概要
スペルは「political correctness」。
日本語では「政治的正しさ」と訳される。
呼称としては短縮して「ポリコレ」「PC」などと呼ばれるのが一般的である。本記事ではPCで呼称を統一する。
政治的な話題が語られる場において、人種・宗教・性別などの違いによる偏見・差別を含まないとされる、中立的な表現や用語を用いる行為を指す。
PCはリベラル思想的背景を持ち、フェミニズムやLGBTや宗教的少数派などのマイノリティ(≒社会的弱者)への配慮を支持する思想と親和性がある。このためマイノリティ基準の作品では取り上げられ難かった題材や、取り上げても正確性や配慮に欠けて差別的表現になってしまう側面がフォローされやすくなる。
一方で、匙加減を誤るとマジョリティ差別となる逆差別や、被差別者がダブルマイノリティ、他の被差別者を糾弾・差別する等、結果的に『別種の差別に繋がっている』等の批判もあり、一般大衆に「正しい」と共感・納得を得られない面も問題となっている(詳細は後述を読まれたい)。
前歴
元は1980年代以降のアメリカ合衆国において「政治の話題が語られる場」における「特定の人種に対する差別」を防ぐ理由から「そうした意味を含む可能性がある言語や表現をしないようにするべき」とする意識の高まりから使用されるようになったとされる。人種のサラダボウルと称されるアメリカ社会の特殊性がその背景にはある。
1990年代以降には人種に止まらず、宗教や性別、更には職業・文化・民族・障害者・年齢・婚姻に至るまで、同様の配慮が求められるようになり、中にはそのあまり自主規制されるに至ったものもある。PCとは「適切な表現」の追加だけでなく「不適切な表現」の除去や自粛をも含む性質を、歴史的にも備えている実態を示している。
2010年代以降『誰もがスマホでいつでもアクセスできるようになってからは、PCの議論がより活発化・先鋭化し、毎日のように世界のどこかで、PC絡みで何かしらの炎上が起きている』と言われている。
2010年代前半からは宗教右派とされる世界平和統一家庭連合(旧統一教会)が、宗教的マイノリティに対するヘイトスピーチや、朝鮮民族へのヘイトスピーチ防止、更には教義である「環境の浄化」「倫理道徳・家庭教育の再興」にふさわしくない性的コンテンツや、暴力コンテンツ規制の為に推進している。
世界各国の主要メディアや、我々一般市民の生活に欠かせないプラットフォームを提供するような大手企業は、拠点を置く国のマジョリティのみならず、マイノリティや外国人を顧客として持つケースが多いため、おおむねPCに対して賛同的な立場を採る。逆説的に(彼らの定義する)ポリコレに対して反抗的な態度を取る、もしくはそうした顧客・従業員の態度を許容するような企業・個人は取引の打ち切りに遭ってしまう事例も見られるようになってきている。一部R18サイトで、クレジットカードの大手ブランドであるMastercardが使えなくなったのはその一例である。
参考:GIGAZINE『アダルト産業を実質的に規制しているのは政府や国際条約ではなく「クレジットカード会社」だという指摘』
もしこれがGoogleやAmazonから取引を打ち切られたり、個人としても利用できなくなってしまったりすれば生活への影響は甚大であり、結果として彼らの考えるポリコレに対して、盲目的に従わざるを得ない状況に既に追い込まれている状況にある。
「政治的正しさ」の起源と印象
元々「ポリティカル・コレクトネス」という言葉はブリタニカ百科事典の記事によると1917年のロシア革命後に成立したマルクス・レーニン主義と呼ばれる社会主義の語彙に登場したものらしい。
