歴史
14世紀半ばに赤松氏により始めて築城され(城と呼ぶにはまだ早い砦であったともいう)、その後黒田氏(黒田孝高ほか)、羽柴氏(羽柴秀吉)、池田氏(池田輝政ほか)、酒井氏などが居城とした。現在残る天守を始めとした建築物は江戸時代初めの城主である池田輝政により造営されたものである。
設計上は天守閣までのルートなど、戦闘に対する様々な備えが施されていた。しかし赤松氏→黒田氏は城代任命、黒田氏→羽柴氏は献上、その後は転封による交代と、姫路城は戦乱に巻き込まれることなくその歴史を重ねていく。
江戸時代前半は幼年の城主・藩主が就く度に「幼少の藩主に要地を任せられない」と別の譜代大名と国替させられたことで藩政が安定しなかったが、1749年の酒井雅楽頭家(徳川譜代筆頭)で固定される。だがそれまでの各家の苛政に加えて天災が相次いだ姫路は疲弊しきっており、酒井家も73万両もの借金を抱えるに至る。
19世紀初頭に家老の河合道臣(晩年の号から河合寸翁として知られる)が藩政改革を手がける。寸翁は播州特産の木綿や皮革などの江戸での直接専売や殖産興業、木綿専売の利益を藩札の一種「木綿切手」で安全に決済するシステムの構築、新田・塩田開発によって藩政を立て直し、改革開始から20年あまりで借金完済を成功させる。また寸翁は私塾「仁寿山黌(校)」による教育や飢饉対策の備蓄倉庫「固寧倉」の村々への建設にも意を注いだことで姫路発展の基礎を築いた偉人として称えられ、姫路城内に寸翁神社が建てられこんにちも崇敬を集めるほどである。
だが幕末にいたって、仁寿山黌が輩出した尊皇派の人材が、譜代筆頭として佐幕派であった姫路藩内に深刻な対立と抗争をもたらす皮肉な事態を巻き起こす。
戊辰戦争時には藩主は老中として徳川慶喜と行動を共にしており、城主不在の姫路城を新政府側の池田氏(岡山藩主。池田輝政の子孫である)他が包囲したものの、ギリギリで戦闘回避し開城。
明治維新後にの廃城令にあっては存続とされたものの単に要塞として使用されるという意味で、放置された姫路城の建物は著しく荒廃してしまう。現代の金額にして僅か10万円程度で地元の金物商に売却されてしまうが、その後姫路城の文化的価値を複数の陸軍佐官が上申したことにより、陸軍が買い上げて破却を免れる。
以後、陸軍歩兵第10連隊・同第39連隊および付属諸隊が駐留する「軍都姫路」の中枢として機能しつつ、旧国宝(現在の重要文化財)として指定され、本格的な修復作業が開始される。「明治の大修理」は予算不足で抜本的な修復とはならなかったものの、大正時代には天守が一般公開されるまでに復旧する。
第二次世界大戦末期の7月3日深夜、陸軍の拠点かつ軍事産業都市であった姫路市は米軍の大空襲を受け、死者173人・重軽傷者160人余、全焼家屋約1万300戸に被災者45000人を超える甚大な被害を受けることとなる。
以前より空襲からなんとかお城を守ろうと、目立たぬよう天守閣に黒色のネットをかぶせるなど涙ぐましい努力が行われていたが、実は上空からではお城も小さな点にしか過ぎず、残念ながら全く意味のない行為だった。しかし爆撃機のパイロットはレーダーの反応からお濠を沼と誤認したため目標とせず、また天守に直撃・貫徹した焼夷弾が不発に終わる強運に救われ、姫路城は奇跡的に被害を免れた。
あたり一面が焼け野原となった中、それでもすっくと立つ姫路城を見た人々は「どんなことになっても、お城さえ無事なら姫路は大丈夫。立ち直ることができる」と勇気づけられたという。
こうした歴史的な経緯やエピソードから、姫路城は本来軍事拠点であるにもかかわらず「不戦の城、平和の象徴」とされている。
1951年に天守ほかが国宝に、1956年に城跡が特別史跡に指定。大戦期を挟んで行われた昭和の大修理は大天守の解体再建・心柱のうち一本の総取り替えという大事業となり、1964年にようやく完工に至る。1993年12月にユネスコにより城跡中心部が世界遺産(文化遺産)として登録された。日本国内での登録第一号(「法隆寺地域の仏教建造物」と同時)である。
