概要
『銀河英雄伝説』小説第8巻の第五章、並びにOVA版第82話のタイトル。
イゼルローン軍の最高司令官ヤン・ウェンリーが銀河帝国皇帝ラインハルト・フォン・ローエングラムとの和平交渉会談に向かう途中、地球教のテロリストに攻撃され、凶弾に倒れた後に、ナレーターが言った台詞でもある。
宇宙暦800年6月1日2時55分。ヤン・ウェンリーの時は、33歳で停止した…
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・・・銀河の歴史が、また一ページ・・・
悲劇の発端
事の発端は宇宙暦800年/新帝国暦2年4月から5月にかけて行われた会戦、通称『回廊の戦い』に始まる。
新銀河帝国皇帝ラインハルトは自由惑星同盟を併呑し、完全に滅亡させて全宇宙の統一を果たしたもののイゼルローン要塞に立て籠もったヤン・ウェンリー一派を討伐するために15万を超す大軍を率いて出兵する。
ヤンもラインハルトと講和を行うためにも3万にも満たない寡兵を率いて迎え撃とうとしていた。
だがこの会戦の裏側ではラインハルトとヤンの和平を阻止しようとする地球教が暗躍しており、手始めとして手薄になったハイネセンの精神病院に幽閉されていた元同盟軍のアンドリュー・フォークを拉致・洗脳し、ヤン暗殺のための準備を整えていた……。
悲劇の全容
回廊の戦いの終結後、ラインハルトはヤンと直接会見を行いたいと声明を発し、これを受託したヤンは激戦後の一時の休息を挟むと彼らが身を置いていたエル・ファシル独立政府の首脳陣と共に巡航艦一隻のみで回廊の出入り口で待機しているラインハルトの元へと向かう。
ところがその道中、帝国軍から「アンドリュー・フォークがヤンを暗殺しようとこちらに向かってきている」という通信が入り、直後にはフォークが強奪した武装商船がヤン達を襲撃する。
そこへ救助に現れた帝国軍の駆逐艦はフォークの武装商船を撃沈し、ヤンをラインハルトの元へ案内する前に直接挨拶をしたいと申し出たため、ヤンはそれを受託する。
……これこそが、地球教の仕組んだ罠であった。
実は救助に現れた帝国軍は軍内部に根を張っていた地球教徒の一団で彼らこそがヤンを暗殺するための本命の刺客であり、フォークはヤンを油断させるための餌として利用された単なる囮に過ぎなかったのである。
巡航艦に乗り移ってきた地球教徒達はエル・ファシルの首脳陣を始め、随行してきたパトリチェフやブルームハルトを次々に殺害し、彼らと共に決死の抵抗をしたスーン・スールまでもが重傷を負う。
ヤンを保護するために駆け付けたユリアンらローゼンリッターは地球教徒たちを排除しながらヤンを捜すものの、艦内を一人彷徨っていたヤンは不運にも地球教徒の一人に遭遇。そのまま射殺されてしまうのであった。
ちなみにヤンの死因は、左大腿部の動脈損傷による出血多量であった。
人間の足部は血管系その他が集中しており、現実でも致命傷になり得るものである。作中では装備や設備さえ整っていれば応急処置が可能な技術が確立されていたが、ユリアンらが駆けつけるのが遅れたため「時すでに遅く」絶命に至った。
重要なのでもう一度書くが、ヤン・ウェンリーは足を撃たれた『だけ』で死亡したのである。
悲劇が与えた影響
そもそも地球教がヤンを暗殺するに至った理由は大主教ド・ヴィリエの考えにある。彼の狙いは帝国軍とイゼルローン軍の共倒れではなく、帝国(皇帝ラインハルト)にあえて全宇宙の権力を集中させておいて、周りの部下の裏切りを仕込んで皇帝を暴君に貶め、裏で地球教が牛耳る傀儡政権化させる事にある。そのため、あくまで民主共和主義を守ろうとしているヤンの存在は邪魔者以外の何物でもなかった。
そこで、フォークを泳がせた上で帝国軍に偽装した教徒を送り込みフォークを抹殺、ヤン一行の信用を得た上で艦艇に侵入、ヤンを暗殺した上で「ヤンを殺したのは帝国軍である」と宣伝してイゼルローン側(エル・ファシル独立政府)に帝国軍に対する怒りを集中させる。兵力の差は圧倒的に帝国軍は上であり、しかもヤンを失った事で士気が大幅に下がり民主共和主義者達は瓦解、残りの兵力は怒り任せの戦いに挑んで自滅するだろう…という狙いである。
