概要
太平洋戦争は第二次世界大戦での大日本帝国と米・英・蘭・豪・中などの連合国との戦争。
ただし、この名称はPacific Warの訳語であって、日支事変を含めたアジアの戦いとした日本の「大東亜戦争」とイコールではない(大東亜戦争は現代では「アジア・太平洋戦争」とも呼ばれる)。
前夜
世界恐慌によって経済が疲弊した日本では政治に軍部が台頭。勢力拡大を図って関東軍が1931年(昭和6年)に満州で満州事変を起こし満州国が出現。これを機に日中は対立を深め、1937年(昭和12年)には戦闘は中国本土にも飛び火し、日中は宣戦布告なき戦闘状態に陥った(日華事変)。
ヨーロッパでは、日本と友好関係にあったヒトラー率いるナチスドイツが1939年(昭和14年)にポーランドへ侵攻し、英仏の対独宣戦布告で第二次大戦が勃発。翌年には日独伊による枢軸同盟が締結された。
開戦
欧米の対中支援「援蒋ルート」を断ち、またさらなる資源獲得を目的に日本は仏領インドシナへの仏印進駐を計画。これまで中立外交を貫いたルーズベルトのアメリカも満州や太平洋の権益の障害になると察知し、またチャーチルのイギリスもアメリカの介入を望んで1941年(昭和16年)に大西洋憲章を掲げた。
アメリカは日本に中国撤退を迫り日米交渉は難航。日ソ中立条約を結んだことで仏印進駐が開始されると、アメリカは対日石油禁止を決定し、さらに米英中蘭による対日経済制裁「ABCD包囲網」を構築。
日米交渉を続けていた近衛文麿は内閣を辞職し、続いて東條英機内閣が発足して日米交渉を引き継いだが、アメリカ側からの「ハル・ノート」手交を受け、日本は予てより計画していた対米攻撃を実行。
昭和16年12月8日(現地時間1941年12月7日)、日本軍のハワイ真珠湾攻撃を皮きりに開戦。主に太平洋と東南アジアで戦闘が始まった。
経過
初戦は日本優勢で、日本軍はイギリス支配下のシンガポール・ビルマ・マレーシアやアメリカ支配下のフィリピン、オランダ植民地のインドネシアなどを次々と占領。日本はアジアの欧米による植民地解放と独立を目的とした「大東亜共栄圏」を掲げ、マレー沖海戦で英海軍を壊滅させた。
しかし、1942年(昭和17年)のミッドウェー海戦で連合艦隊はアメリカ海軍に敗北し、多くの空母と戦闘機にベテランパイロットを失った。これを境に戦局は変化。アッツ島守備隊の玉砕、ガダルカナル・レイテ沖海戦・サイパン・第三次ソロモン海戦などで連合軍の物量に圧倒され、各戦線は次々と敗退した。
1944年(昭和19年)、ビルマからインドへのインパール作戦も大量の死者を出し大失敗に終わった。
末期
昭和20年2月には硫黄島の戦いで両軍で多大な戦死者を出し、4月には沖縄に米軍が上陸し、沖縄戦で多くの沖縄県民が犠牲になった。この時既に連合艦隊は壊滅しており、海軍は活躍場所の無くなった戦艦大和を沖縄へ特攻させ撃沈に追い込んだ。日本では本土決戦の体制を整え一億玉砕が叫ばれた。
このように敗戦必至の情勢が続いていたにも関わらず、連合国軍が日本降伏後の皇室護持を保障するか否かが不明であったために降伏の決断は遅れ、日本は無為に犠牲を重ねていくことになる。
3月10日の東京大空襲で東京が焼け野原になり、続いて本土の多くの都市が空襲や艦砲射撃などで破壊された。8月6日に広島市、8月9日に長崎市に史上初の原爆が落とされ、甚大な被害となった。8月9日にはスターリンのソ連も日ソ中立条約を一方的に破棄して対日参戦し満州などに侵攻。
降伏
ソ連の参戦でそれまで日本が期待していたソ連の仲介による講和の望みが断たれたことから鈴木貫太郎首相はポツダム宣言の受諾を決定し、8月14日に御前会議で昭和天皇の終戦大詔が下り、8月15日に玉音放送で終戦となり米英との交戦はほぼ終了したが、ソ連軍が樺太・千島列島への侵攻を続けたため、樺太や占守島ではこの後も激しい戦闘が続いた。
最終的には、9月2日に戦艦ミズーリ号甲板で降伏文書が調印された。この戦争では日本国内外の多くの人々が犠牲になった。
戦後
日本はアメリカを中心とするGHQによる占領統治を受け、台湾や朝鮮などの国外領土及び連合軍の定めた島嶼(沖縄等)を放棄。皇室は存続し昭和天皇の在位も認められたが、東京裁判で東條をはじめとする戦犯が死刑判決を受けた。五大改革によって財閥解体や農地解放など経済体制も一新され、日本国憲法が発布。戦後の日本が構築された。
その一方で、アジア各国は独立して帝国主義と植民地の時代は終焉。ソ連を中心とする共産主義陣営と米国を中心とする民主主義陣営の冷戦の時代へと移り、日本はサンフランシスコ条約の下に主権を回復して西側陣営に加わった。