぐる巻きにしてそこに座った様子を描く。武田信廉筆の世を儚むような表情の絵や花嶽山梅林寺(東京都・曹洞宗)所蔵の怒りを噛みしめたような表情の像がある。忿怒形の作例が多い。
梅林寺の伝承では縄の上に座らないといけない身の上を嘆いた道真が土地の人に「これは帆綱で自分には命綱だから都の敷物に決して劣らない」と諫められている。
  • 水鏡天神
同じ表記の伝承を有する二つの神社がある。場所が異なり、伝承の内容も異なる。一つは奈良県奈良市五条町の「水鏡天神社(みずかがみてんじんしゃ)」の伝承で、ここに立ち寄った道真が、本殿の右にある井戸に自分の姿を映した、というもの。もう一つは福岡県福岡市中央区天神の「水鏡天満宮(すいきょうてんまんぐう)」の伝承で、流され博多に上陸した道真が、太宰府に行く途中に四十川(現在の薬院新川)の水面に浮かんだ自分を見て、その変わり様を見て嘆く、というもの。

死後のエピソード

  • 石榴天神

『北野天神縁起絵巻』によると、比叡山延暦寺にいた天台座主・尊意の前に現われた道真が「梵天と帝釈天の許可をもらったので復讐する。天皇からお願いされても自分を止めようとしないでほしい」と言ったが、「天皇から二度三度も頼まれたらそういうわけにもいかない」と返したため、道真は怒りその場にあった石榴を口にすると種を吐き出した。それらは燃え上がる炎になった。戸に着火し火事になりかけるが、そこを法力でどうにかした尊意は道真の霊を追いかける。鴨川に来た所で急に河の水が増大し氾濫したが、これも法力でどうにかした尊意はかいくぐった先に居た道真のもとに辿り着き何とか説き伏せることに成功。それまで激しく轟いていた雷雨もぱったり止んだという。

  • 火雷天神
平安京の清涼殿で起こった落雷事件による呼称。「火雷天神」という呼称はこの事件以前からあったもので、必ずしも道真と結びつけられない。例えば下御霊神社の祭神にも火雷天神の名があるが、この神社の説では道真とは別存在(他の祭神六人の荒魂、あらみたま)とされる。北野天満宮の境内には本神社創立前から「火之御子社」があるが、この社の祭神である「火雷神(北野雷公)」の属性を吸収(習合)したものともされる。『日蔵夢記(道賢上人冥途記)』では道真が火雷神のことを自分の眷属だと言っている。
  • 騎牛天神
各地の天満宮、天神社で神使とされる牛を乗りこなす菅原道真。北野神社(牛天神)の伝承によると、源頼朝(道真の時代から約300年後の人物)が東国追討のおりに見た夢に牛に乗った天神が現われ、これから二つの幸せがある。戦に勝ったなら社を建てるように、と言ったという。
その年の秋に息子の源頼家が産まれ、翌年には自分が出向くまでもなく平家を鎮圧することに成功した。これに感謝した頼朝はこの神社を建てたという。

南北朝時代の『両聖記』の記述にあるエピソード。中国の径山(きんざん)の高名な禅僧で聖一国師の称号を持つ無準(むじゅん)師範のもとに行って弟子となった時の姿。
生前の道真が(中国)に渡ったことはない。無準も同時代人ではなく後世(約300年後)の人物である。無準の時代には王朝が南宋になっているため「渡宋天神」ともいう。
この伝承においては道真は「天神」と呼ばれ神通力を使ったりもしており、死後、神になった道真が無準に会いに行くという形である。

本地

本地垂迹説において、十一面観音が本地仏とされる。『天神経』においては十一面観音の種字と真言が記される。
十一面観音本地説は北野天満宮と太宰府天満宮を中心に説かれた説で、太宰府天満宮に本地仏として安置されていた十一面観音像は明治時代に大興善寺(天台宗・佐賀県)に移されている。

道真自作とされる十一面観音菩薩像が複数伝わっている。道明寺(真言宗・大阪府藤井寺市)の像はその代表例。北野天満宮の神宮寺「春日寺(現:東向観音寺)」にも道真作とされる十一面観音像があり、本尊とされる。本仏像は太宰府の筑紫観世音寺から961年に移された。

天神にちなむもの

  • 赤兵子天神(赤へこ天神)

大分県の郷土玩具。宝泉寺(現在の大分県玖珠郡九重町の温泉地)に逃げ延びた道真が現地の老婆に助けを求めたおり、赤い湯文字(和服の、女性用の下着、腰巻き)に隠れて難を逃れたという言い伝えがある。見た目は官服の袍(ほう、上衣、上着)の部分が赤い道真像である。

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