概要
1972年1月28日生まれ、福岡県出身の元プロ野球選手。
監督就任後は「ビッグボス」を自称し、かつてのミスターのように大手メディアでも「新庄ビッグボス」と表記される事がある。
経歴
- 西日本短期大学附属高等学校在籍時の1989年、阪神タイガースから5位指名されプロ入り。
- 1992年、中村勝広監督に抜擢され中堅手のレギュラーをつかみ阪神時代唯一のAクラスを経験。亀山努とのコンビで「亀新フィーバー」を巻き起こした。
- 1995年、藤田平監督との確執もあり一時は引退発言をするも撤回。1996年~1998年まで不本意な成績が続く。
- 1999年、野村克也監督の指導の元で打棒が復活。
- 2001年FAを行使してニューヨーク・メッツへ移籍。翌2002年にはサンフランシスコ・ジャイアンツへ移籍したが、2003年にはメッツへ出戻り。
- 2003年シーズン終了後NPBへ戻り、2004年より北海道日本ハムファイターズでプレー。登録名は「SHINJO」で背番号は1となった。2006年に現役引退。
- 現役引退後はバラエティー番組にしばらくの間出演していたが、その後バリへ移住して野球界とも距離を置いていた(過去にバラエティ番組に出演した際「お金があると出ないが、お金がなくなると出る」と発言している)。
- 2019年11月、「翌年のトライアウトを受験し、現役復帰を目標にトレーニングを始める」ことを自身のインスタグラムで発表(日本ハム退団時は任意引退選手として公示されていたが、日本ハムはこの発表を受け、改めて自由契約選手として公示した)。2020年12月7日に開催されたトライアウトには現役引退時に所属していた日本ハムのユニフォームを着用して参加。4打数1安打1打点という結果を残したものの、新庄自身が決めた6日間の期限内にNPB球団からのオファーが来なかったため、現役復帰を断念した。
- 2021年10月29日、同年限りで退任した栗山英樹氏の後任で、翌シーズンから北海道日本ハムファイターズの監督として指揮を執る事に。2022年シーズン開幕直前に登録名を「BIGBOSS」にすると発表。NPBが問題無しと判断した為変更が認められた。この登録名は1年間限定で2023年シーズンからは本名に戻している。
背番号
背番号 | 使用年 | 所属チーム | 備考 |
---|---|---|---|
63 | 1990年〜1993 | 阪神タイガース | 選手 |
5 | 1993年〜2000年 | 阪神タイガース | 選手 |
5 | 2001年 | ニューヨーク・メッツ | 選手 |
5 | 2002年 | サンフランシスコ・ジャイアンツ | 選手 |
5 | 2003年 | ニューヨーク・メッツ | 選手 |
1 | 2004年〜2006年 | 北海道日本ハムファイターズ | 選手 |
63 | 2006年 | 北海道日本ハムファイターズ | 選手 |
1 | 2006年 | 北海道日本ハムファイターズ | 選手 |
1 | 2022年〜 | 北海道日本ハムファイターズ | 1軍監督 |
日本ハム選手時代の「63」は引退セレモニーが行われた2006年シーズン最終試合の1試合のみ。日本シリーズには元の背番号「1」で出場。
人物
愛称は「宇宙人」。糸井嘉男に劣らずいい意味でアホな男として有名。が、一見アホのように見えてサービス精神が旺盛で、計算してやってることが大半である。また同僚の話によると一見目立ちたがりのようで軽々しいが、気使い上手で他人を立てる性格でもある。簡潔に言えば「人前ではド派手、素顔は緻密で繊細」という人物である。
幼少期はサッカーが好きだったが、つまらなさを感じ、野球を始めたところはまってしまい、そのうちプロ野球選手になるまでにもなった。引退後、トーク番組で堂々と「僕は本当はサッカー選手になりたかった」などというなど、やっぱりサッカーも好きだった様である。それでも敢えて野球を選んだ理由は「他のスポーツは簡単にできたのに野球だけはいくら練習しても上達しなかったから」だという。
選手としては俊足・強肩・一発長打を兼ね備えた好選手だったが、打率が平均して低かった。
だがチャンスに強く、また「毎日がオールスターだったらいいのに」と漏らすほど、耳目を集める中では高打率を残していた。セパ両リーグでオールスターMVPを獲得した人物でもある。
守備に関しては超一流であり、強肩かつ鉄壁。ゴールデングラブ賞を幾度も受賞しており、メジャーでもその守備力は高評価を得ていた。
センターを簡単そうにキャッチしている様にも見えるが、バッターが打った瞬間から吹いている風などを視野に入れ、予め球が落ちてくる場所を計算してその範疇内に立っている事が多いらしい。曰く「1球ごとに守備位置を変えている」。
