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尾張国の編集履歴

2013-05-12 04:22:41 バージョン

尾張国

おわりのくに

旧律令国の一つ。

尾張国

 尾張国とは東海道の西端にある国家で延喜式では上国近国と定められていた。「(西国の)おわり」から国名が当て嵌められたという説が有力である。

 北端は内津峠美濃国と隣接し、そのまま入鹿池北側の山脈を国境として犬山美濃国可児まで至り、西端は木曽川に沿って下る。が、この木曽川に始まる木曽三川は度重なる氾濫で知られる暴れ川であり(現在も輪中地域が多数、存在する)、暴雨の折には度々、流れを変えたので美濃国との国境紛争が絶えなかった地域でもある。

 木曽川伊勢湾に流入すると西端は終わり、知多半島をぐるりと一周して境川近辺から瀬戸に至るまでが三河国の国境となる。


項目名データ
明治維新前の石高62万石
尾張国一宮真清田神社


古代の尾張国

 尾張国は文明が成立しやすいとされる巨大な河川(木曽三川)と肥沃な平野(濃尾平野)を併せ持っていた影響で、華南から稲作が伝わると瞬く間に尾張国へと稲作文化が伝播して早くから弥生時代に足を踏み入れていた。片や東の三河国は美濃三河高原からなる中山間地が多く豊富な水量も平野も十分に存在しなかった為に、これが原因で稲作への食料転換が発生せず、隣国ながら中々、縄文時代から足抜け出来ぬ故に、尾張が「終わり」の当て字から国名とされた由来は信憑性が高いともいえる。弥生式土器も尾張国からは多数、発掘されるが美濃国三河国に入るとこれが全く発掘されなくなり、の品種改良が完成する百五十年間、弥生人の勢力拡大は尾張国を東端とするのである。

 やがて弥生時代が終了し古墳時代に突入すると、尾張国は畿内より凡そ百年、遅れて古墳を建設するようになる。これは尾張国にも中央政権に従属する大規模な政治組織が導入された証左でもあり、大和政権の支配力が及んだ証拠といえる。中でも代表例は愛知県春日井市にある二子山古墳愛知県犬山市青塚古墳が著名であるが、最大規模を誇るのは愛知県名古屋市熱田区の断夫山古墳であり、同時にこの断夫山古墳東海地方でも最大規模の古墳となる。

 断夫山古墳に埋葬されたのは日本武尊の后となりながら伊吹山で死亡した日本武尊に操を立てて生涯、独身を貫いた宮簀媛記紀神話では伝えられていたが、年代調査からして古墳が設立された時期と記紀神話の間で齟齬が生じており、現代では尾張国の権力者である尾張国造(おわりくにのみやつこ)、尾張連草香(おわりむらじくさか)の墓ではないかとされており、特に尾張連草香継体天皇の后である目子媛の父であり、この目子媛が産んだ二人の皇子が後、安閑天皇宣化天皇として即位しているので、尾張連草香天皇の祖父に当たるのである。

 従って尾張国は日本武尊宮簀媛の逸話から始まり後の二人の天皇を即位させた点から見ても、当時、畿内を指して日本としていた点からすれば東端の国家として、例外ともいえる早さで六世紀頃から大和王朝とかなり深い繋がりがあったと見る事が出来る。


 続いて古代日本の最大の内乱である壬申の乱では近江朝廷の大友皇子に対して吉野側の大海人皇子が僅かな供回りを連れて美濃国へ脱出し現地で兵力を徴募するが満足な兵数が得られず尾張国に下向、ここで尾張国の国主である小子部連鉏鈎(ちいさこべのむらじさひち)が万単位の兵力で加勢する。この兵力によって小子部連鉏鈎美濃国から近江国大津に攻め入り勝利を収めるが、戦後間もなくして小子部連鉏鈎は山に籠もり一人、自殺してしまう。これは元々、小子部連鉏鈎が実は近江派の人間で頃合いを見て離反するつもりであったが、兵力を分散されて離反する時機を逸した結果、自らの兵で近江朝廷を滅ぼしてしまった事による自責の念とされている。

 とまれ、即位して天武天皇となった大海人皇子小子部連鉏鈎の働きを賞賛しており、大化の改新で国家制度が大きく見直されて地元豪族に頼らず中央から国司を派遣する仕組みとなると、尾張国造、尾張連は新たに派遣された国司の元で郡を管掌する郡司となった。