平成時代にも大修理が行われ、解体は伴わなかったが、見学施設を兼ねた巨大な覆屋が数年間大天守を覆っての作業となった。
構造
姫路市中心部の姫山に天守を設け、その周囲に城主の居館がある内曲輪、その周囲に家老や上中級藩士の屋敷がある中曲輪、さらに周囲に下級藩士の住居や町人地に社寺がある外曲輪という三重の城郭都市を構成している。
今日では大天守と三つの小天守を渡り櫓で連結した天守群を中心に、内曲輪の櫓が残存している。
大天守は五層六階と見た目と中の階層が違えられている。最上階は刑部明神をまつる小さな社が設けられている。平成の大修理までは下層階には武具などが展示されていた。
東・西・乾(いぬい)の三つの小天守は普段は非公開だが、特に期限を定めて特別公開されることがある。
西の丸は長大な渡り櫓が残存し、その一端にある化粧櫓は千姫の化粧料(生活費)で建てられたことからその名がある。
二の丸にあたるエリアには「お菊井戸」や「腹切丸」と呼ばれる構造物があるが、これらの名前は大正時代に姫路城が一般公開される際に捏造された名前で、本来のお菊井戸は中曲輪の馬場にあったとされ、腹切丸は「帯曲輪櫓」が本来の名前である。三の丸には広大な城主の屋敷が設けられていた。
他にも天守下に備前丸があったが明治初期に失火で失われ、三の丸にあった建築物は軍用地化の際に撤去され、歩兵第10連隊が設置されている(後に岡山へ移転)。
中曲輪の武家屋敷も明治初期に同様に撤去され、陸軍第10師団司令部・歩兵第39連隊および練兵場・倉庫(現・市立美術館)・陸軍病院(現・姫路医療センター)などの諸施設が置かれた。中堀と石垣の多くが残存・復元しているが国道2号沿いの中堀はその道路用地となっている。
内・中曲輪は東南の一角を除いて姫路市本町68番地という皇居の次に大きいと言われる巨大な地番となった(後年一部は分割されている)。この本町68番地が特別史跡の範囲にほぼ相当する。
本町68番地は戦後には市役所他が建つ官庁街およびいくつもの学校が建ち並ぶ文教地区となったが、官庁は周囲に移転して公園及び美術館・歴史博物館・図書館といった文化施設へ改められている。一方で義務教育学校が一つ・私立中高一貫校が男女各一つ・高校が単位制と定時制の二つ・それと聴覚支援学校と6校もなお存在している(うち男子中高一貫校は弓月光先生の母校で、これらの学校はしばしばその作中でモチーフとなる)。さらに神社が二つにカトリック教会が一つ、戦後大陸から引き揚げてきた人たちのために練兵場跡に商店街が、さらには市営および県営住宅・官舎も建設され、多いときで一つの地番に2000人以上が暮らし働き学ぶカオスの極致となっていた時期もある。後に集合住宅は撤去され公園や日本庭園「好古園」に、東側の商店街のうち闇市を整理統合したことに起源を持つ一角は再開発ビルに、西側の商店街の北部は観光客向け施設を整備した家老屋敷跡公園へと生まれ変わっている。
外曲輪は石垣の全てが撤去され堀の南半分が埋められた上、市街地も姫路空襲で壊滅してしまい、戦前の面影はほぼ残っていない。戦後の区画整理などで失われた町名も少なくないが、「同心町」「忍町」「綿町」「白銀町」といった職業にちなむ町名が残る。姫路駅からは一直線に姫路城へ伸びる「大手前通り」が建設されメインストリートとなっている。周辺の旧街道沿いに戦前からの町屋が空襲を免れ残る地域がある。
余談
東に傾く姫路の城は
姫路城には築城直後から「城が東に傾いてる」という噂が流れ、築城の指揮者であった大工の棟梁が、これを悔いて自殺したという伝説があった(あくまでも伝説で、史実ではない)。江戸時代終わりごろには、「花のお江戸が恋しいか」と俗謡に詠まれてもいるほどの傾きようであったとまでいう。
歴代藩主や陸軍があの手この手で傾きを止めようとしたが、抜本的な解決は昭和の大修理における解体修理を待つこととなる。
そして昭和の大修理で傾きの原因は設計上のミスにあらず、もともと建築された地盤が弱く、城を支える心柱の礎石が沈下したためであると判明した。基礎を堅固なコンクリートで作り直すことで傾きは文字通り根本から解決することとなる。
姫路城が白すぎる(?)
