概要
日本初の実用的な国産内燃機関車。
系譜的には国産ディーゼル機関車の先祖にあたる。
正式名は「石油発動機関車」だが、創業社長であった福岡駒吉の名を取って一般に「駒吉機関車」と呼ばれる。
最後まで運行されていた南筑軌道にちなんで「南筑の豚」とも。
見た目は蒸気機関車によく似ているものの、動力源は単気筒の焼玉エンジン(漁船や農機具によく使用されていた古典的かつ簡素なエンジン)である。
軽便鉄道で客車を牽引していた馬を代替する目的で設計され、当時の法令では客車の牽引は1両のみと定められていたため、パワーは5馬力と必要最低限に低い。
価格は1500円。現在の価値で570万円程度である。この価格は、同社で製造していた客車よりも安価(客車1両2000円)とされていた。
1904年から製造が開始され、九州地方、主に福岡県や佐賀県の軽便鉄道で普及した。もっとも多く導入した事例は路線延長の長かった筑後軌道の47両といわれている。一部は朝鮮半島にも輸出のうえ使用された記録も残されている。
低価格だったこともあり、当初は馬車鉄道や人車軌道の置き換え手段として注目された。しかし、設計の甘さとまだ黎明期の製造技術ゆえに品質はお世辞にも高いとは言えず、チェーンの破断やオーバーヒートなどの故障を頻発。
メーカーも後に改良を加えているが、それでも安定して稼働させることは難しかった。
前述のとおり通常で5馬力、後に排気量を増大する改造を行った車両でも7馬力という低出力も問題になった。
さらに、粗悪な燃料(本来焼玉エンジンの燃料は灯油か軽油が最適だが、重油を使用している事業者も多かった)からくる排ガスの悪臭や、焼玉エンジン特有の「ポッポッポッ」という騒音も問題で、やがて国産蒸気機関車が普及すると法改正によって連結両数も緩和されたこともあって出力が低く故障も多い駒吉機関車は淘汰されてゆき、1910年には生産を終了。
残存車両も、1940年まで南筑軌道で使用されたものを最後に全車が引退。総製造数は60両から80両といわれている。
戦時供出により鉄資源としてリサイクルされたものと思われ、保存車は残っていない。
このように現存車両が1両も無く、正式な形式名も存在しなかった車両であったこともあって近年まであまり注目されていなかったが、ニコニコ動画の「迷列車で行こう」シリーズで紹介されたことから有名になった。
またネコパブリッシングが出版する書籍「RM LIBRARY」においても、第115巻にて本機関車が紹介されている。
評価
世界的に見ても非常に早い段階で生まれた内燃機関車(アメリカ初の気動車マッキーン・レールモーターが製造開始されたのは1905年)であり、性能はさておき存在自体はエポックメイキングなものであった。
また、整備性を考慮した設計は実効があり、故障しやすかったものの(部品取り車さえあれば)復旧自体はあまり苦労しなかったようである。
これは、先述の通り焼玉エンジンの汎用性から、漁業や農業従事者は扱い慣れていたことが大きい。
事実最後に運用されていた南筑軌道では保有していた20両のうち少なくとも5両を稼働させ、残りは部品取りとしていたようである。
時を経て、1992年に誕生したJR東日本の209系は、「重量半分・価格半分・寿命半分」を掲げて設計された。
重量はさておき、価格と寿命、つまり安いものを短いサイクルで使い切るという考え方は、結果的にではあるが駒吉機関車に通底するものであった。
生みの親である福岡駒吉は、駒吉機関車の発売から6年後の1910年に逝去しているが、このような事実を鑑みると、彼の優秀さと先見性がうかがえよう。
関連項目
有田鉄道:本州で唯一導入した鉄道会社。
朝倉軌道:初期に導入していたが、同時に購入した蒸気機関車の方が性能が良かったため使用は短期間にとどまった。
クラユカバ:駒吉機関車に4脚を生やしたような装脚機械「ツチブタ」が登場。4脚のほか鉄輪を装備しており線路上も走行可能。
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