そして2016年1月13日に発行されたワシントン・ポストの記事によると1934年のニューヨークタイムズの記事では「All journalists must have a permit to function and such permits are granted only to pure ‘Aryans’ whose opinions are politically correct. Even after that they must watch their step.(すべてのジャーナリストは活動許可証を取得する必要がありますが、そのような許可証は、政治的に正しい意見を持つ純粋な『アーリア人』にのみ付与されます。その後もジャーナリストは行動に注意する必要があります。)」といった具合にナチス・ドイツの弾圧に対する皮肉として「politically correct(政治的に正しい)」という言葉が使われていた。
「政治の話題が語られる場」における「特定の人種に対する差別」を防ぐ動きが強まり始めた1980年以降
更にColumbia_Journalism_Reviewの2017年6月12日の記事によると、筆者が授業中に政治的に正しい人が持つ政治観について尋ねたらクラスの全員が「リベラル」と答えたようであり、これらの事からポリコレが左翼的な印象を持っている言葉だという事がうかがえる。(左翼と呼ばれる層は「平等」「中立」「リベラル」といった言葉を好む傾向がある)
また、欧米においては政治家の言動や大企業の理念・行動(例えば原材料の調達や従業員の扱いなどがSDGsなどを配慮したものか?)などの文字通りの現実における「政治的」なものにこそポリティカル・コレクトネスが求められるのに対して(フィクションにおけるポリティカル・コレクトネスは現実でポリティカル・コレクトネスが求められるのが余りに一般的になった事による副次的なもの)、日本においては90年代に翻訳された「政治的に正しいおとぎ話」によってこの用語が広く知られるようになったのが一因で、特にポリティカル・コレクトネス批判派においては「表現物に関する話」「半笑い気味で受け取るべきもの」という印象が抱かれている傾向が有る。
因みに2017年3月6日のThe_American_Scholarの記事によると、「ポリティカル・コレクトネス」が「persistent attempt to suppress the expression of unwelcome beliefs and ideas.(望ましくない信念や考えの表現を抑圧しようとする執拗な試み。)」と定義される事もあるようで、実際にポリコレ的思想を持つ人々は否定意見に対して攻撃的になる傾向が強く、たったの一言に噛みついて「憎しみを煽っているだけだ」と過剰反応した実例もある。
これはポリコレを行う人々が「自分達は正しい事をしている」と考えているからであり、2021年1月21日15時に出たPRESIDENT_Onlineの記事によると、従わない者には「社会悪」というレッテルを貼る事もあるようだ。
逆に、ロッテントマトなどでは、ポリティカル・コレクトネス批判派から「過剰なポリコレ配慮」を批判されているような映画が「評論家の評価はイマイチだが、一般観客の評価は高い」などという場合も少なくなく、また、2020年代に入ってからはこの作品のようなテーマそのものがポリティカル・コレクトネス的・フェミニズム的な映画が世界的に大ヒットしたり、ポリティカル・コレクトネス批判派から「ポリコレをガン無視したから大ヒットした」と評価されている作品でも実際には「『原作』では『囚われのお姫様』だったキャラが主人公の師匠・先輩ヒーロー的な『強い女性』として描かれる」「男性主人公とその弟が再会したシーンで、これみよがしに背景にハートマークが」などのポリティカル・コレクトネス的・フェミニズム的・LGBTQ肯定などのシーン・展開が少なくない。
創作物においてポリコレ配慮の有無が評価を分ける要因とはなり得ないといえる。
主な例
名称の変更
