経歴
プロ入り前
2010年、大阪桐蔭高校へ進学し、1年生の夏からベンチ入り、2年春からエースとなった。
2012年、3年生の時に挑んだ春のセンバツ・夏の甲子園では主戦投手として、大阪桐蔭の春夏連覇に貢献。森友哉とバッテリーを組んでいたほか、大谷翔平や後にチームメイトとなる北條史也ともこの時対戦をしている。
同年2012年のドラフト会議で阪神タイガース、オリックス・バファローズ、東京ヤクルトスワローズ、千葉ロッテマリーンズの4球団から1位指名を受け、抽選の結果、阪神が交渉権を獲得。阪神ではかつて巨人キラーと銘打たれていた小林繁が付けていた背番号「19」を継承した。
プロ入り後
NPB時代
ルーキーイヤーの2013年の4月には3勝を挙げ、松坂大輔の持つ高卒選手のプロ初月間勝利数2勝を更新した。その後も順調に成績を重ね、10勝6敗 防御率2.75でフィニッシュ。
松坂大輔以来の高卒初年度における月間MVP、田中将大以来の高卒初年度10勝を記録。新人王は16勝の小川泰弘が選ばれたが、13勝の菅野智之とともに新人特別賞を受賞。
2年目の2014年では、当初こそフォーム改造などもあり苦しんだが、以後は復調し勝ち星を重ね、
シーズン残り2日を残して11勝8敗、防御率3.53を記録。高卒初年度からの2年連続10勝は、平成では松坂大輔以来となる2人目となり、奇しくも両方が高校時代に春夏連覇を達成している。
2015年シーズンは体幹も強くなりフォームも安定し28試合に先発登板、14勝7敗、221奪三振でセ・リーグ奪三振王のタイトルを獲得。高卒3年目での200奪三振はダルビッシュ有以来。
プロ入りの頃よりコントロールに難があり四死球の多い投手ではあったが、2017年頃から失投が右打者の頭部に、左打者の膝元にそれぞれ向かっていくという悪癖を露呈し始めるようになる(この悪癖は現在も完全に修正されるに至っていない)。右打者の頭部に向かっていく失投は比較的スピードの出ない変化球が抜けるケースであることが殆どで、一部で誤解されている「160km/hの剛速球が頭部に向かっていく」ことはまずないが、それでも頭部への投球は安全に関わることから問題視され、登板機会は激減することとなった。
2019年以降はこの悪癖が更に悪化、オープン戦では対戦相手も藤浪の登板時は選手の安全を理由に勝敗度外視で全員左打者を並べるにまで至ってしまっている。
実際2019年当時の中日の村上隆行打撃コーチは、8月1日の対阪神戦での藤浪の登板時(この日は4回1/3を投げ1失点、藤浪に勝敗つかず。試合は阪神3-2で勝利)に「正直言って危ないんでね。いつもぶつけられている。『勇気を持って死ぬ覚悟でいけ』とは言えない」との辛辣なコメントを残している。結局、この年の公式戦での登板はこの1試合だけに終わり、プロ入り初の未勝利に終わっている。
2020年3月26日に『数日前から匂いを感じなくなった』という理由で、COVID-19のPCR検査を受け、翌27日に球団よりチームメイトの長坂拳弥、伊藤隼太らと共に陽性であることが公表された。日本プロ野球では初の感染を公表した選手となった。
以前からの暴投癖で結果を残せず、遂に見限られて二軍落ちしたことや、この感染などで(主になんJ民から)様々な誹謗中傷を受けていたが、2020年9月から主力の大量離脱に伴い、復調へのリハビリも兼ねてか中継ぎで緊急登板したところ、短いイニングで全力で投げられたこともあってか徐々に復調、荒れ球もいい具合に改善され、ストレートに関しては自己最速の162㎞/hを叩き出すまでに至った。シーズン終盤には先発に復帰して、勝ち星こそつかなかったものの3試合で失点1(自責点0)という成績を挙げており、以後のシーズンの復活が大いに期待されることになった。
2021年には、開幕投手の本命であった西勇輝が持病の喘息に伴う調整の遅れもあり、9年目にして自身初の開幕投手に任命される。荒れ球や与四球こそ変わらず目立つものの、ピンチで大崩れすることがなくなり、先発としてある程度試合を作れるようになるなど、昨年後半の投球内容を継続。2試合連続で不運が重なり白星を逃すも、3戦目にして相性抜群の横浜スタジアムにて、昨年とは異なり、安定した内容での先発白星を飾り、ようやく長い不振からの脱却を印象づけた。
2022年には、またしても開幕投手の本命であった青柳晃洋がCOVID-19感染により伴う調整の遅れもあり、2年連続の開幕投手に任命される。7回3失点と試合を作ったが、またしても勝ち星はつかなかった。後にCOVID-19に感染してしまい、復帰後は二軍で安定した投球を披露していた。しかし他の先発ローテメンバーが非常に安定していたこともあり付け入る隙がなかったため、しばらく二軍生活を送る羽目に。しかし、後半戦になると、縦に腕を振り下ろすフォームに変えたところ、これまでの制球難が嘘のように改善され、以前のような危なげな投球もなければ、然程大崩れすることなく試合を作れたりと先発としての役割を再度果たす様になった。
