曖昧さ回避
概説
阪神の暗黒時代は1987年~2001年と言われているが、この時代はさらに細かく3つに分けられる。
第1次暗黒期(1987~1991)--投壊期
1985年に21年ぶり3度目のリーグ優勝、そして西武ライオンズを下して初の日本一に輝いた阪神。
連覇の期待がかかった1986年は開幕投手の池田、4番の掛布が故障で離脱した影響で3位に終わるも、ランディ・バースが2年連続で三冠王に輝くなど、まだまだ力は残っていた。
しかし、1987年は主力選手と吉田監督との対立が表面化し、さらに掛布雅之が飲酒運転で逮捕されたことも重なり、日本一からわずか2年で最下位に転落。吉田はこの責任を取らされる形で解任へと追い込まれた。
なお、初の日本一へ導いた功績を讃え吉田の現役時代の背番号23は監督退任と同時に永久欠番となった。
2代目ミスタータイガース・村山実を監督に迎えた1988年は、6月にバースが長男の病気を理由に帰国したが、球団の不手際(保険の加入を怠り、多額の医療費を課せられるため)もあり結果的に解雇。真弓は翌年以降規定打席に到達せず、掛布が33歳の若さで引退したため、85年のニューダイナマイト打線は事実上終焉を迎えた。
1989年はセシル・フィルダーの加入や岡田の復調で最下位は脱出したものの、5位に終わり村山監督は退任。この年の最下位は大洋だった。
1990年からは中村勝広が40歳の若さで監督に就任。阪神では初の戦後生まれの監督で、40歳という若さから球団は長期政権を見込んでいた。
ヤクルトから前年本塁打王に輝いたラリー・パリッシュを獲得。本塁打王を狙える活躍を見せたが、夏場に故障で退団。結局2年ぶりの最下位になった。オフに86年の故障後は不振だったエース級の池田と88年からレギュラーに定着した大野久が4対5のトレードでダイエーに移籍した。(池田はリリーフとして復活、大野は91年に盗塁王を獲得した。)
1991年はトレードで獲得した選手たちが不振に終わり、5月に早々と優勝戦線から脱落してまたまた最下位。岡田彰布や真弓明信など'85年V戦士に衰えが見え始めると、数年後を見据えて若い選手を積極的に起用したことで、「亀新フィーバー」へと繋がっていく。
ちなみにシーズンオフにたけし軍団との草野球対決で負けてしまい、「阪神13位」と揶揄されたのは、この頃である。
この頃を総評すると、打撃面こそ85年ほどではないものの、フィルダーやパリッシュ、オマリーといった外国人選手の活躍が顕著なほか、85年V戦士や前述の大野や和田豊らの若手もまずまずの成績を収めていた。しかし、優勝した1985年を含めたこの7年間で規定回数に到達して2桁勝利を挙げた日本人投手が1989年の中西だけという壊滅的な状態であり、投手陣の弱さが目に付いた。しかし、90年代に入った頃から課題だった投手陣の整備が進み始め、後の3年間に繋がる。
束の間の復活(1992~1994)--世代交代期
年 | 順位 | 監督 |
---|---|---|
1992年 | 2位※A | 中村勝広 |
1993年 | 4位 | 中村勝広 |
1994年 | 4位※B | 中村勝広 |
※A:巨人と同率の2位。
※B:ヤクルトと同率の4位。
中村監督の3年目となる1992年。この年に甲子園球場のラッキーゾーンが撤廃され、投手力が上がり仲田幸司が14勝を挙げる大活躍。
また、大洋からジム・パチョレックを獲得し、前年入団したトーマス・オマリーとクリーンナップを組む。
そして、5年目の亀山努と3年目の新庄剛志が躍動し、マスコミは2人の名前を取って「亀新フィーバー」と名付けた。
この年のセ・リーグは稀に見る大混戦であり、7年ぶりのリーグ優勝へと機運が高まったが、ヤクルトとの首位攻防戦を落としたことで、混戦から一歩抜け出たヤクルトに優勝を奪われ、巨人と同率の2位に終わった。
なお、首位ヤクルトから最下位中日までのゲーム差はわずか9ゲームだった。
オフには、オリックスとのトレードで、野田浩司を放出し、松永浩美を獲得する。
ドラフトでは松井秀喜を1位指名するも外してしまった。(巨人、阪神、中日、ダイエー)
1993年は松永が期待外れに終わってしまい、さらに外国人枠の関係でパチョレックが引退してしまうが、それでも4位に踏みとどまった。(野田は17勝を挙げ、最多勝に輝いている。)
この年にFA制度が導入され、松永はダイエーに移籍する。その一方でオリックスからFA宣言した石嶺和彦を獲得した。
1994年は1992年と同様に大混戦となり、阪神はヤクルトと同率で4位となった。
この年のオフ、オマリーが本塁打の少なさを理由に解雇され、ヤクルトへと移籍した。(翌95年に31本塁打を記録)
オマリー退団以後、2002年のジョージ・アリアス獲得まで阪神は助っ人外国人(および打線低迷)に悩まされ続けることとなる。
この頃を総評すると、ラッキーゾーンの撤廃により、90年代に入ってから徐々に整備された投手陣と亀新フィーバーに代表される守備力に秀でた選手の躍進でそれまでの「打ち勝つ野球」から「守りの野球」が押し出された時期であった。しかし、前述の亀山を筆頭に若手選手の故障や人事上の失策(放出した選手が翌年活躍)が相次ぎ、翌年以降の不振につながる。