ところが、フォークの情報を流すより一早く、フェザーンの商人ボリス・コーネフがイゼルローンにフォークの情報を伝え、ユリアンやローゼンリッター連隊が救援に向かった事で、結果的にヤン救出はできなかったが、暗殺したのは帝国軍ではなく地球教徒である事が露見してしまった。これにより帝国・イゼルローン両軍ともにほぼ休戦状態となり、お互いの憎悪より「地球教は共通の敵」という認識を持たせることになった。
実際、その後ラインハルトはヤンという強大な敵を失った事で失望し、弔問団を派遣した上で、絶望に満ちたイゼルローンを潰すことなく撤退を決定する。帝国軍の上官達も突然宿敵がいなくなった事に失望感はぬぐえず、「皇帝(カイザー)も標的になる可能性がある」という意識を植え付けることになった。特に前年に地球教討伐作戦に向かい本拠地を壊滅させたと思っていたワーレン提督は地球教の残党がいたことに憤りを見せていた(ラインハルトは地球教を壊滅させてなかったワーレンに対してとがめることはなかったが、かえってそれが彼にとって忸怩たる思いをいだかせている)
一方のイゼルローン側は、当然皆絶望感に満ちて結局エル・ファシル政府は瓦解、多くの者がイゼルローン要塞を離れて、残存兵力によって後のイゼルローン共和政府が誕生するのだが、帝国軍から弔問団として訪れたミュラー提督らを受け入れたり、後のロイエンタールの叛乱の際は、挟撃のためメックリンガー提督がイゼルローン回廊通過の許可を要請した際に容認するなど、柔軟に対応している(もちろん将来の考えも含めて決断したのだが)。ユリアン自身は共和政府軍司令官になった際に「帝国に議会と憲法を作り、立憲民主制に移行させる」という目標とは別に、「ヤン暗殺の黒幕である地球教の壊滅」も目標の一つに掲げており、そしてそれは後の最終話にて「帝国軍との共闘」という形で結実する事になった。
結果的に、ヤン暗殺の一件は地球教、特にド・ヴィリエ自身が企んだ計画の崩壊の始まりともいえる。
評価
田中芳樹の架空戦記作品、そのほぼ全てが『戦争の不条理』と『人の死』をテーマにしており、それゆえに重要な登場人物が計画的に葬られる「皆殺しの田中」は「銀英伝」作中でもある意味では予定調和ではあった。
だが、ヤン・ウェンリーの異名『不敗の魔術師』の絶対さは当時のファンの間でも半ば確信に近い領域にまで達しており、そんな希代の英雄があっけない最後を迎えたことで茫然自失⇒絶望という最恐のコンボに至ったというファンの報告例は今なお後を絶たない。
OVA版に至っては、次回予告においてあの『城之内死す』に匹敵するネタバレをかましているため、作中だけでなくアニメ業界随一のトラウマ回としても名を馳せてしまっている。
同時に、銀河帝国の皇帝ラインハルトの英雄の滾るようであった命の火が燃え尽きる暗喩や自由惑星同盟のヨブ・トリューニヒトの因果応報さながらの末路のような劇的な最後ではなく、
「銀英伝」もう一つのトラウマであり序盤の悲劇であるキルヒアイスの死亡シーンに匹敵する通り魔的な最期であったため、( 物語の進行上必要と考察されていても )その差分の違い様に疑問を抱くファンも少ない。
こんな衝撃的すぎる結末の反動ゆえ、作品完結から30年以上が経過し、昭和から令和へ移り変わった現代に於いてなお『不敗の魔術師』の死の意義が議論の対象とされ続けている。
そして…
そして後代、他作品における『皆殺しの田中』においても幾人かのキャラクターたちがその散り様とそこに至るまでの展開に疑問符が投げかけられる結果となっている。
関連タグ
フレデリカ・グリーンヒル-ヤンの妻。ユリアンらの帰還後、周りの様子から薄々夫の死に気付いていた。夫の死後、イゼルローン共和政府の代表となる。
ボリス・コーネフ-ヤンの暗殺計画をイゼルローンに知らせたフェザーン商人。彼がこの計画を知らせることが出来たのは、ヤンが出発した三日後。せめて、あと一日早ければユリアン達はヤンの救出に成功していたかもしれない。
ラインハルト・フォン・ローエングラム-ヤンと対極に立つ常勝の天才。これまで、多くの訃報を聞いたラインハルトにとって、ヤンの死は親友キルヒアイスの死にも並ぶ喪失感をもたらした。
「何故、誰も余のために生き続けないのか!?」-ヤンの訃報を聞いたラインハルトの言葉。この言葉だけで、ヤンがラインハルトにとっていかに大きな存在であったかを窺わせる。生涯の好敵手であり、同時に互いに強く惹かれあったからこそヤンの死は大きなものであった。
地球教-ヤン暗殺の実行犯。アンドリュー・フォークという愚者を操り、ヤンを油断させてラインハルトの仕業と演出して暗殺をした。