PCにおいて最も基本的な運動が、不適切とされる名称の除去あるいは変更である。英語においては、かつて職業を指す言葉に「~man」表記が多かったが、女性の同業者が存在する以上不適切であるとして「~person」などに改められるようになった(例:Policeman→Police officer、Spokesman→Spokesperson等々)。日本でも「トルコ風呂」が「ソープランド」へ、「母子手帳」が「親子手帳」へと変更されるなどしている。過剰な名称変更は時に言葉狩りと見做されもするが、先述のように下手をすれば国際問題になりかねないような名称も過去には存在したため、一般社会の理解を得やすいものも多い。
被害者に偏重し過ぎた不公平
著名人によるハラスメント事件などでは、無論被害者を守るのは当然の行為であり、これは誰もが納得する事案である。
ただし、加害者たる人物の関係者まで及ぶと、極めて複雑な事態に発展する。
加害者の関係者は当然『直接的・間接的を問わず関与の否定』をするが、自らの潔白を主張する余り「絶対にない」等の強い言葉を使用すると「被害者への無配慮な攻撃」と見なされ、事実上の『脅迫』だと糾弾されるケースも起こりつつある。
上記の通り、被害者の意を酌み守るのは当然だが、加害者との関与が疑われる人物の潔白の主張も守られるべきであるにも拘らず、被害者の意見だけを無条件に酌みながら、関与が疑われる人物の意見だけ「この表現では被害者を蔑ろにしている」等と粗を見つけ攻撃するのは、まさしく政治的正しさに反した状況を生んでいる。
また、法治国家内は基本『推定無罪』を基本としているが、電車内の痴漢行為に関しては、ほぼほぼ被害者の証言だけで成立(=事実上の『推定有罪』が横行)している現実もある。
その為、法曹界の中でも「痴漢冤罪の濡れ衣を着せられた場合、本当に潔白ならば駅員に対し『後日話を伺います』等と提案し、そのまま逃げた方が良い(=自分の潔白を晴らす為に、駅員に促されるまま車掌室などに行くのは自首するも同然)」と答えている有識者がいる。
更に、加害者と被害者が裁判になっているケースだと、双方の事情に通じている第三者が「加害者の容疑を晴らす為に証言したい」と声を上げても、被害者並び告発者サイドが「貴方の意見は今回の案件とは別件であり無関係」として封殺する=加害者に対する擁護材料の提出の拒否を行う一方で、被害者並び告発者サイドは『被害者の保護』『情報提供者の保護』を名目に、情報の偏った開示が許される等も罷り通りつつある等々、最早「加害者に関わった人間も同罪である以上、加害者と共に裁かれるのは必然である」との暴論が蔓延し始めている。
娯楽作品におけるPC
近年PCに関連する事例で最も議論を呼ぶのが、娯楽作品の表現へのPC適用である。
- 近年のアメコミは主人公や主要メンバーに、女性や黒人を据える作品が増えているが、これは従来のアメコミの主人公が「白人の男性」ばかりであった経緯への批判から来ている。加えて、現在でも有色人種の役を白人が演じる「ホワイトウォッシュ問題」は、有色人種の役者から成功の機会を結果として奪っている(デンゼル・ワシントンのように型通りの役を断り、正当な意味で評価を受けられる有色人種は稀である)との批判は根強く、例えば「物語の舞台によってはその地域の人種構成に近づけた配役を行うべきである」との主張・提案がされるケースがある。
- 日本含め外国で作られた作品をリメイクする際でも、男女比や人種などの設定を変更するケースがよくある。Pixiv的に馴染みの深い例はパワーレンジャーシリーズで、そのために原作が男性キャラだったのが女性になっていたり、スタメン全員が実兄弟のマジレンジャーやゴーゴーファイブ、親族であるニンニンジャーなどはオリジナルから設定変更が行われている。
- 「PCがアメコミの売上に悪い影響を及ぼしている」との意見もあるが、読売新聞1社でアメリカの三大紙の発行部数を上回るほど活字文化が盛んで、幅広い世代に読まれるのが当然の日本の漫画と、「漫画は子供と一部のマニアの読み物」とする認識が根強い社会で読まれているアメコミを単純に比較は難しい。
- 過去作は、リメイク・リブートの際にPCの要素(性別や言葉遣い、婚姻年齢など)を入れて改変した場合、旧来のファンとの衝突事件が起きる事態もある。