これらから分かるように、一見すると天性の勘とセンスでプレーしていると思われがちであるが、その実非常に筋が通った理論に基づいている。こうした理論は、守備に限らず走塁に関しても同様であり、監督就任前後の取材などでもしばしば語られている。
新庄は野球選手というよりタレントに近いスター性を持っていたと言われ、「記録より記憶に残る選手」の代表格とされている。特に北海道日本ハムファイターズ加入後の数々の伝説はファンの記憶に深く刻まれており、「北海道に野球が根付いたのは新庄さんのおかげ」「新庄なくして日本ハム移転の成功はなかった」、それどころか「新庄はパ・リーグを救った」とさえ言われている。
エピソード
数多くのエピソードを残しており、いざ語ろうとしても語り尽くせないほどである。
あまりにも伝説が多いので詳細はエピソードをまとめた下記外部リンクの『新庄剛志伝説』を参照して欲しい。
ここでは代表的なものを取り上げる。
- 小6の時に自ら選手を集め、少年野球チーム「長丘ファイターズ」を結成。チーム名の他ユニフォームのデザインも担当。2022年現在でも存続し、ユニフォームは結成当時から変わっていない。そして奇しくも最終所属先と愛称が同じ。
- きっかけは、ソフトボールの決勝戦で敗北し、悔し涙を流す新庄少年に父の友人が「9人集めたら野球チームを作ってやる」と言われ、本当に9人揃えてきたことから。
- 阪神に指名されてプロ入りしたが、実は彼の幼少期阪神は一番嫌いなチームだったことが判明している。というのも彼は元々巨人ファンである。
- 阪神時代の1999年、読売ジャイアンツの槙原寛己が投じた敬遠球を打ってサヨナラヒットを達成した。
- このサヨナラヒットを打つため、事前に敬遠の高くて遠い球を打つ練習を重ねていた上、柏原純一コーチと野村監督にも予め了承を取った上でこの作戦を決行している。なお柏原コーチは現役時代に敬遠球でホームランを打っており、新庄もそれを知っていたので練習していた。
- MLBのサンフランシスコ・ジャイアンツ在籍時、チームメイトであったバリー・ボンズには「相棒」と呼ばれる程非常にかわいがられていた。方や一流のホームラン王、方や実力未知数の渡米選手でありながら、新庄は持ち前の明るさと物おじしない性格で良好な関係を築き、新庄の監督就任時にもボンズ氏はエールを送っている。
- 日本球界復帰の際に日本ハムを選んだ理由は当初「最初にオファーを受けたチームに行くと決めていて、そのチームが日本ハムだったから」と語っていたが、実は本人が仕掛けた作り話だったことが明らかになっている。
- 本人曰く、最初にオファーを受けたのは巨人だったそうで、日本ハムに決めた本当の理由は「北海道に移転して新しいことをやろうとしていた」「弱いチームで自分がどこまでやれるかが知りたかった」とのこと。
- 日本ハムの人気獲得に向けた数々のパフォーマンスを実践し、「新庄劇場」と称された。
- 被り物や度肝を抜く選手入場、ホームランに独自の打法を命名するなど、メディアの注目を一点に集めた。
- 日本ハムは東京時代あまりにも不人気だった(当該記事参照)が、北海道移転と共に加入した新庄のおかげで雰囲気は一変し、広報が「20年間努力したのに全くダメだった。それが一人の加入でこんなに盛り上がるとは」と洩らしたほど。
- ちなみにこれらのパフォーマンスは一見すると好き放題やっているようだが、実際には周囲に予め了承を得た上で行っている。更に目立つだけで終わってはいけないと考え、結果を出し続けるため練習にも力を入れていた。
- 被り物や度肝を抜く選手入場、ホームランに独自の打法を命名するなど、メディアの注目を一点に集めた。
- 日本ハム時代の2004年、オールスターゲームにおいて予告MVPを宣言し、同ゲームにてホームスチールを決めて実現させた。
- ヒーローインタビューで宣言した「これからは、パ・リーグです」はあまりにも有名。
- 一度はホームランと認められたものの、取り消されてしまった例をNPBで3度も経験している(NBP最多記録)。
- 2006年、ヒーローインタビューで引退を宣言。その後チームが奮起し満員の札幌ドームで球団44年ぶりの日本一を達成。引退に花を添えた。
- しかも胴上げの際に監督を差し置いて新庄が真っ先に胴上げされた。彼がいかにチームに貢献していたかが分かる。
- 先見の明を持つ人物でもあり、糸井嘉男の野手適性をチーム内でいち早く見抜く、岡島秀樹にMLB挑戦を提案するなど、大きな影響力を持っている。そしてそれは後述の監督としての業績にも繋がる。
