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東條英機の編集履歴

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東條英機

とうじょうひでき

(明治17年~昭和23年) 昭和の軍人。第40代内閣総理大臣。陸軍大将。従二位勲一等。

生涯

明治17年7月30日(戸籍上12月30日)、東京都出身。軍人一家の長男で、本籍地は岩手県


明治38年に陸軍士官学校を卒業。同年4月21日に陸軍歩兵少尉に任官。大正4年に陸軍大学校を卒業。


昭和期に入って満州事変頃から統制派の有力者になり、関東軍の憲兵隊司令官や参謀長、陸軍次官など軍部重職を歴任。二・二六事件の際は満州で皇道派関係者を摘発した。

昭和15年から、第二次・第三次近衛文麿内閣で陸軍大臣に就任。日支事変では撤兵反対を主張し、日米開戦の危機でも主戦派となった。

昭和16年、近衛が日米交渉を放り出して退陣すると、東條は昭和天皇より組閣の大命を受け、第40代内閣総理大臣に陸軍大臣兼任で就任した。


尊皇思想の強い東條は、自身の開戦の考えを抑えて、天皇の戦争回避の意思を奉じて日米交渉に臨んだがハルノート提示により交渉は決裂し、対米英開戦を決定した。開戦日12月8日明け方未明、首相官邸で東條が皇居に向かって号泣していた姿を家族は見たという。


翌17年にアジア各国首脳による大東亜会議を開催し、参謀総長も兼任したが、昭和19年7月のサイパン島陥落を受け、総辞職した。


その後、戦況を楽観視していたがそのほとんどが予想を外し、終戦工作にも不満な態度を持っていたが、終戦時に降伏に反対する軍部に反乱の同調を求められるも「陛下の聖断には逆らえない」としてこれを固辞している。


なお、今でも言い伝えられる、東條がマリアナ沖海戦の際に「真珠湾の時の機動部隊はどうしたのだ!?」と海軍に詰め寄ったが、海軍側にミッドウェーでの南雲機動部隊の喪失を伝えられ、ようやく事の重大さを悟ったという物があり、これをよく俗説として、実際にはミッドウェー海戦の敗北はすぐに東條へ伝えられていたと言われる。


しかし、当時の東條内閣の農相だった井野碩哉が、戦後に戦犯として大森の収容所に入れられ、同所にいた東條と出会った際の会話によれば、東條は「井野君、自分はミッドウェーの敗北を知らなかったんだよ」と語っていたらしく、井野は大変驚いたという。

彼は東條に「そんなこと信じられませんよ」と詰め寄って確かめたが、そのところ「私がもしミッドウェーの敗北を知っておったらインパール作戦はやらなかった」と答えられたという。


実は支那事変がきっかけとなって設置された大本営には総理大臣は加わることができず、そのため東條は陸軍大臣を兼任し、後に戦局の悪化にともなって内相、参謀総長、軍需相など、計9つの要職を兼任するようになる。

彼の証言によれば真珠湾攻撃について「陸軍大臣としてその概要は聞いていた」としており、彼の他の閣僚達は事前に何も知らなかったとされている。


後に情報が伝達されるように連絡機関である大本営政府連絡会議が設置されたが、当時の海軍海軍軍令部軍令部として、陸軍参謀部と同等同格の組織へと昇格しており、陸軍とは全く関係無しに独自の国防戦略を策定することが可能となっていたため、別々の独立した二つの統帥系統が並ぶ状態となっていて、更に海軍は極度の秘密主義・閉鎖主義・組織温存主義な体制で、虚為と捏造の戦果報道を繰り返していた。

こうした経緯から、大本営自体が陸海バラバラの状態で、連絡会議はまともに機能していなかったとされている。


東條が多くの要職を兼任したのは、当時の日本が軍が内閣から独立したような状態で、国の舵取りを行う首相が軍事作戦の統率を行えない状況であったが故であり、このことから彼を独裁者とする誤解が生まれているとされ、彼は後に「一国の運命を預かるべき総理大臣が、軍の統制に関与する権限の無いような国柄で、戦争に勝てるわけがない」と語っていたという。


敗戦後、戦犯として逮捕命令を受けピストル自決を図るも未遂となった。東京裁判にA級戦犯として出廷し、天皇免訴のために汚れ役を引き受けて自己の責任とともに国家弁護を主張し続け、死刑判決を受けた。


拘置所では浄土真宗の信仰の深い勝子夫人や巣鴨拘置所の教誨師、花山信勝の影響で仏教に深く帰依し、大きな心境の変化があったという。昭和23年12月23日刑死。享年64歳。