映画『Rub and Tug』では『実写映画の配役に当たってトランスジェンダー役を「実際のトランスジェンダーの役者が演じるべき」と個人や団体が抗議する』反対が起こった(演じる予定だったスカーレット・ヨハンソンは後に降板を表明した)が、この際にも反対を口にした当事者への攻撃が起こっている。こちらはトランスジェンダーの俳優は他に仕事がふられる事態とそもそもの絶対数が、シスジェンダーの役者より少ない状況が背景にある。
- 日本では「めくら」「かたわ」等の昔の作品の表現が、PC的見地から別の言葉や「ピー音」に差し替えられるケースが多い。しかしリアリティを追求する立場や、過去作を純粋に楽しみたいファンからはそれに反対の声があり、作品の最初に「当時の作者や時代背景をそのままお伝えすることにしました」とする断りを入れた上で、差し替えをせずに発表する例も少なくない。
いずれにせよ、重要な要素は作品そのものの構成上は必要の無い、役者や設定変更ありきの不自然な改編がポリコレ問題の根幹である。この為、シナリオ構成や役者演技力、舞台そのものの違い等が合理的な理由が明示されていても尚、設定変更や白人男性以外主役は全てポリコレかのように見做すのは、ポリコレとは何かを見失い結果として的外れな指摘になる点には留意したい。
新作ゲーム、アニメに対する批判
近年では新作ゲームやアニメに美形ではない造形の人物や、被差別人種のキャラクターがいると「PCに屈した」などとの批判を受ける例がある。
もともとこうしたキャラクターはPC流行以前から珍しくはなかったものであるが、『TheLastofUsPart2』の炎上や、『HorizonZeroDawn』で行われた初期デザイン、実在するモデルの顔造形の修正などが話題になり、更にそうした作品の展開に伴って「ゲームに美人を出すこと自体が悪」という趣旨の主張まで行われた事により、界隈に「もはや美形のキャラクターをゲームで扱えなくなるのではないか?」という警戒感が生じたために一部が敏感に反応している状況である。
一連のポリティカル・コレクトネスに配慮し過ぎた結果、従来の表現が不可能に陥るケースも散見されるようになった。顕著な実例はダークエルフで、今までは『褐色肌のエルフ』だったが「有色人種差別を助長する」との声を考慮してからは、褐色肌から青肌に変更されるケースもあれば、オーガやオークと大差ないモンスターにされるケースもある。前者ならまだしも、後者になると「最早ダークエルフと判別し難い上、こうまでするならダークエルフ自体を使うべきではない」との意見もあり、事実上の表現の規制にもなりつつある。
また、身障者への配慮が過度になり過ぎた結果、体の異形や欠損を連想させる風貌のキャラクターは例え神話由来の超越存在、民間伝承の妖怪や妖精、果ては現実世界に存在しない亜人種であっても、ほぼ例外なく五体満足に表現されるケースもあり(TVアニメ版の『悪魔くん』のサシペレレ等が典型例)、結果的に史実の否定や原作レイプを生んでいる側面も秘めている。
近年では更に顔や皮膚の色だけでなく、肌の露出をも過度に規制する傾向も多く見られるようになった。
他にも、海外向けに配信されていた日本のアニメの翻訳を一部のローカライザーによって、意図的に原作の台詞を政治メッセージに変えるケースが目立った。
PC推進を巡る問題
「何が政治的に正しいか」はそれこそ多種多様な意見が存在し、全員が納得いく形での実現は難しい。この為、PC上配慮したつもりでも別の方面でおざなりになってしまったり、あるいは新たな問題を起こし論争と炎上を招くケースも少なくない。
原作で白人だったアリエル・ベル・白雪姫等がリメイクで当然のように有色人種にされた事例は物議をかもしており、人間ですらない人魚はまだしも、白雪姫は「雪のように白い肌」が名前の由来である為に、必然的に白人の中でも限られた人間しか本来は演じられない配役である。