2009年から2015年にかけて行われた「平成の大修理」では、大天守の塗り替えを中心とした工事が行われた。カビによる黒ずみなどをすっかり落とし、防カビ剤を含んだ純白の漆喰に塗り替えられた姫路城は、白鷺と呼ばれた本来の美しさを取り戻した。
……が、あまりにも真っ白になり過ぎて、地元民には違和感を覚える人が続出。戦前からすでに汚れやカビが広がっており、みんな灰色の城壁をもともとの姿だと思い込んでいたのである。慣れって怖いね。
その後数年で元の色合いに戻り、白鷺城をもじって「白過ぎ城」と呼ばれた状態は一段落付いている。
怪異伝説
姫路城には様々な伝承・伝説があるが、中でも有名なのが天守に棲むという妖怪『刑部姫』と『皿屋敷』のお菊さん。長壁姫は泉鏡花の戯曲『天守物語』の題材になったことで特によく知られており、天守閣内には池田輝政が大改修中に病死したことを祟りだと恐れた親族と家臣たちによって建てられた『刑部神社』がある。
本丸上山里内にある『お菊井戸』は、お家乗っ取りを企んだ悪家臣の姦計に巻き込まれ、殺された女中、お菊さんの遺体が捨てられたとされる(本来は天守から北東に離れた別の井戸がその舞台とされていたが、大正時代にここに舞台が移ったらしい)。お菊さんはその後、十二所神社に大明神として祀られたが、300年の後に蝶(ジャコウアゲハ)の蛹の姿を取って姫路城下に戻ってきたという。
姫路市はこの伝説と初代藩主池田氏の家紋(揚羽紋)にちなみ、ジャコウアゲハを市蝶に定めている。
文学
吉川英治『宮本武蔵』では、武蔵が姫路城内の一室に数年間幽閉され、そこで様々な書物を読んで修養したこととなっている。
姫路空襲の折、城下を焼き尽くす猛火に天守が赤く照らされる様を作家・阿部知二は『城 ―田舎からの手紙―』にて「妖しい生命を持った美しい怪鳥、生霊」と評している。
映像作品
『暴れん坊将軍』をはじめとする様々な時代劇では、江戸城を始めとした諸城郭の代役としてロケ地に用いられる。特に天守閣を見上げる緩い坂道は「将軍坂」としてロケの定番スポットとなっている。
『007は二度死ぬ』ではジェームズ・ボンドがヘリコプターで三の丸広場に降り立つシーン等が撮影されたが、手裏剣を壁に突き刺すなどの行為のために撮影中止を勧告され、それでもなお無断で撮影を続けたために結局追い出されたという逸話がある。
擬人化
その他
過去にエアガンメーカーである東京マルイから姫路城のプラモデルが販売されていたことがあり、エアガンユーザーやサバゲーマーから「爆音姫路城」(マルイが以前販売していた次世代爆音電動ガンと掛け合わせた語呂)と揶揄の意味で使用されることがある。
『Fate/GrandOrder』の2017年ハロウィンイベント。姫路城が出てくるが普通に地面に建っているわけではなく、チェイテ城(洋風の城)の上からピラミッドが上下逆さに突き刺さり、そのピラミッドの更に上から姫路城が建って(乗って?)いる。その名もチェイテピラミッド姫路城。
『キン肉マン』の(週刊少年ジャンプ連載時における)最終章。姫路城内にリングが設置され超人レスリングが行われた…所まではまだ無事だったが、突然浮上して関ヶ原まで移動した挙げ句、同様に飛んできた名古屋城と合体して関ヶ原格闘城と化した。
……繰り返すが、姫路城は世界文化遺産である。