辞世の句

「さらばなり 有為の奥山けふ越えて 彌陀のみもとに 行くぞうれしき」

「明日よりは たれにはばかるところなく 彌陀のみもとで のびのびと寝む」

「日も月も 蛍の光さながらに 行く手に彌陀の光かがやく」


人物

  • 会議中は記録を欠かさないメモ魔で秀才型の性格であり、頑固で信じるものは妄信なほど揺ぎ無く、邪魔するものは排除していた。反面、従順な部下や弱者にはとてつもなく優しく、涙もろいという極端な性格だった。だがそうした部下であっても女の事件のような軍紀を乱す犯罪を起こした時には容赦せず、躊躇なく最高の処罰を下すなど非常に生真面目な人物だった。
  • 要職を兼任し、敵対者を特高憲兵を使って排除した独裁者のように振る舞ったが、ヒトラーと違い任期中に首相を辞職した。
  • 首相任期中のある時、国民に食料配給が行き届いているか、自らゴミ箱をあさって確かめたという。これは反東條派の揶揄の対象になった。
  • 昭和天皇が昭和21年に語った談話をまとめた「昭和天皇独白録」によると、天皇は石原莞爾広田弘毅松岡洋右平沼騏一郎宇垣一成高松宮宣仁親王など多くの政治家・軍人を酷評しているが、東條と岡田啓介米内光政は戦後も高く評価しており、その信頼のほどが伺える。昭和天皇は東條について「話せばわかる人だが、憲兵を使いすぎ、兼職で多忙となり、国民と気持ちが通じなくなった」と語っている。(そりゃ要職9つも兼任していれば忙しいのは想像できる)
  • 上述にもあるように、自分に忠実な部下を選ぶ傾向があったため、ゴマスリの上手い部下も誤って選んでしまうことも多かったとされ、花谷正・牟田口廉也・富永恭次(彼らは「東條の腰巾着」と陰口された)ら史上稀なる愚将とも呼ばれた三者を生んだ元凶とも言われる。その中でも特に東條に近かった人物は「三奸四愚」と総称されることがある(三奸:鈴木貞一、加藤泊治郎、四方諒二 四愚:木村兵太郎、佐藤賢了、真田穣一郎、赤松貞雄)。
  • 仲の悪かった石原莞爾は東條を「一等兵」呼ばわりし、衝突も多かった(東條は士官学校を出て普通に実力で大将まで昇進しており、ヒトラーが兵役当時伍長どまりだった事からアンチから「ボヘミアの伍長」と呼ばれるのとは意味が違う)。
  • 自らの財に関しては清廉潔白で、汚職や金権政治という類の話は一切見えてこない。戦後すぐ、東條を悪役にするために汚職の罪を着せられた事はあるが、これも冤罪である。
  • 息子達は厳しく育てたが、娘に対しては子煩悩だったという。ちなみに次男は三菱航空機名古屋製作所で零戦の設計に携わり、戦後はYS-11開発のリーダーを務めた東條輝雄氏。
  • ハイカラ文化人な一面もあり、当時はマイナーだったシュークリームをいたく気に入っていたと言う。また、大のシャム猫好きでも有名だった。
  • 軍刀としていたのが加州清光作のであった。

逸話

東條幕府

普通政治家の大臣兼任はあまり珍しいことではないが、東條の大臣兼任の数は明らかに異常だった。当初は総理と陸相の兼任で始まったが、その後参謀総長軍需大臣商工大臣内務大臣文部大臣外務大臣などを一時的な兼任も含めて9つほども就任した。これほど兼任した総理も珍しかった。軍職を兼任したことは天皇の統帥権を侵害しかねないことで、言論統制する内相の兼任は東條が日本の全ての暴力装置を牛耳ったことになり、ついたあだ名が「東條幕府であった。


ユダヤ人救済

当時、アドルフ・ヒトラーが率いたナチスドイツが進めれいたユダヤ人弾圧政策において、迫害下から逃れるためにユダヤ人がソ連から満州国の国境沿いにある、シベリア鉄道のオトポール駅(現:ザバイカリスク駅)まで避難した出来事があった(オトポール事件)。

しかし、亡命先に到達するために通らなければならない満州国の外交部が入国許可を渋ったために足止めをくらい、惨状を見かねた日本陸軍樋口季一郎将軍は、直属の部下であった河村愛三少佐らとともにユダヤ人たちに対し、即日給食と衣類・燃料を配給・要救護者への加療を実施し、更に膠着状態にあった出国斡旋・満州国内への入植斡旋・上海租界への移動の斡旋などを行った。

この樋口将軍の行為にドイツの抗議したが、彼の話に納得した当時関東軍の参謀長だった東條英機将軍は「当然なる人道上の配慮によって行ったもの」という回答を日本の総意として伝え、ドイツの抗議を一蹴した。

これにより問題はうやむやとなり、樋口将軍は功績を評価され二階級特進となった。

余談だがこの出来事は、多くのユダヤ人を救い『日本のシンドラー』と呼ばれた有名な外交官である杉原千畝外交官の『命のビザ』の逸話より2年前のことである。


インド

戦後日本において、戦犯として扱われている東條氏だが、それとは対照に一部のインド人からは“英雄”として称えられている。大東亜戦争の緒戦からインドの独立を唱え、インド独立の闘士であったスバス・チャンドラ・ボースとの会談において意気投合し、彼を非常に高く評価していた。後の『大東亜共同宣言』においても、ボース氏は自由インド仮政府の首班として参加し、東條氏をはじめとしたアジア独立国の代表と共に、アジアの独立と共存共栄の決意を訴えた。インド独立運動を支援した東條氏は、いまでもインドでは高く評価され尊敬を集めており、2006年3月19日には、カルタッタにある『チャンドラ・ ボース記念館』で、“東條英機に感謝する夕べ”というイベントが開催された。


写真右・東條の孫娘である東條由布子氏

写真左・ボースの甥嫁であるクリシュナ・ボース氏


後に、日本軍は4万の英印軍捕虜のうち3万人をインド国民軍として編成したが参加をこばんだインド兵捕虜1万人を虐待・暴行したという報道がインドの日刊英字新聞『タイムズ・オブ・インディア』によって行われ、日本のインド独立への支援を疑問視した姿勢を取っているが、実はこの新聞社は何の根拠も無いデマ報道を宣伝して、散々日本を貶めた新聞社提携しているインド新聞社であり、証言している学者もその関係者で、日本とインドの関係や日本のイメージの悪化を狙った悪質なプロパガンダであるとされる。


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関連動画

彼を主人公にした映画作品。




関連タグ

日本史 昭和 太平洋戦争 第二次世界大戦 軍人 内閣総理大臣 A級戦犯

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