過去の発言を掘り起こして現在のPC基準で断罪する「キャンセル・カルチャー」は、アメリカではドナルド・トランプとバラク・オバマなど、政治的対局に位置するはずの2人の元大統領から批判的なコメントが出る、世界各地でかつて差別的行為を行ったとされる歴史上の人物の像が撤去されるなど、社会的な論争となっている。それどころか、これまでマイノリティとされてきた人達、あるいは「マイノリティの味方」を自称する人達が、マジョリティに対して逆差別とも取れるような言動や行動が現れ始めたとの意見もある。
作り手の側に立てば、マイノリティ側にとっては創作活動や自分達がそこで望む形で表現されるチャンスであるが、一方で文章や画像、映像などの製作における表現が制限される事態にも繋がる。出版物・映像業界のリソースも無限ではないため、単純に制作側の「パイが奪われる」状況にもなる。
更にPC推進論者の中には「『男の子と思われたキャラクターが実は女の子だった』設定・展開は規制・禁止すべき」との暴論まで挙げる層も居る(曰く「多様性が唄われる現代社会で、着衣がボーイッシュかガーリッシュかで性別を決め付けるのは不適当」)
反PC側だけでなく、PC推進側からも「差別があった歴史そのものを抹消しようとしている」との批判もあり、眉をひそめる物は日に日に増えている。女性差別や人種差別を歴史作品から撤廃した結果、悪人の悪行が無くなってしまい、歴史修正の上にシナリオ自体が破綻する実態は、もはやタチの悪いジョークのようである。結果として、現在の過剰なポリコレ・反ポリコレ戦争は、お互いの見たくない物を消す為に都合良く利用し合う結果、お互いに守るべきはずのものまで消えて行ってしまう矛盾を生じせている状態にある。
またPCへの配慮が進むに連れ「多人数の実兄弟ものが作りづらくなる」「昔ながらの従属的な女性を否定するあまり、強い女性ばかりが出てくる」「人種を均等に入れなければならないので、グループもののメンバー構成が似通ってしまう」など、作品の多様性の観点で悪影響が生まれた事例もある。
本質的な話をすれば、ただ多様な人種を出すだけでは、既に批判を受けているマジカル・ニグロや白人の救世主等の焼き直しになりかねないため、登場させた多様なキャラクターは人格を深く掘り下げる事態が望ましいと思われる。
その上、逆に人種の多様性を作品に持ち込んで批判・炎上した実例もあり、TVドラマ『ロード・オブ・ザ・リング:力の指輪』が挙げられる。端的に批判した者達の意見を要約すると「原作=中つ国の住民には褐色肌のエルフはいないから、世界観を破壊する肌の俳優はただちに白人俳優に変えろ」であり、これには製作サイドは当然反論している。
他にも類似したケースでは『スター・ウォーズ』シリーズで白人系ではない俳優が主役に抜擢されるも、後のシリーズで脇役に追いやられるケースもあった。
そもそもこのようなポリコレブームは「社会正義への切なる願いが届いたもの」ではなく、商業的なリスクを及ぼす勢力に媚を売っているだけでしかないのが実情である。商業的リスクを与えられない小規模なコミュニティや、日本人のように国民性として大規模な抗議活動を控えがちな民族に対しては、配慮を欠いた言動が当然のように行われている。
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特別じゃない、しあわせな時間。:極当たり前の家族団欒の光景であるのだが、欧米のPC推進派からは「片親家庭orLGBTを考えていない無神経な描写」と糾弾されている。しかし、それと同じかそれ以上に「PCのせいでこのような光景が見られなくなってツラい」との声も多数挙がっており、現在のPCが如何に本質からかけ離れている実態を端的に示している。
黒人日本文化侵略騒動アサクリシャドウズ騒動が発端となって起こったポリコレ派閥による誤った主張、捏造
おおえのたかゆき:配信者兼ポリコレ評論家。アンチポリコレ派であり、昨今の行き過ぎたポリコレ問題について多角的に分析し、様々な名言を残している。