- みのもんた司会のクイズ番組「ザ・ミリオネア」にて、鉛筆を転がして出た番号をそのまま回答するという無謀な手段を使用。何と全問正解し1000万円を獲得した。
- 最初から回答を知っていたのでは?という声もあるが真偽の程は不明。なお、この時の賞金は全額日本ハム球団に寄付したそうである。
日本ハム監督就任後
引退後トライアウトを受けるまで13年間野球から離れていた氏の監督就任に世間は驚かされたが、就任会見では赤いスーツに大きな襟を立てるという派手な衣装で登場しさらに国民の度肝を抜いた(余談だが、最初に質問をしたミヤネ屋特派員で日本ハムOBの岩本勉は、指名を受けた後に新庄を真似て襟を立ててから質問を始めた)。
いきなり選手兼監督宣言…は冗談だが、就任の2年前には普通にプロ野球のトライアウトを受けており、あながち冗談にも聞こえない。しかも2021年のトライアウトも受けると宣言しており(代打や守備固めとして、自身が緊急出場するために)、型破りで破天荒な彼からすると、ジョークにも全く聞こえない(結局トライアウトは監督として選手たちを見守る側で参加となったものの、「全員欲しい」や「目に留まった選手がいる」など参加選手たちをしっかりと見届けた)。
「優勝なんか、一切目指しません」と、新庄でもなければファンから総叩きや大炎上に遭いそうな目標を堂々と言い切った。ただしこれにも「高い目標をもちすぎると選手はうまくいかない。何気ない1日として試合をこなし、勝ってくことが大事」というちゃんとした新庄なりのメンタル哲学がある。その昔阪神時代に「明日も勝つ!」と意気込んで宣言した後12連敗してしまったことから学んだのだろうか。
さらに「監督ではなくBIG BOSSと呼んでほしい」と宣言。インドネシアに住んでいた頃に呼ばれていたようだが、この呼び名に同じ称号を持つ伝説のボスを知る者達が反応し、就任会見一の爆弾発言となった。「日ハムは国境なき球団、やがてダイヤモンド日ハムになるのか」とあっちのビッグボスを重ねるようなファンもいた模様。
2021年シーズンのファンフェスにて、監督として初めて北海道のファンの前に登場。なんと札幌ドーム内でカウンタックを爆走させての登場である。…野球監督とは(哲学)
オフにはテレビに出まくると発言するように、就任早々やりたい放題やっているようにも見えるが、一方でオフシーズンが一番活躍している野球の上手い芸人こと杉谷拳士には、前シーズンの成績の悪さもあってテレビ出演を禁じて野球に専念させるなど、オン・オフの切り替えは徹底しているようである。
なお彼が監督に就任した影響か否か、監督就任発表後に行われたファンフェスや契約更改、各種イベントにおいて全力ではっちゃけたりこれまでとはキャラが少々変わる選手が多数出てきている(彼や彼など。他にも多数、どころか大半の選手はそうである)。
そして2022年春季キャンプが始まると、「BIG BOSS流」は加速していき、チーム外からの臨時コーチを招いたり、練習試合や紅白戦のスタメンで内外野をシャッフルしたり、打順をガラポンで決めたり、左打者だった練習試合の相手監督にとある左打者の打撃マンツーマン指導を依頼したり、…等々斬新なことを数多やっているが、ファンが思っているより効果はある様子である。考えもなしにやれば大外れになりかねないデタラメな手法となり得るのだが、元々が理論派であり、「BIG BOSS流」は得られる結果を考えて綿密にやっているため、完全な外れを引くことは少ない模様。
2022年シーズン開幕前、「1年間だけ登録名を新庄剛志からBIG BOSSへ変更する」と発表。監督のあだ名、しかもアルファベット表記は異例どころか前代未聞ではあるものの、NPBとルール上の問題は一切ない事を確認し、NPBの公式Twitterアカウントも律儀に発表している。これで公的なメディアではBIG BOSS呼びの方が正しいということになった(一応本人曰く本名表記するかは「自由」とのこと)。
しかしいざ本シーズンが始まると、球界の異端児はプロ野球から容赦ない痛打を浴びることになる。
シーズン開幕直後、日本ハムは開幕5連敗という出口の見えない戦いが始まり、その後一度も5位以上に浮上することなく、チームはシーズン最下位及び負け越し、更にはパ・リーグ5球団への勝ち越しも無かった(全球団だと交流戦で巨人・中日には勝ち越した)。
同年のホーム最終戦を終えた後、BIG BOSSはシーズン中に投げかけられた非難の数々に悩み、苦しみながら自分の采配を続けてきたことを告白し、責任を取ってBIG BOSSのユニフォームを脱ぎ、ピッチャーマウンドへ置いてグラウンドを去る……
…と、まさか1年でやめると思っていたのか?