 同時に尾張国ではに続く莫大な財源として五世紀頃、愛知県猿投山の広域(猿投山西南麓古窯跡郡。猿投窯)で大量かつ良質の陶器を生産し資源が枯渇した畿内方面へと売り捌く事で莫大な富を得た。猿投窯はそれから室町時代の十五世紀、隣接する瀬戸窯や三河湾側の常滑窯、隣国の美濃窯が出現するまで約九百年の間、日本陶器生産を支える事になる。


平安時代鎌倉時代の尾張国

 平安時代においては先述の通り皇室の外戚となる一族を生むものの、次第に畿内の中央集権内で藤原氏を筆頭とする公家衆が権力を掌握していき、その一方で権力拠点からの距離として遠く離れた尾張では中央権力へと接触する機会も少なくなり、文化水準こそそれなりのレベルを保つが政治的影響力そのものは低下していく。これは平安時代が暮れて公家政権が衰退し武家政権が台頭してきたときも同様であったが、公家政権時と武家政権時とで異なりを見せたのは、平氏棟梁である平清盛後白河天皇を擁立して源義朝を敗走させた平治の乱で戦後、尾張に敗走してきた源義朝をかくまう動きを見せながら最終的に知多野間大坊で舅である長田忠致とその子である長田景致が離反し源義朝を謀殺。そして源義朝の子である源頼朝を脱出して関東相模国鎌倉)へと逃亡し関東武士を纏めるに至ると、前者はまさに当事者、後者は尾張が西国を拠点とする平氏関東に地盤を得た源氏の軍事的境界線になってしまった点にある。尾張の誰しもが望む望まざるに関わらず中央政界の騒動に巻き込まれる形となり、自らの旗幟を鮮明にする必要に迫られたのである。

 そうした中で平安末期の尾張三河守護職に平氏を頂いていた事から旧来より朝廷からの影響力が強かったのだが、治承の乱寿永の乱治承・寿永の乱源平の戦い)で後白河法皇平氏棟梁、平清盛との対立が決定的になると、後白河法皇の皇子である以仁王源頼政の後援を受けて平氏に対して挙兵し、尾張の諸勢力は平氏に反旗を翻す事となる(平氏の強大な支柱であった平清盛治承・寿永の乱の最中に熱病で逝去)。が、積極的に政権打倒へと動いたかといえばそうでもなく、源氏棟梁である源頼朝には全面的に協力せず、源行家木曾義仲といった傍流の勢力に多くが荷担する、やや日和見的な行動に終始する。

 平清盛亡き後、尾張では治承五年(西暦1181年)、盤石となった関東を討伐する為に中央より派遣されてきた平重衡平維盛の軍勢と源行家、援軍である源義円の連合軍が墨俣川(現、長良川)で激突する。これが墨俣川の戦いであるが、この戦いに源氏軍は敗戦。源行家の次男、源行頼が捕虜となり、源義円源重光源頼元源頼康が戦死、源氏軍六百九十余名が討ち取られるという手痛い敗戦を喫する事になった。こうして平氏は尾張以西の支配を回復するのだが、全国的な飢饉で兵站の不安が発生すると源頼朝本隊への警戒も重なって平氏軍はへの撤退を余儀なくされ、先の先勝も虚しく結局は東国の鎮定に失敗、後に平氏政権は壇ノ浦の戦いで滅ぼされるのである。

 平氏が討伐されると純粋な武家政権の鎌倉幕府が樹立するのだが、源頼朝の実子は三代の歴史を重ねる間に次々と暗殺され、源頼朝の正室である北条政子鎌倉殿の政務を代行し、北条執権である北条義時がこれを補佐する北条執権体制へと移行する。

 北条政子は新たなる鎌倉殿として雅成親王を迎えたいと後鳥羽上皇に願い出るが、鎌倉幕府が成立してから新たに設けられた荘園への地頭制度が税の滞納をたびたび起こす事もあって両者は微妙な関係にあった為に結局、後鳥羽上皇は近臣である藤原忠綱鎌倉に送り、雅成親王を送るにあたって様々な条件を付けた。