第2次暗黒期(1995~2001)--打線低迷期
※1997年は中日が最下位だった。
狭義で「ダメ虎」と言った場合はこの時代を指すことが殆どである。
中村監督の6年目となった1995年は貧打と投壊に泣かされたこともあり、中村がシーズン途中に休養へと追い込まれた。
シーズン後半は藤田平が代行として指揮するも、中日との5位争いに敗れ4年ぶりの最下位に転落する。
この年で限りが真弓明信が引退し、九州時代のライオンズを知る人物はいなくなった。
1996年は藤田が監督に昇格するも、前年と変わらず貧打と投壊と泣かされ、藤田はシーズン終了を待たずに解任された。
最終戦を残し最下位が確定するも、中日とのシーズン最終戦(甲子園)では、1回裏に新庄と塩谷和彦が満塁本塁打を放ち、史上初の1イニング2満塁本塁打を記録した。
1997年はフランス代表として指揮を執っていた吉田義男が9年ぶりに監督に復帰する。
メジャーの大物マイク・グリーンウェルを獲得するも、グリーンウェルは「神のお告げ」という言葉を残しあっさり引退。
ヤクルトに目前胴上げを許したこの年は5位で、中日が最下位に沈んだ。
この年のオフには、中日と2対2のトレードを行い、関川浩一と久慈照嘉を放出し、大豊泰昭と矢野輝弘を獲得した。(久慈と大豊は後に元のチームに復帰する。)
1998年は12年に1度の寅年ということもあり優勝前祝いも行われたが、いざシーズンが始まると調子が上がらないまま最下位に終わる。
この年に優勝した横浜ベイスターズにまたしても目前胴上げを見せ付けられ、吉田は辞任した。
シーズンオフにはこの年までヤクルトを9年間指揮し4度のリーグ優勝と3度の日本一に導いた野村克也を招聘する。
野村が阪神の監督になった1999年は、1日だけ首位に立ったことがあったが、新庄の「明日も勝つ!」発言の次の試合から12連敗を喫してしまう。
結局野村阪神の1年目は2年連続で最下位に終わる。しかし、2軍の方は日本一に輝き、この時の若虎が2003年と2005年の優勝メンバーの中核となる。(関本賢太郎・濱中治・井川慶・藤川球児など)
「阪神二軍日本一、野村阪神首位一日」という言葉で締めくくられた一年となった。
シーズンオフには巨人から広澤克実を獲得しているが、逆に巨人は阪神を解雇されたダレル・メイを獲得している。
2000年も最下位で、20世紀最後の年も最下位で締めくくることとなった。
しかし、この年のドラフトでは藤田太陽(1位)、狩野恵輔(3位)、赤星憲広(4位)、沖原佳典(5位)、藤本敦士(7位)などが戦力になる大成功のドラフトとなった。
ダメ虎から変わっていく兆しが見え始めた2001年。野村は俊足の若手選手7人を「F1セブン」と名付けて売り出そうとした。
ルーキーの赤星(「1号車」)が1年目から盗塁王に輝く活躍で新人王にも選ばれたが、阪神から新人王が出るのは実は1956年の吉田義男以来実に45年ぶりであった。
しかし、肝心のチーム成績は最下位。98年と合わせ4年連続の最下位になってしまう。(2018年に17年ぶりの最下位。)
さらに、妻の野村沙知代が脱税容疑で逮捕される。2002年も続投の予定だったが、沙知代が逮捕されたその日に野村は辞任。公私両面で責任を取る形になってしまった。
また、この年を以って17年に渡り阪神を支えた和田豊が引退し、'85年V戦士はすべていなくなった。
この時期を総評すると、藪、湯船、川尻を中心にそれまでの課題だった先発投手陣はある程度改善してきたものの、30本塁打以上記録した打者が90年代に1人もおらず、(ちなみに89年のフィルダーの次は02年のアリアス)。以前とは逆に打線の弱さが目に付き、3投手ともに打線の援護がなく負け越すシーズンも多かった。
その後
野村監督は自身の後任としてこの年まで中日を指揮していた星野仙一を推薦する。
負け癖の付いたチーム体質を変えられるのは彼しかいないと思ってのことだった。
(ちなみに野村はもう一人、近鉄バファローズを強豪チームに変えた西本幸雄の名前を挙げたが、西本は当時既に81歳だったため叶わなかった。)
そして、野村監督が下地を作り、星野監督が闘魂を注入したことで、ダメ虎は猛虎へと変貌していく。星野監督退任後中村勝広がGMに就任し、岡田彰布、真弓明信、和田豊、金本知憲、矢野燿大が監督を歴任。阪神は暗黒時代を抜け、優勝候補の一角に毎年あげられるようになったほか、特に金本監督以降はスカウティングのうまさもあって「FA・外部補強重視」から「生え抜き重視」路線への転換に成功している。
そして、2023年、18年ぶりのリーグ優勝、38年ぶりの日本一に輝いた……。が、最後の優勝から18年という間隔(2005~2023年)は、奇しくも初の日本一からその次にリーグ優勝するまでの間隔(1985~2003年)と同じだった。(10回も最下位になった17年間と2位が8回あった17年間を比べるまでもないが)