背中に「SHINJO」と書かれたユニフォームを纏って再登場、札幌ドームへ来場したファンに問いかけて監督続投の賛同を得た彼は、2023年は加藤貴之を開幕投手に指名した(先述の登録名1年間限定の伏線が物の見事に活かされた)。
チームとしては最下位に終わったが、個々人に限れば、投手としては、先述の加藤貴之をはじめとして、伊藤大海や上沢直之らが先発ローテの一員としてしっかりと結果を残しており、かつて甲子園で大きく注目された吉田輝星も、これまでは然程結果を出せていなかったが、リリーフを中心に50試合登板して一軍戦力に加わった。打者についてもここ数年規定打席に到達できていなかった松本剛がパリーグ首位打者となるほど躍進し、長らく燻っていた上に令和初の三冠王までなった、球界を代表する長距離砲として大暴れしている同級生に遥かに水を開けられていた清宮幸太郎も大幅減量による肉体改造の末にようやく長距離砲として開花の兆しを見せるなど、前年どころか通算比でも成績が伸びる選手が多数出ることとなり、チーム成績はともかく育成は一定の成果は出ていそうである(そもそもフロントがシーズン前に、不振だったとはいえ西川遥輝、大田泰示などといった主力級の選手を放出した上、残された選手の大半が実力未知数であったことから、厳しい結果になることは想像に難くなく、このフロントの行動へは、日ハムファン以外の野球ファンからも非難されている。また、こうした状況の中で監督を引き受けることは、もはや非難に晒されることを覚悟の上での火中の栗を拾うも同然の行動であり、誰が監督をしたところで同様の結果になることは想像に難くなかったであろう)。
また、これだけ負けていながらもファンやチームのムードはそこまで悪くなく、ファンクラブの新規会員数は大きく伸びていると報じられている。もちろんこれの影響も大きいが、これですらも「心機一転で新しい試みを」という発想のもと誕生したもののため、チームに改革の風が吹いた結果であることに間違いはない。
試合以外でもオリックスの杉本裕太郎が田中瑛斗から2回死球を受け、あわや乱闘騒ぎになりかけたが、新庄自ら直接謝罪しに行き、杉本も笑顔で下がって球場に拍手が起こるという場面があり、何かと話題に事欠かなかった。
……余談だが、彼がファイターズ所属当時にその雄姿を間近で見ていたファイターズファンクラブ会員兼選手の今川優馬は「数年前から監督やってくれないかなと思っていた」と語っている。
関連項目
阪神タイガース 北海道日本ハムファイターズ 引退したプロ野球選手一覧
亀山努…「亀新コンビ」の相方。
森本稀哲…新庄から多大なる影響を受け過ぎた弟子にして、北海道で愛されたレジェンドの1人。新庄・稲葉と共に鉄壁外野陣を形成。
稲葉篤紀…同じく北海道で愛されたレジェンドの1人。新庄・森本と共に鉄壁外野陣を形成。新庄と同時期に新GMに就任した。
達海猛…漫画『GIANTKILLING』の主人公。日本国内ではスター選手、海外のチームでプレーした経験がある、引退後は海外で生活していた、低迷していた出身チームに突如監督として戻ってくる、破天荒だが芯のある理念を通してチームの存在感を上げていく等、監督就任時には共通点を指摘された。
ゴージュ…『アンリミテッド:サガ』のキャラクター。新庄剛志がモデルであることが明言されている。
ドンカラス…『ポケモン』シリーズのキャラクター。分類が「おおボスポケモン」で、「大ボス」を英語に直すと「BIG BOSS」。しかも北海道がモデルとなったシンオウ地方で初めて発見されている。
賀喜遥香(乃木坂46)…『乃木坂工事中』で行われた2022年の紅白忘年会の余興で齋藤飛鳥からのリクエストを受けてやる羽目に。
外部リンク
『もう一回、鉛筆を転がしていいですか?』 ←ミリオネアについて
『新庄剛志伝説』←新庄の伝説をまとめた記事