 この条件に対して北条義時幕府の根幹を揺るがしかねぬと拒絶し、最終的に鎌倉幕府皇族将軍の擁立をあきらめて摂関家から将軍を迎える事とし、承久元年(西暦1219年)六月に九条道家の子である九条頼経鎌倉殿として迎えた。が、この将軍後継問題は後鳥羽上皇北条義時の双方にしこりを残した。

 後、後鳥羽上皇が鎌倉調伏の祈祷を行っていた事が内裏守護の源頼茂に露呈すると後鳥羽上皇西面武士にこれを攻め滅ぼさせ、幕府朝廷の緊張は高まっていく。結局、後鳥羽上皇鎌倉倒幕の意志を固め源義時調伏の加持祈祷を大々的に行いながら挙兵する。承久の乱の開戦である。

 これに対して尾張三河の国人衆は多くが朝廷側に与した。これは源頼朝に対する恩顧、これを傀儡とした北条家への不満、加えて尾張三河地域に多く存在した天皇家や摂関家、寺社領の関係から、これらの荘園地頭幕府の御家人であると同時に、本家である朝廷藤原氏と主従関係を結んでおり、側にシンパシーを持つ者が多かったのである。こうした点から朝廷側は幕府軍には碌な兵力も集まらないであろうと楽観していたのだが、鎌倉では北条政子が一世一代の大演説を行い結束力は最大に高まり、関東武士十九万が幕府軍に与するのである。

 幕府軍と朝廷軍が最初に激突したのも実のところ尾張であり、先手を打ってへと電撃的に攻め込む作戦をとった幕府軍は朝廷側の予想を無残にも打ち砕く十九万という兵力を東海道東山道北陸道の三手に分け西進。六月五日、尾張一宮に主力の東海道軍は鵜沼池瀬板橋魔免戸墨俣など木曽川墨俣川(現、長良川)各所の渡河地点に軍勢を集結させ橋頭堡を確保した。

 対して朝廷側は東海道方面の大将、藤原秀澄の作戦より一万二千の兵を十数カ所に分散配置して持久策を取った。この戦術に異論を唱えたのが尾張山田庄の有力国人である山田重忠だった。山田重忠は軍勢を一転集結して墨俣川を強行突破し、尾張の国府を打ち破って幕府軍の主力を強襲し一気に鎌倉まで攻め入ろうという積極策を進言した。が、臆病な上、戦術に疎い藤原秀澄幕府軍の東山道北陸道を進む軍勢に背後を突かれるのを恐れ、この献策を退けた。その結果、唯でさえ少ない兵力を分散配置してしまった朝廷軍は虱潰しに各個撃破され、墨俣の防衛戦は幕府軍の勝利としてあっけなく片付いてしまったのである。

 朝廷軍の藤原秀康三浦胤義美濃尾張の戦線を支えきれないと判断し、宇治近江瀬田を守るとして早々に退却を決める。六日に幕府軍の北条泰時北条時房の率いる主力の東海道軍十万騎が渡河を開始し、墨俣の陣に攻めかかった時には既に朝廷軍は撤退してもぬけの殻であった。幕府軍は難なく渡河を成功させ進軍を続け、山田重忠のみが杭瀬川で奮戦するが結局、朝廷方は総崩れになり大敗を喫する事となる。

 敗走した朝廷方の藤原秀康三浦胤義山田重忠は最後の一戦を試みようと御所に駆けつけるが、後鳥羽上皇は門を固く閉じて彼らを追い返してしまい、山田重忠は「大臆病の君に騙られたわ」と門を叩き憤慨した。


 こうして朝廷軍の敗戦が決定的になると後鳥羽上皇幕府軍に使者を送り、この度の乱は謀臣の企てであったとして北条義時追討の院宣を取り消し、掌を返して藤原秀康三浦胤義らの逮捕を命じる院宣を下す。後鳥羽上皇に見捨てられた藤原秀康三浦胤義山田重忠ら朝廷方の武士東寺に立て篭もって抗戦するが、三浦義村の軍勢がこれを攻め、藤原秀康山田重忠は敗走し、三浦胤義は奮戦して東寺で自害した。その後、山田重忠も落ち延びた先の嵯峨般若寺山で自害、藤原秀康河内国において幕府軍の捕虜となった。


 この承久の乱の敗戦より朝廷織田信長豊臣秀吉が権力を立て直すまで暗黒時代に突入し、催事一つ催すにしても幕府に一筆を送って裁可を仰がねばならぬ程に凋落するのである。



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