経歴
記念すべき第1回ドラフト会議(1965年)で阪神タイガースから2位指名を受け入団。
衰えが見え始めた吉田義男に代わって遊撃手のレギュラーとなり、江夏豊らとともに「若虎四天王」と呼ばれ、以後、1970年代における阪神の中心打者として打線を牽引。
現役時代後半は一塁手に転向するが、この頃には「阪神三奇人」と呼ばれていた。
1983年に2000本安打を達成したが、2017年に鳥谷敬が2000本を達成するまでは、阪神一筋で唯一の2000本達成者だった。(他球団から移籍した人物を含めると、山内一弘・金本知憲・福留孝介も該当する。)
晩年はランディ・バースが一塁に定着したこともあり、翌1984年に現役引退。
19年に渡って阪神一筋で活躍した藤田だが、選手としてリーグ優勝は経験できなかった。
前回の優勝が藤田が入団する2年前(1964年)で、次の優勝が藤田が引退した次の年(1985年)だったのである。
2000本安打達成者でリーグ優勝の経験がないのは、藤田と土井正博(土井も引退翌年にチームが優勝している)の2人だけで、200勝投手では、藤田と同年齢で同年に引退した大洋の平松政次がいる。
阪神がリーグ優勝・日本一に輝いた1985年は解説者だった。
1995年に阪神二軍監督として現場復帰するも、シーズン途中に中村勝広監督が休養したため残りのシーズンを代行監督として指揮することになった。しかし、中日との5位争いに敗れ、1991年以来4年ぶりの最下位が確定。
翌1996年は正式に監督に就任するが、チームを浮上させることが出来ずに最下位となり、藤田は監督を解任された。
新庄剛志や和田豊といった中心選手との確執も重なり、マスコミからは長谷川平蔵を捩って「鬼平」とというあだ名が付いた。
以後阪神は2001年まで、5位だった1997年を除いて7年間で6度の最下位になる暗黒時代に陥った。
監督退任後は野球解説者として活動中。
関連タグ
和田豊・金本知憲:藤田の後に背番号6を背負い、監督にもなった。