MLB時代
- アスレチックス時代
「不振はあったものの、高い潜在能力からMLBで復活できるのではないか」という関係者の声から、シーズン終了後ポスティング制度を申請し、オークランド・アスレチックスと1年契約。しかし、ここにきて制球難が再発してしまい、先発する度に試合をぶち壊し続けて日米双方のファンを騒然とさせた。結局、先発としては再度匙を投げられてしまうこととなったが、その後コーチ陣が「いい球を投げようとするものの、力み過ぎて制球力が乱れてしまう」性質を見抜き、「ストライクゾーンど真ん中に向けて投げ込む」指導により、中継ぎに半ば強制的に転向させられてからは投球が安定し、打者を抑えることができるようになった。その結果、中継ぎでありながらアスレチックスでシーズン最多となる7勝をマークするという珍記録を作っている。
- オリオールズ時代
その改善点を買われ、シーズン途中の7月19日に電撃トレードでボルチモア・オリオールズに移籍した。
オリオールズは、この年は序盤から絶好調で、長らく貼られていた弱小球団のレッテルを剥がしてなおかつ地区優勝も狙えるほどであり、レイズと激戦を繰り広げていた。そのオリオールズでは、鉄壁のリリーフ陣の補完役としてしっかり役割を果たし、メジャー挑戦1年目にして地区優勝およびポストシーズン進出を経験することとなった。奇しくも古巣の阪神タイガースが、18年ぶりに優勝を決めた数日後のことである。しかし、怪我の影響等もあり、ポストシーズンではスタメンから外されてしまい、チームもリーグ優勝決定戦に進むことすらできずに無念の敗退、日本選手所属チーム最高総合成績である6位(2回戦敗退チームの勝率から換算)となった。
- メッツ時代
2023年シーズン終了後にフリーエージェントとなり、2024年2月2日(現地時間)にナ・リーグ東地区の名門であるニューヨーク・メッツへと移籍することが発表された。メッツには前年度から千賀滉大選手が所属しており、彼と思いがけない形でチームメイトになることにもなった。
しかし、オープン戦で課題であった暴投癖が再発してしまい、思うような結果を残せなかったこともあり、とうとうマイナー(MiLB)に降格。メジャー2年目は苦難の船出となった。
人物
- 2m近い身長が特徴で、小学校卒業時にはすでに180cm、中学校卒業時で194cmあったという。高校生時代は「なにわのダルビッシュ」と呼ばれ、プロから注目された。
- 阪神の球団寮「虎風荘」に入寮した際、すでに置いてあったベッドでは小さ過ぎたため、彼の身長に合ったベッドを新調した。
- 大阪桐蔭高校時代の恩師・西谷浩一監督はベビースターラーメンが大好物。毎年1月に母校・大阪桐蔭を自主トレで訪れた際には、西谷監督へ必ずベビースターラーメンの差し入れをしている。
- 大阪府出身だが、寮や自室にグッズを飾るほどの大の読売ジャイアンツファンであり、現在も変わっていない事を公言していた。
- 東野圭吾、山田悠介の小説を愛読している読書家。
- ヒーローインタビューの際に必ずと言っていいほど「必死のパッチ」を口にする。この「必死のパッチ」の元ネタは元阪神捕手(後に監督も務めた)矢野燿大であり、矢野自身は関西ローカルのスポーツニュースで藤浪の話題の際に「俺の”必死のパッチ”をパクリやがった」と話している。
- なんJ及びなんJ語を知っており、SNS上でファンとの交流ではなんJ民であることを隠そうとしなかった。ただし見るのはまとめサイト等であり、なんJそのものは見ていないとのこと。
- 大谷翔平とは同学年であり、高校時代から対決したり、共に高校を卒業してそのままプロ入りし、大谷の後を追うように藤浪もメジャーに挑戦する等何かと因縁があった。
- 大谷はかつて藤浪をライバル視していたが、大谷が次第に成績で水をあけるようになったことや、大谷と藤浪の野球への取り組み姿勢が対照的になるにつれて、次第に疎遠になったとされる。
- なお、しばしば勘違いされがちだが、あくまで疎遠になったというだけで、仲が険悪になったというわけではない。実際、両者がMLBで久々に再開した際には笑顔で挨拶を交わしていた他、大谷がホームラン王になった際には藤浪も大谷を祝福するコメントを寄せていたりする。
- しかし、皮肉にも先にMLBでポストシーズン進出と地区優勝を味わったのは藤浪の方であり、一方の大谷はチームの深刻な低迷もあり、MLBに挑戦して6年目となり、なおかつメジャーの歴史を次々に塗り替えるほどの活躍をしていながら、未だにポストシーズン進出を果たせていない。このエピソードは、チームスポーツである野球の奥深さとある種の残酷さを示す好例として、ファンの間で度々話題に挙げられることが多い。
- 大谷はかつて藤浪をライバル視していたが、大谷が次第に成績で水をあけるようになったことや、大谷と藤浪の野球への取り組み姿勢が対照的になるにつれて、次第に疎遠になったとされる。